第千六百九十五話 焔道(四)
「――ただ惜しむらくは、黒き矛を持った君と再戦できなかったことだな」
限りない死闘の果てにカインがいってきたことには、セツナ自身、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。この長きに渡る戦いの中で、セツナはカインの想いを知ることができたのだ。彼の黒き矛のセツナへの憧憬は、本物だった。
だからこそ、黒き矛で戦ってやりたかった。
だが、それはできない。黒き矛は折れ、再生は完了していない。
セツナとカインの戦闘は、何時間、いや、何十時間にも及んだ。互いに全力を出し切った戦いは、両者に凄まじい痛みと疲労を強いたが、この地獄という環境は、そういった痛みをたちどころに癒やし、疲労を消し去っていった。まるで無制限に戦い続けられるようにという配慮の如き回復は、カインにとってはいわずもがなだが、セツナにとっても嬉しい誤算だった。これならば、いくら負傷しても、どれだけ疲労しても戦い続けられる。それはつまり、無限に長く修行を続けられるということだ。
セツナがこの地獄に堕ちてきたのは、純粋に自身を鍛え上げるため以外のなにものでもないのだ。
無論、カインとの戦闘は、セツナのほうが圧倒的に不利だった。セツナは火竜娘ひとつで、カインは三種の召喚武装を同時併用しているのだ。それだけで力の差は歴然としている。それでも諦めず、腐らず、戦い続けるうち、何度か勝利することができるようになった。数十時間が経過するころには、五分五分の戦いができるようになっていた。カインはそれをセツナの急激な成長といって喜んだが、本当のところは、わからない。
カインが疲れ果てたのではないか、と思えなくもなかったからだ。
百時間以上は、戦い続けただろう。
その間、セツナがどれほど地面を這いつくばったのか、思い出せないほどだ。勝利の数は、覚えていられるほどだというのにだ。それだけ、力量差は歴然としていたということだが、だからこそ、意味があったといえるだろう。それほどの強敵を相手に善戦し、ある程度戦えるようになったということは、自身に繋がる。成長したという自負もある。もっとも、同じ相手とばかり戦っていたからこそ、というのも大いに関係があるのだろうが。
「……済まないな」
「なぜ謝る。俺は大量殺人者だぞ。君が忌み嫌うカラン大火の原因だ。俺のようなもののために謝るな。謝ってはいけない。それは君のすることではないだろう」
「……ああ。そうだな。確かにあんたの言うとおりだ」
「そうだろう」
カインが妙に嬉しそうに笑った。炎の中、声には苦痛が揺れている。
「けど、あんたには感謝してもいるんだ。あんたがいたおかげで助かったことも、少なくはない」
ガンディアの武装召喚師としての彼の働きぶりは、筆舌に尽くしがたい。彼は、ガンディアでも有数の武装召喚師として、様々な戦いで活躍し、ガンディアの躍進に貢献していた。カインがいたからこそ、ガンディアの戦力は充実していたといってもいいのだ。
それだけではない。
「あんたがいたから、俺は前に進むことができた。そんな気がする」
「――気のせいだよ。それは」
炎の中、カインが頭を振る。が、セツナは、カインの考えこそ間違いだと声を大にしていいたかった。カインがいたから前に進むことができたのは、疑いようのない事実だ。あの日、あの時、彼がいなければ、彼が煽ってくれなければ、セツナは己の失態と向き合わず、逃げ出していたかもしれない。己の過ちを受け入れ、立ち向かうことができたのは、紛れもなく彼という存在のおかげだった。
そして、そのことで、セツナは一歩も二歩も前に進めたのだ。
そういいたかったが、いえなかった。
「なあ、セツナ」
カインが、唐突に別の話を展開したからだ。
燃え上がる火柱が闇の空を貫くほどに聳え立ち、もはやカインの姿は見えなくなっていた。原型を留めぬほどに焼き尽くされたとでもいうのだろうか。
「俺は、だれなんだろうな」
彼の疑問に返す言葉もない。
「わからない。わからないのさ。俺は自分がだれなのか、わからないまま生きて、わからないまま、死んだ」
カインのその言葉は、自問でもあったのだろうが。
「俺はいったい、どこのだれだったんだ」
セツナは、なにも答えてやれなかった。
カイン=ヴィーヴルといってあげればよかったのか、それともランカイン=ビューネルと伝えればよかったのか。ランス=ビレインという偽名もあった。様々な名、様々な立場、様々な想い――そういったものが彼を最後まで混乱させていたのかと思うと、なんともいえない虚しさがあった。
彼を忌み嫌い、憎んでさえいたというのにだ。
そういったわだかまりは、燃え盛る炎の中に消えていった。
火柱が消えると、なにも残っていなかった。彼の体を構成していたすべての物質が焼き尽くされたかのようであり、魂までもが炎の渦の中で消滅してしまったのではないか。火竜娘も消え失せている。
なにもかもが消えた。
戦闘領域を構築していた炎の壁も、いつのまにかなくなっている。
セツナの体を苛んでいた痛みも、火傷の痕も消えていた。傷を負った事実さえ消え去った。ついさっきまで幻覚でも見ていたのではないかと思えるほどの出来事だった。
だが、それが幻覚などではなかったことは、心が覚えている。
カインとの予期せぬ再会と戦いの記憶が、心の奥底で脈打っている。
彼との永遠の別離が、セツナの心に再び火を点けたのだ。
(これが……地獄)
ふつふつと燃え上がる心の赴くままに、彼は顔を上げた。
視線の先、光の祭壇に至るまでになにが待ち受けているのか。
想像もつかないが、歩みを止める訳にはいかない。
どんな出来事が待っていようと突破しなければならないのだ。
でなければ、堕ちた意味がない。
でなければ、逃げた意味がない。
でなければ、生きる意味がない――。
「起きろ」
決して愉快とはいえない夢から呼び覚ましてくれたのは、シルヴィール=レンコードの冷ややかな声だった。半ば眠っている意識のまま重い瞼を上げると、冷え切った体が寒さを訴えてきて、彼は途方に暮れかけた。セツナの入れられている牢屋には暖房器具など一切ない。囚人の健康面への配慮など一切されていない不衛生極まりない空間には、布団も用意されていなかった。幸いなことにこのどう見ても怪しい衣服さえ没収されていないため、ある程度の寒さまでならば耐えられた。そのおかげで眠りこけ、夢など見てしまったのだろうが。
眠っている間、夜が来て、冷え込んだのだろう。体温が下がりすぎているのが、考えずともわかる。手足が冷え切っていて凍りついているように動かなかった。
「なにをしている。さっさと出てこい」
「へ?」
セツナは、シルヴィールからの予期せぬ言葉に、軽い混乱を覚えた。彼女がなにをいっているのか、とっさには理解できない。が、顔を鉄格子に向けると、扉が開けられていて、出入りができるようになっていることがわかる。
シルヴィールに視線を戻す。鎧兜を身につけていない彼女の姿を見るのは初めてだった。市軍の制服らしい衣服はすっきりとした印象がある。元騎士隊騎士だっただけあり、鍛え上げられた肉体を持っていることがわかる。
「市長が、おまえと話がしたいと仰せだ。よって、特例としておまえの出獄を許可することとなった。不本意だがな」
「市長が?」
「ああ。そうだ。おまえの偽名が気になったのだろうな。上手いこと考えたものだ」
「はは……」
冷徹なシルヴィールのまなざしになんとなく愛想笑いを返しながら、ゆっくりと立ち上がる。冷え切った体を強引に動かしたくはなかったが、いたしかたがない。事情が事情だ。
(偽名じゃねえっての)
シルヴィールのいった偽名とはもちろん、セツナ=カミヤという本名のことだ。シルヴィールに捕縛された際、当然、名前や所属を尋問されている。当然、セツナは本名であるセツナ=カミヤと名乗ったが、シルヴィールはそれを聞いて冷笑したのだ。
『いかにベノアガルドが小国家群北端に位置していたとはいえ、セツナ=カミヤの名を知らぬなどと思わぬことだ』
彼女は、そういって、セツナの名を偽名であると決めつけた。
セツナ=カミヤは、黒き矛とも呼ばれるガンディアの英雄であり、召喚武装カオスブリンガーの使い手として名を馳せた最強無比の武装召喚師。ベノアガルドとの因縁も浅くなく、ベノアガルドの十三騎士の中にもセツナ=カミヤを賞賛するものがいるという話は有名らしい。そんな話を、牢獄への道中、滔々と語られたものだった。
『十三騎士様が賞賛されるほどの英雄の名を騙るなど、愚行も愚行。いずれおまえの正体を解き明かしてやる』
シルヴィールは、そんな風に息巻いていたが、セツナは一切挽回しなかった。自分が本物のセツナ=カミヤであると証明することは、難しくはない。黒き矛を召喚して見せればいい。黒き矛を見たことがなくとも、その圧倒的な力を見れば理解するか、強力な武装召喚師であると認識してくれるだろう。だが、そんなことをしてまで、理解されようとは思えなかったのだ。
どうだっていい。
罪なき人間を殺してしまったという罪悪感が、セツナの心を荒ませていた。
「だが、いい気になるなよ? 市長は真贋を見抜く目を持っておられる。おまえが偽物であることくらい簡単に見抜いてくださるはずだ」
彼女の市長への崇拝ぶりは、気になるところだった。
あれだけ凶悪な神人を斃すという話もそうだが、マルカール市長には、なんらかの力があるとみて間違いなさそうだ。
少なくとも、常人には神人を斃すことなど不可能だ。
「そのとき、おまえがどう申し開きするか、楽しみだ」
シルヴィールはほくそ笑んだが、どうにも愛嬌があって、嫌いになれなかった。
そもそも彼女は職務に忠実な人間に過ぎず、セツナが嫌われているのは、十三騎士もが認めた武装召喚師の名を騙っている(と思い込んている)からに過ぎないのだ。彼女自身は、セツナが神人を撃破したことそのものには感謝を示すくらいの度量はあった。
そんなシルヴィールが崇拝してやまないマルカール市長とはいったいどのような人物なのか。
セツナは、シルヴィールの後に続いて牢屋を出ながら、そのことばかりを考えていた。