第百六十九話 後手悪手
ミレルバス=ライバーンの元にナグラシア陥落の報が届いたのは、十日のことだ。ガンディア軍にナグラシアを制圧されたのが八日。情報の伝達に二日を要している。
ザルワーンの首都たる龍府とナグラシアの距離を考えれば仕方のないことだ。情報の伝達手段も限られている。陸路の早馬か、空路の伝書鳩。空路のほうが断然早いが、正確性は陸路に及ばない。
ミレルバスの元には、空路で届いている。ナグラシア市民が飛ばした鳩がゼオルに報せ、ゼオルから龍府に伝えられた。
その報告が龍府にもたらされたとき、ミレルバスですら驚いた。
ガンディアは、数日前まで戦いの準備すらしていなかったはずだ。その前段階というべき状態だったのはずなのだ。
マイラムを訪れたレオンガンドが、《白き盾》との交渉に入ったという情報は手に入れていたし、恐らく契約は結ばれるだろうとの見解も得ていた。それこそ今後のザルワーン戦を見据えての行動であり、とてもいますぐ戦端を切り開くつもりでマイラムを訪れたようには思えなかった。
だが、現実は、ガンディア軍によって国境は破られ、ナグラシアは陥落した。いまさらレオンガンドの行動をとやかくいっても仕方がない。
突発的な事態に、ミレルバスはナーレスが側にいないことを悔やんだが、彼がガンディアにとって不利益となるような策を練るとも考えにくくもあった。彼はガンディアの工作員であり、いまは獄中の身だ。
彼の拘束がガンディアに知れるのは当分先のことであり、そう考えればガンディア軍の侵攻もわからなくはない。突発的に侵攻したとしても、ナーレスによる援助を受けられると考えていたのだろう。確かに、ナーレスが軍師として采配を振るっていれば、ミレルバスは安心して任せていたかもしれず、そうなればガンディア軍にとって有利な状況へと密やかに導かれていたかもしれない。
だが、彼はもはやミレルバスの隣にはいない。反逆者なのだ。本来ならば洗いざらい吐かせたあと、煮るなり焼くなりするべきなのだろうが、ミレルバスは彼の才能を愛していた。才能に罪はない。むしろ、人間の才能こそ、この世において至上のものだと、彼は思っている。だからミレルバスは、たとえ罪人であっても、才有るものは生かしたし、場合によっては登用した。
ミレルバスは、人格よりも才能を信じた。人間の性格など、まばゆい才能の前では霞むものだ。
ともかくも、ミレルバスは、みずからの手足たる面々と、ザルワーン軍を統括する神将セロスを集め、軍儀を開かざるを得なかった。
ナグラシア方面からつぎつぎと入ってくる情報を精査し、必要なものだけを頭に入れる。
ナグラシアに駐屯していた第三龍鱗軍は、ガンディア軍の猛攻に耐えきれず半壊、翼将以下約七百名はナグラシアを放棄し、スルークの第七龍鱗軍との合流を目指す――翼将ゴードン=フェネックの報告は簡潔なものだったが、その分、彼らが置かれた状況はわかりやすかった。
だが、これでは敵軍の陣容が見えてこない。少なくとも第三龍鱗軍を壊走させる程度の戦力は投入されたようではあるが。
ガンディアは本気でザルワーンとの戦争を始めるつもりなのか。それとも、ナグラシア周辺の領土を切り取るだけで満足なのか。それがわからなければ、戦略の立てようもない。
無論、ナグラシアの奪取は優先しなければならないのだが、かといって、そのために戦力をかき集めるのもすぐにできるというものではない。
幸い、ジナーヴィ=ライバーンに聖将位を与え、軍の編成権も持たせている。彼は龍府を南下し、いまはゼオルにいるはずだ。スルークの軍勢も吸収しているかもしれない。二千人程度には膨れ上がっているだろう。
当初、彼にはガンディア侵攻の先陣を担ってもらう予定だった。予定は狂ったが、彼にはナグラシアを奪還し、そのまま侵攻のときを待ってもらうのもいいだろう。ナグラシアからマイラムに攻め寄せるのと同時に、バハンダールからもレコンダールへと侵攻させる。ザルワーンの戦力が整えば、多方向同時侵攻も可能となる。
ジナーヴィは、ミレルバスの次男だ。十年間、魔龍窟という地獄で鍛え上げられた武装召喚師であり、能力は申し分なかった。人格はこの十年でどう変わったのかはわからないが、ミレルバスの知る限りでは家族想いの優しい少年だった。
十年振りの再会。
ジナーヴィが涙を流したのを、ミレルバスはいまも覚えている。彼に苦難を強いたのは自分だ。当時の自分には、彼を差し出すことでしか、家族を護ることができなかったのだ。無念ではあったが、諦めもあった。
マーシアスの暴政には終わりが見えていた。次代が来る。そのとき、頂点に立つのはミレルバスでなければならない。でなければ、ザルワーンは将来を失うだろう。
そして、彼が国主となり、ザルワーンの国政の一切を取り仕切るようになった。
それから七年。
状況は大きく変わった。
十日の軍儀で決まったことといえば、ガンディアとの全面戦争に備えて人員の配置を変えることだった。
ナーレスが腕を振るった軍の改革は、一見すると華々しく、見事なものだ。各分野に隠れた才能を発掘し、才能を発揮できる部署に配置する。膨大な量の人材を適材適所に配置し直すのだ。並大抵の仕事ではなく、だからこそミレルバスは彼の才を愛してやまない。
しかし、その改革の裏に潜んでいたのは、将来のガンディア軍のザルワーン侵攻であり、その際には役に立たなくなるような人材こそ重要な役職につけていた。
ミレルバスが彼の真意を知ったのは拘束後のことであり、再編に動き出そうとしたところをガンディア軍に攻められたのだ。
後手に、回っている。
「スマアダの軍勢は一部をマルウェールに移し、ガロン砦への牽制としましょう。現状、ベレルに動きは見えません。積極的外征派だった騎士長グラハム・ザン=ノーディスが失脚して以来、ベレルは国外への関与に消極的な姿勢を見せています」
セロス=オードの提案に、ミレルバスは卓上の地図を睨んだ。ザルワーン南東の街スマアダ。第四龍鱗軍千名が駐屯するこの街は、ベレルとジベルというふたつの国の国境ほど近く、隙を見せれば二国のうちのいずれかが手を出してくる可能性がある。
ガンディア軍によるナグラシア制圧の報は、両国の耳にも入っていることだろう。セロスのいうようにベレルが手を出してくることはなさそうだが、ジベルはそういうわけにもいかない。彼の国はザルワーンとの誼を結びたがっていたが、蔑ろにされたことを恨み、いまでは敵愾心を露わにしているという。実際、ガロン砦のグレイ=バルゼルグを援助しており、グレイ軍によってザルワーンが乱れたところに現れ、領土の切り取りを行おうと画策しているに違いない。
「だが、ジベルが動く可能性がある」
であればこそ、スマアダの軍を動かしたくはない。たった千人なのだ。国境付近の防衛拠点の兵力を合わせても、千五百に満たない。そこから兵力を割くなど、どうぞ攻め取ってくださいといっているようなものだ。
「では、ガロン砦はどうなさるのです?」
問われて、ミレルバスは黙った。
ザルワーン東部旧メリスオール領の西端に位置する砦には現在、グレイ=バルゼルグ配下の三千名が留まり、ザルワーンを睨んでいる。彼が離反したのは痛かったが、それだけならばまだ対処のしようもあったのだ。
ザルワーンの代名詞であり、最強部隊としてその雷名は近隣諸国に轟いていた。猛将グレイ=バルゼルグと麾下三千名。されど三千人なのだ。ザルワーンの全軍を動員すればその五倍近くに及び、いかなグレイ=バルゼルグとはいえ、手も足も出ないままに撃滅できただろう。
だが、グレイ軍の殲滅のためだけに全軍を動かすのは現実的ではない。使っても三倍の九千人くらいだろうか。それでも、余裕を持って戦えるのではないか。もちろん、グレイの部隊が多少の戦力差などものともしないのは知っているし、だからこそ恐ろしいのだが。
砦を長期攻囲するのもいい。バハンダールを陥落させたときのように、ゆっくりと時間をかけて滅ぼすのも悪くはなかった。ただ、そのための時間と人員が、いまは惜しい。
グレイにも才能がある。稀有な将才に恵まれた彼もまた、ミレルバスのお気に入りの部下だった。だが、あるときを境に彼とは距離を置かざるを得なくなった。
彼の信頼を踏みにじり、裏切ったからだ。
(その代償がこれか、グレイよ)
マルウェールを越え、龍府までも睨むグレイの布陣に、ミレルバスは、臍を噛む想いがした。
ガロン砦という存在は、ザルワーン軍全体の動きを抑える役目を果たしている。マルウェールやスルークの兵を動かせば、グレイはその隙を見逃さずに進軍を開始するだろう。少数では抑えきることなど敵わず、グレイ軍の龍府侵攻は果たされる。
いや、五方防護陣が機能している限りは、そう易々と龍府には近づけまい。だが、その進軍路の部隊が蹴散らされれば、ザルワーン軍の戦力低下に繋がるのは明白だ。マルウェールが攻め落とされでもしたら、首元に刃を突き付けられるようなもの。
グレイ軍が動き出せば、ガンディア軍が呼応するのは間違いない。逆にガンディア軍がザルワーン領内に部隊の展開を始めれば、グレイもまた、座して待つなどということはあるまい。
「放置はできない。が、スマアダの軍を割くこともできまい。それに、グレイ軍が動き出したとして、マルウェールとスルークを無視し、ファブルネイアに直行する可能性もある」
都市を攻撃して兵力を損失するよりも、一直線に龍府を目指すほうが、可能性は高いのではないか。そして、二都市を黙殺して龍府へと特攻する場合、二都市の軍勢に背後、あるいは横腹を衝かせることもできる。もっとも、グレイがいままでのように堅実にいくのならば、どちらかに軍を進めるに違いないのだが。
「その可能性ももちろん考えましたが、マルウェールの兵力の増強は考えるべきかと」
「そうなのだがな」
ミレルバスが頭を悩ませるのは、ザルワーンの総兵力の配分についてだ。
ザルワーン総兵力は公称一万八千である。そのうち、七千五百が龍府の戦力だった。龍眼軍二千に、第一から第五龍牙軍の総勢五千五百。龍府の周囲五ヶ所に作られた砦――通称・五方防護陣との相互作用により、その防衛力は数倍にも膨れ上がるといわれている。五竜氏族の家名を冠した砦にはそれぞれ千人が配置され、南方のヴリディアのみ千五百人の兵力を有していた。
ザルワーンの各都市に駐屯している第一から第七までの龍鱗軍はそれぞれ千人の軍勢であり、ナグラシアだけが千五百人なのは、ガンディアとの国境に面してしまったからだが、同じくログナーに隣接しているバハンダールに人数を追加しなかったのは、ひとえにバハンダールが難攻不落だからだ。攻めるのは難しく、護るのは容易。五百人でも十分だというのは、翼将カレギアの言葉だったが、嘘ではあるまい。通常の組織では、バハンダールを落とすことなどできはしないのだ。
そして、ザルワーンの国境各地にある防衛拠点にはそれぞれ二百人が配置してあり、これが十箇所で二千人。
総勢一万五千である。しかし、防衛拠点の人員を動かすわけにはいかず、実際に動かせるのは一万三千に過ぎない。公称一万八千とは、グレイの三千名を加えていたころの数なのだ。その三千が、ごっそりと抜け、敵対した。
そこへ、ガンディア軍の襲来である。
ザルワーンが後手に回るのも仕方がなかったのかもしれない。
その日の会議で、ガロン砦への対応の結論は出なかった。
ガンディア軍の先発部隊がナグラシアを発ったという報告が飛び込んできたのが十五日――今日のことだ。
ナグラシアを出て西に向かったということは、ルベンでも攻め落とそうというのだろうか。まさかバハンダールではあるまい。バハンダールは、ザルワーン軍ですら攻めあぐねた不落の城塞都市なのだ。急遽侵攻してきたような軍勢に制圧できるような代物ではないのだ。
広大な湿原と小高い丘。丘の上の城塞都市からは湿原全体が丸見えであり、湿原を進んでくる敵軍を弓と矢だけで制圧できるというのだ。それを、ザルワーンは何度もやられている。ゆえに、バハンダールの難攻不落は、ザルワーン国内で神話の如く輝いている。
「ミリュウらをルベンに回しましょう」
「そうだな……」
ミリュウ=リバイエンを筆頭とする武装召喚師三名には、天将位を与えている。
天将とはザルワーン軍の中でも龍牙軍を指揮する資格を持つもののことであり、聖将に次ぐ将位だった。その下に翼将があり、聖・天・翼の三将位はザルワーンに古くから伝わるものだ。そこに神将位を加えたのは、ミレルバスの独断だったが、それはセロス=オードの積年の功に報いるためであり、彼の才能を愛するが故でもあった。
ミリュウら天将三人には、龍牙軍から寄せ集めた二千名をつけている。集めるのに時間がかかり、三人は未だビューネル砦に留まっていたはずだった。
「ミリュウをルベンに向かわせるそうだな」
ミレルバスの私室を訪れた男が、開口一番にいってきた言葉に、ミレルバスは目を細めた。 会議が終わり、一時間も経っていない。
「耳が早いな」
「わたしを馬鹿にしたものではないよ。これでも君の影だ」
「影か」
ミレルバスは内心自嘲したくなったが、表情には毛ほども出さなかった。オリアン=リバイエン。魔龍窟の総帥であり、前国主マーシアスより外法を受け継いだ人物である。彼もまた才能に溢れた人間であり、ミレルバスが彼を重用しているのもそれが原因だ。人格はいくらでも偽れるが、才能は嘘をつけない。
「卑下することもあるまい。だれもが心に影を持つ。君は、外に影を作ったことで、光で有り続けることができている」
「わかっているさ」
ミレルバスは、オリアンの目を見ていた。相変わらず正気なのか狂っているのかよくわからないが、それが彼の正常ならば、狂ってはいないということかもしれない。
「ところで、ミリュウがどうかしたのかね」
ミレルバスが不思議に思ったのは、オリアンが戦術や戦略に興味を持たない男だからだ。軍の動きに口を出すなど、珍しいことだった。彼は、なにがおかしかったのか、表情だけで笑った。
「ミリュウには天将位か、と思ってな」
「……そんなことか」
「血を分けた子に聖将位を与えた君もまた、血縁などという繋がりに幻想を抱く愚者なのかな?」
オリアンの目が、皮肉に歪んだ。五竜氏族による支配の交代制度に異を唱え、才能による改革を謳うミレルバスらしからぬ人事ではあった。
「おまえも、娘の扱いを気にしているようだが」
「違うな。わたしは君の言動が腑に落ちないだけさ。ジナーヴィに聖将たる才はあるか?」
「十年」
ミレルバスは、瞑目した。瞼の裏に浮かぶのは、若きジナーヴィの屈託のない笑顔だ。十年振りにあった彼とはまったくの別人といっていい。ミレルバスには想像もできない地獄を見てきたのだ。当然だった。
「十年、地獄に追いやっていた。やっと外に出たと思ったら前線に送られるものの感情を考えたまでだ」
「戦が終われば取り上げる、か」
オリアンが冷ややかに笑う。
ミレルバスは否定もしなかった。
「戦功次第だ。彼が聖将位に値する戦いを見せたのなら、そのまま据え置けばいい」
「それを聞いて、少し安心したよ。君まで愚物に堕ちられては、この世がつまらなくなる」
オリアンの発言に対し、ミレルバスはなにもいわなかった。彼の考えも、少しはわかるからだ。前国主の時代、ミレルバスはこの国の愚かな有り様を嘆き、苦しんだものだ。
「例のものは完成したよ。マーシアスのよりは強力で、凶悪だ。君があれに頼るような事態にはなってほしくないがね」
「そうか……」
「まず、そんな事態は来ないか」
オリアンは、こちらの思考を覗くように告げてきた。
「龍府の守護は、突破できまい」
ミレルバスの元にバハンダール陥落の報せが届いたのは、十七日の事だった。