第千六百九十九話 謀(一)
夜中、不意に目が醒めた。
夢は見なかった。眠りに落ちる寸前に聞いた声のせいかもしれない。魔人の声は、悪夢さえも見せてくれはしないのだ。彼女は、あまりに現実的すぎた。彼女の存在ほど、地獄に堕ちたセツナと現実を繋ぎ止めるものはなかった。そのせいか、いまでもアズマリアのことを考えると、現実を直視せざるを得なくなる。夢想している場合などではなくなるのだ。
それは決して悪いことではない。
目の前の現実を見なければならない時が来ている。
気配が、暗闇の中にあった。
暗闇だ。窓もない一室。外光が入り込んでくる余地もなければ、魔晶灯も点けられていなかった。真の暗闇といっても過言ではないほどの暗黒が視界を覆っているのだが、さっきまで眠っていたためか、闇に目が慣れていた。そのおかげで、すぐ側にいる気配の主を見ることができたのかもしれない。
シルヴィール=レンコードが、寝台の縁に座って、こちらを見ていた。見たところ、軍服の外套を脱いだだけのようだが、それだけで女性らしい肢体が浮き彫りになっている。
「……なにやってんだ、あんた」
問うと、細長い指がセツナの唇に触れた。静かにしろ、とでもいいたげな仕草だったが、指先が震えていて、説得力がなかった。セツナは、困惑しながらも起き上がろうとしたが、できなかった。シルヴィールが、おもむろにセツナの上に跨ってきたからだ。鍛え上げられた体は、筋肉のせいもあって、重い。
よく見えないが、彼女は妙に緊張した面持ちでこちらを見下ろしているようだった。なにかを覚悟している、そんな表情。
「なんの真似だ?」
「女の口からいわせるのですか?」
シルヴィールが、ようやく口を開いた。声も、震えていた。
「……理屈に合わねえよ」
「なにが」
「あんたは俺を嫌っているはずだろう」
「嫌ってなど、いませんよ」
シルヴィールは、そういうと、顔を近づけてきた。彼女の両手がセツナの顔を包み込む。
「むしろ、好意を抱いている」
「嘘だな」
セツナは、シルヴィールの目を見据えて、断言した。彼女がセツナにこのような行動に出てしまうほどの好意を抱いているわけがない。確信がある。確かに彼女はセツナに同情的であったし、神人災害の処理に関することには感謝してくれてはいた。だが、それだけだ。
「嘘では」
「じゃあ、なんでそんなに思い詰めた顔をしているんだ?」
眼前まで近づいてきた彼女の顔は、緊張と覚悟で強張っていた。シルヴィール自身は、なんとか笑おうとしているようなのだが、決して笑顔にならない。本心からこのようなことをしているわけではないことがわかる。
「……それだけ、あなたのことを想っているのです」
「はっ」
セツナは、突き放すように笑い飛ばした。彼女のような覚悟でもって自分の前に現れた女性のことを思い出していた。ユノ・レーウェ=マルディアのことだ。十代前半の少女に過ぎなかったユノは、自国を救いたい一身でセツナに取り入ろうとし、そのために自分の体を差し出してきたのだ。彼女の涙ぐましいほどの覚悟と決意にセツナは心動かされたものだ。シルヴィールがなぜ、そのような覚悟をしなければならないのかはわからないが、彼女の行動には、セツナの心が揺り動かされることはなかった。
それは、ユノとシルヴィールの根本的な立場の違いもあるだろうし、自発的かそうでないかの違いもあるはずだ。
「信じられないな」
「信じられなくとも、構いませんよ」
「なにが望みだ?」
「なにも」
「……は」
笑うしかないとはこのことだ、と想いながら、セツナは、手を掲げた。びくりと震えるシルヴィールを無視して、彼女の頬に触れる。冷え切った頬は冷たく、柔らかい。シルヴィールは、無反応であろうと務めているようだった。表情も強張ったまま、変わらない。セツナは、シルヴィールの頑張りを哀れに想った。彼女が望んでこんなことをしているわけではないのは、見ればわかる。本人の意思であるなら、もう少し、表情も柔らかくなるはずだろう――というのは、勝手な思い込みだろうか。
「市長の差し金か」
「なにを仰られます。これはわたしの本心からの行動ですよ、セツナ殿」
「市長は、そこまでして俺をここに引き止めておきたいのか」
「ですから」
「市長の望みはなんだ?」
セツナは、シルヴィールの台詞を遮って、彼女の目を見据えたまま問うた。緊張感に満ちた瞳の奥、恐れがある。彼女が恐れるものとはいったいなにか。シルヴィール=レンコードがどういった人物で、どういった考え方の持ち主なのかを思い起こせば、ある程度は想像がつく。
仕事に全霊を注ぐ彼女が恐れるのは、任務を失敗し、役割を果たせなかったときのことではないか。
そして、彼女にそのような覚悟と緊張をもたらしうるのは、市長マルカール=タルバー以外に考えられなかった。
市長の望みが、今日の会談時のまま、ただセツナをサンストレアに引き止めたいというだけならば、まだいい。強引に引き止められようと、脱出することくらい難しくもなんともない。問題は、他に目的があった場合のことだ。マルカールは善人だが、その目的がセツナの人生を阻害するものであれば、打破しなければならないかもしれない。
「市長ご自身が神人に対抗できるのなら、俺は不要だろう? 俺をここに引き止めたがっている本当の理由はなんなんだ? 目的は?」
「市長のお考えなど、わたしには図りかねます。わたしはただ、セツナ殿、あなたを必要としている。ただそれだけなのですから」
「そんな戯言を信じると思うのかよ」
シルヴィールがセツナの顔を包み込んでいた手を離すと、胸の上に置いた。そして、心音を確かめるように、みずからの耳をセツナの胸に重ねてきた。そんな艶やかな仕草にも、セツナは、冷ややかな視線を返すしかない。
「あんたが仕事熱心なのは認めるよ。生真面目で、融通がきかなくて、頑固者で。感服するよ。あんたみたいな仕事人間は嫌いじゃない。社会はそういうひとたちが支えているものな。俺とは違う」
「あなたも、ガンディアの英雄と呼ばれるほどの功績を上げてきたではありませんか。あなたこそ、尊敬に値する」
「だから、俺に抱かれようって?」
「あなたとの間に子供を設けることができれば――」
「冗談」
「……ではありませんよ」
シルヴィールが、こちらを見上げるようにして、にこりと笑いかけてきた。状況が続きすぎて、緊張が溶けてきたのかもしれない。これまで様々な修羅場を潜り抜けてきたのであろう元騎士にとっても、このような役割は初めてだったようだが、それも時間が経てばなんとかなるものらしい。表情が和らぐと、闇の中に浮かぶ彼女の顔は美しさを取り戻した。ぞっとするほどの色気が漂い始めている。
(これはまずいな)
仕事への熱意がシルヴィールの行動を積極的なものにしているようだった。このまま勢いづけば、強引に押し切られるかもしれない。そうなったら目も当てられない。
(馬鹿げている)
口には出さず、胸中でつぶやく。なにもかも、馬鹿げている。マルカール=タルバーを善人だと想い、尊敬すら抱いていた自分も、そんなマルカールにいいように操られているシルヴィールも、裏で糸を引いているのであろうマルカールも、この街も。なんだか、なにもかもが馬鹿馬鹿しく思えてならなかった。
この馬鹿げた空気感は一体何なのか。
なぜ、自分がシルヴィールのような仕事一筋の真面目人間の人生を狂わせなければならないのか。シルヴィールにとって、このような出来事が本意であるはずがない。これがもし、本当にシルヴィールの本心からの行動であれば、シルヴィールを見る目まで曇っていたということになるし、シルヴィールの思考回路が狂っているということになるが、それならそれで笑えるからいい。
問題は、この真面目なだけが取り柄のような仕事人間は、任務を果たすことだけを考えてセツナに抱かれようとしていることだ。こんな馬鹿げた話はない。それがサンストレアのためになるのだとしても、マルカール市長からの密命なのだとしても、だ。
セツナは、シルヴィールに乗っかられたまま上体を起こすと、驚いて少しばかり後退った彼女の体を引き寄せた。長い髪が鼻にかかる。女性特有の柔らかさを持った肉体の感触を楽しんでいる余裕などはない。引き寄せた瞬間、シルヴィールがびくりと震えたのを確認できただけでセツナは満足した。どれだけ覚悟をしていても、恐れがある。もしかしなくとも、男性経験がないのかもしれない。ならばなおさら、このような馬鹿げた真似をさせるべきではなかった。
「あんたはいい女だよ」
耳元で囁くと、彼女はまたしても震えた。
「では、セツナ殿……いえ、セツナ様――」
「ああ」
うなずいてから呪文を唱え終えるまでの時間は、わずか数秒だ。
「武装召喚」
囁きとともに生じた爆発的な光は、シルヴィールの視界を白く染め上げたに違いない。そして、彼女が愕然としている間にセツナの右手の内には長杖が出現している。奇妙な髑髏の装飾が特徴的な杖――ロッドオブエンヴィーを手にした瞬間、彼はその能力を発動していた。視界から一瞬、シルヴィールの姿が消え去り、体が軽くなる。
「セツナ様――!?」
シルヴィールの悲鳴を聞きながら寝台を降り、すぐさま頭上を見やる。闇の中、シルヴィールの姿がぼんやりと浮かんでいる。ロッドオブエンヴィーの口から伸びた闇の手がシルヴィールの長身を鷲掴みにし、天井近くで宙吊りにしていたのだ。それを確認してから、セツナはロッドオブエンヴィーの能力・闇撫を操り、シルヴィールを寝台に下ろした。彼女は、きょとんとした表情でこちらを見た。
「あんたの仕事熱心ぶりには敬服するよ。本当、あんたほどの人間は、そういないさ」
「セツナ様、それならば……!」
「けどさ、それとこれとは別なんだよ。俺は、ここにはいられない。そのことを明日、正式に伝えるつもりだった」
サンストレア市内を見て回ったのは、その決心を固めるためだった。被害状況を見て、それでも自分の心が揺れ動かないことを確認したかったのだ。唯一の目的以外は黙殺できるある種の薄情さ、非情さを持っている事実を理解することで、迷いなくサンストレアを去ることができると想ったのだ。
一夜、過ごすことにしたのは、即答ではマルカールに悪いと想ったからだが。
どうやら、そこまで遠慮する必要のある相手ではなかったようだ。
「まさかあんたを使ってまで俺を引き留めようとするとは思わなかったよ」
「ですからわたしは……!」
「いいさ、それで。直接聞きに行くだけだ」
「セツナ様まさか!?」
「ああ、そのまさかだよ。いまから挨拶してくる」
セツナは、寝台の上でじたばたともがき始めたシルヴィールを冷ややかに見つめながら、告げた。
「寝込みを襲ってきたのはそっちなんだ。深夜訪問の無作法くらい、許してくれるよな?」
「許すものか!」
シルヴィールが睨みつけてくれたおかげで、セツナは少しばかり心が軽くなった。彼女がしおらしい態度を取り続けたのであれば多少なりとも心苦しかったのだが。
「そういう勝手な言い草はなしだぜ」
セツナは、闇撫でシルヴィールを拘束したまま、ロッドオブエンヴィーを寝台に突き刺すと、もがき続ける彼女を放置したまま部屋を出た。シルヴィールには悪いが、彼女の相手をしている時間がもったいなかった。闇撫を維持し続けるということは、消耗もし続けるということなのだ。黒き矛と眷属の力の使い方に関しては、以前にもまして格段に良くなっているものの、だからといってセツナの精神力が無尽蔵にあるわけではない。
限られた精神力が尽きる前に、この馬鹿げた茶番を終わらせるべきだ。
セツナは、建物を出ると、新たにメイルオブドーターを召喚し、夜空を舞った。