第千六百九十六話 爪痕
牢のあった建物を出ると、朝日が東の空を白く染め上げていた。空は明るい青で覆われ、雲ひとつ見当たらない。雨雲は、夜の内に去ったらしい。
また、それによって、まるまる一晩の間を牢屋の中で過ごしていたということがわかる。体が寒さで硬直するのも当然だ。まだ、完全に回復していなかった。体の芯まで冷え込んでいたのだ。真冬ならば凍死していたのではないかと思えたが、そんな寒さならば対策のひとつやふたつ講じるに違いない。もしくは、決して優しくはないシルヴィールが毛布なりなんなりを提供してくれたか、どうか。
(それはないか)
悠然と先を進む女の後ろ姿からは、セツナのことなど眼中にないといった心境が見え透いている。
セツナが閉じ込められていたのは、サンストレア市軍が管轄する施設の一角にある建物の中だ。かつてこの施設は騎士団の拠点だったというのだが、サンストレアがベノアガルドから独立し、市軍が結成されてからというもの、市軍の本拠地として利用されているという。牢屋も騎士団の拠点時代から利用されていたものであり、犯罪者を投獄しておくためのものだった。
「市長は、昨夜のうちにおまえに会って話を聞きたいと仰せだったが、真夜中だったのでご遠慮願った。いくら尊敬する市長の願いとはいえ、無理をさせるわけにはいかないからな」
「俺が寒さの中で凍えるのはいいってか」
「当たり前だ」
シルヴィールが馬車の前で足を止めて、こちらを一瞥した。怜悧なまなざしが突き刺さってくるかのようだった。
「おまえは不法入国者であり、殺人犯なのだぞ。本来なら厳重に拘束し、自由を奪った上で連行してもいいくらいだ」
「なんでそうしないんだ?」
「おまえが本性を表す時を待っているだけだ」
「……なるほど」
だったらわざわざいわなければいいのに、と思わないではなかったが、なにもいわなかった。ここで突っ込むと、藪蛇になる気がしたのだ。
「ガンディアの英雄がこんな場所にいるはずもないのだ。おまえも迂闊だったな。あんな有名人の名を騙るなど、悪手にも程がある。おまえには同情の余地もあったが、偽証となれば話は別だ。殺人罪はともかく、不法入国の罪は必ず裁く。覚悟しておけよ」
「……しているさ」
セツナは、シルヴィールの長台詞に対し、ただそれだけを返した。覚悟をしなければ行動などできるわけがない。どうにかなる、なんとかなる、などと想って行動した結果痛い目に遭うほど馬鹿馬鹿しいことはない。痛い目に遭う可能性くらい最初から考慮しておくべきだったし、それくらい覚悟しておくべきなのだ。
でなければ、力を使ってはいけない。
それでも、罪なきひとを殺す可能性など考えてはいなかったところが、自分の甘さなのかもしれない。言い訳をしないだけましと思うほかないのか。それとも。
「乗れ」
シルヴィールが馬車への搭乗をうながしてくる。
「市長の館は近いが、おまえのような有名人を晒して連れ歩けはしないからな」
「有名人? 俺が?」
「ああ。神人を倒しおまえの噂は、一夜の内に広まったよ。情報統制をしても、もう遅すぎた。おまえがセツナ=カミヤと名乗ったことまで知れ渡ってしまった。嘆かわしいことに、市民の中にはおまえがセツナ=カミヤ本人であると期待し、希望しているものまでいるのだ」
「へえ」
「勘違いするな。市長がおまえに逢うことをお決めになさったのは、おまえが神人を倒したからだ。セツナ=カミヤという偽名に惹かれたわけではない」
執拗なまでに念を押してくるシルヴィールに辟易しながら、セツナは馬車に乗り込んだ。
シルヴィールがいる限り、セツナが解放されることはありえないのではないか。そんなことさえ思うようになった。
いざとなれば力づくで脱出すればいい、とセツナは想っている。だから逮捕にも応じたのだし、投獄にも文句ひとついわなかった。黒き矛と眷属を用いれば、この街から抜け出すことくらい朝飯前だ。
ただ、それにしたって、いろいろと考える時間がほしかった。
ほかに方法がなかったとはいえ、罪もない一般人を手にかけてしまったという事実が、セツナの心を重いものにしていた。
独立都市サンストレア市長マルカール=タルバーの邸宅は、昨日セツナが戦闘を行った住宅街とは正反対の方角にあった。市軍本拠地が市内南部にあり、住宅街は北東部、市長の邸宅は北西部に位置している。
市軍本拠地から市長邸宅までの移動中、馬車の外を眺めていたセツナは、サンストレア市内の様子に驚いたものだ。住宅街から市軍本拠地へと向かった昨日とは移動経路が違うからか、まったく異なる風景を目のあたりにすることになったのだ。北東部の住宅街から市軍施設までの間に見た風景というのは、ありふれた町並みであり、ベノアガルド様式の都市ならばそうであろうというような納得の行く景観だった。
しかし、市内北西部への移動中、馬車の窓から見えた風景というのは、まったく違う。
なにかとてつもない災害でも起きたのだろう。
被災地といって差し支えのない有様だった。ベノアガルド様式の白亜の建物の数々が倒壊したまま放置されており、建物代わりの天幕がそこかしこに軒を連ねるようにして立っていた。それだけでは足りないのか、寒空の下、ひとびとが肩を寄せ合うようにして毛布にくるまっている様子が見える。また、瓦礫の山に埋もれるようにして、大きな亀裂が地面に走っているのがわかった。
「知っていると思うが、あれらは“大破壊”の爪痕だ」
「“大破壊”……」
「二年前、このベノアガルドの地を襲った未曾有の天災のことをそう呼んでいる。いつからだれがそう呼ぶようになったのかは知らないがな。ベノアもそう呼んでいるし、クリュースエンドも、そう呼んでいるはずだ」
二年前――話を聞く限りでは、セツナがこの世から消えた直後に起きたことなのだろう。おそらくは、聖皇復活の儀式がもたらしたなにかしらの事象のことだ。ほかに考えつかない。聖皇復活が成功していれば世界は滅ぼされたのだから、世界が存在しているということは、聖皇復活そのものは妨げられていると考えていいだろう。
クオンやアズマリアが上手くやった、ということだ。
だが、聖皇復活は防げても、その余波による災害までも抑えきることはできなかった――ということなのだろう。
「“大破壊”としかいいようがないものな」
“大破壊”が具体的にどのような災害だったのか、聞き出すことは憚られた。シルヴィールが、深い痛みを感じているようなまなざしをしていたからだ。彼女にとってこのサンストレアの街は、セツナよりも思い出深く、大切な場所であるはずだ。その都市がこれだけの被害を負っていて、復興しようがないという現状を見れば、心苦しいのも当然だ。
しかし、二年経っても復興が進まないというのは、どういうことなのか。セツナの疑問は、彼女の言葉である程度解消された。
「そこに神人災害が重なれば、市内を完全に立て直すのは不可能に近くなる。おまえが被害を最小限度に抑えてくれた住宅街も、すぐには再建できないだろう。市長もいまごろ頭を抱えておられるはずだ」
(神人災害……)
神人がもたらす災害のことを指すのだろう。
神人は、確かに災害と呼んでいいほどの力を見せつけた。セツナですら余裕を見せることができないほどの力は、常人にとっては脅威以外のなにものでもない。対抗しようもなければ、為す術もなく殺されるしかないのだ。かといって放置するわけにもいかない。サンストレアはこれまで、神人に対しては市長マルカールが対応してきたとのことだが、その話を思い出すたびにセツナはマルカールが気になって仕方がなかった。
元騎士だからといって常人でないはずもないのだが。
そうこうするうちに馬車が止まった。
「ついたぞ。あれが市長の館だ」
「市長の館……」
セツナは、シルヴィールが指し示した建物を見て、素直に驚いた。
「どうだ? 想像とは違うだろう」
シルヴィールがなにやら勝ち誇ったようにいってくるのが気にならなくなるくらいの驚きが、セツナの中に広がっていた。彼女のいうとおりだ。想像とはまるで違う建物が、窓の向こう側に立っていた。小さな家屋だった。ベノアガルド様式の建物は、石造りで、外壁が白く塗られている。一階建てであり、決して大きくもなければ、敷地自体広くもなかった。とても市長が住む家には見えなかったが、その建物を市軍の兵士らしきものたちが警護していることから、彼女の発言が嘘ではないことがわかる。
「なんていうか……質素というか」
「安物だよ」
「そんな風にいっていいのか?」
「尊敬する市長だからこそだ」
彼女は、悪びれもしない。
「市長は、“大破壊”後、サンストレアの被害状況を認知するなり、市長官邸を被災者の受け入れ先として解放なされた。ご自分は、この家に住むといってな。我々は警備の関係から反対したのだが、被災市民も市長と一緒に暮らすのは気を遣って疲れるだろうと仰られては、な」
「想像とは……違うな」
「だろう」
どこか得意げなシルヴィールの反応は、彼女が尊敬する市長へのセツナの見る目が変わったことが嬉しくてたまらないといったものだ。
「市長はさらに私財をすべて投げ打ってサンストレア市内の復興に全力を上げられた。わたしを始め、元騎士団騎士が市長を主と仰ぐのは当然の道理だったのだ。滅私奉公こそ、騎士の騎士たる所以。マルカール市長こそ騎士の中の騎士であられたのだ」
シルヴィールが心の底から尊敬するのも当然かもしれない、とセツナは想った。市長の話を聞けば聞くほど、尊敬に値する人物であることがわかる。市の頂点に立つ人物だからといって、だれもがマルカール市長のように振る舞えるかというとそうではない。自分本位に行動するものもいるだろうし、市民のためを謳いながら自分は優雅な暮らしを続行するというものもいるだろう。それが悪とはいわないが、尊敬できるかというと、できないと断言できる。
その点、マルカールは、話を聞いただけのセツナが軽く尊敬の念を抱き始めるくらいには出来た人物のようだった。その上、神人に対抗する力も持っているという。その一事だけでとんでもない人物だということは明らかだったが、ひととなりが明らかになるにつれ、セツナは好感を抱き始めていた。
「ベノアガルドから独立したっていうのは、どうなんだ」
「仕方のないことだ。ベノアガルド――いや、ベノアはもはや頼りにならん。我々には、マルカール市長を盛り立てていくことのほうが、ベノアの救いの手を待つよりも遥かに正しいことと思える」
ベノアと呼び直したのは、ベノアガルドという国が機能していないから、なのかもしれない。ふと、セツナはそんな風に理解した。