第千六百九十一話 神ならぬ、人ならざるモノ
雨の音が聞こえている。
格子窓から入り込む雨粒が、決して広くはない牢屋の中に冷気をも運んできていた。夜中。あまりの寒さに眠ることもままならない。床に転がれるくらいの広さはあるのだが、石造りの牢屋はただひたすらに冷たく、床に体が触れる面積を広くしたいとは思えなかった。
古い牢は、投獄した罪人の健康のことなどほとんど考えられていないようだ。鉄格子が三方を囲い、一面だけ、石壁が聳えている。その石壁の格子窓から入り込むわずかな光は、この牢屋の外に立つ魔晶灯の光であるらしい。淡く冷ややかな光だけが、この牢屋を照らしている。牢屋の中、ほかに光はなかった。ほかに投獄されている人物もいなければ、看守の姿もない。
セツナだけが、この牢屋に閉じ込められている。
牢の中、自由がないわけではない。手足も自由に動かせたし、言葉を発することもできる。つまり、呪文を唱え、召喚武装を呼び寄せることだっていくらでもできるということだ。そして、召喚武装さえ呼び出せれば、牢屋の壁をぶち破り、脱走することも容易い。
だが、セツナはそうしなかった。
牢の片隅に座り、入り込む雨風を避けるようにしながら、闇を見ている。
この牢に連行されている間、自分が殺した相手のことを聞いた。
怪物と化し、サンストレアの住宅街に破壊を齎したのは、やはりただの人間だったのだ。
『おまえが殺したのはな、ケビン=アークスという市長お気に入りの建築家でね、市長がサンストレアの主となる前から将来を嘱望されていた人物だ。彼は四年前、同僚のアンネと結婚してね、サンストレアでも有数の幸せな家庭を築いていた』
セツナを連行中の馬車の中で、そう説明してくれた女は、市軍総督という肩書を持っていた。名はシルヴィール=レンコードという。サンストレアが独立する以前は、ベノアガルドのイズフェール騎士隊に所属する騎士であり、セツナもよく知るシャノア=ウェルクールの元部下だったという話だが、それ以上は教えてくれなかった。
馬車の中、兜を取った女は、凛然とした美人であり、その横顔はどこか刀剣類を想像させた。
『だが、見た通り、白化症を患い、蝕まれた彼は、半年前から隔離されていた。アンネは仕事を辞め、彼の回復だけを祈る日々を送っていたそうだ』
『白化症?』
『知らないのか? ベノアがそう命名した症状のことだ。二年前の“大破壊”以来、人間を含めた様々な生物に確認され始めた症状――ここまで聞けばわかるだろう?』
セツナが首を横に振ると、シルヴィールは信じられないといった顔をした。
『おまえは、この二年、いったいどこにいたのだ? どこの街であれ、見たことくらいはあるはずだ。体の一部が白化し、のたうち回るひとの姿を』
シルヴィールの疑問に対し、セツナは返答に窮した。話によれば、いまは大陸暦五百五年の十二月であるということがわかり、あれから実に二年が経過したということが判明している。つまり、二年前の“大破壊”とは、セツナがこの世から去った直後に起こったなんらかの災害のことを指しているのだろう。セツナがサンストレアに辿り着くまでにみた光景も、“大破壊”とやらの影響なのかどうか。
セツナが困っていると、シルヴィールは白化症について教えてくれた。どうやらセツナがただの世間知らずであると認識してくれたらしい。刀剣のような横顔からは想像もつかないほどお人好しのようだ。この二年間のことに触れたくなかったセツナにとってはありがたいことだが。
地獄に落ちていたなど、説明しようがない。
白化症。
“大破壊”以来、人間や犬、猫といった動物から皇魔にまで見られるようになった症状。体の一部が白く変色することから、そのように命名された。白化した部位は、奇妙に変容し、肥大することが多いという。白化症を患うと、激痛が襲いかかり、正常に暮らすこともできなくなるらしい。その上、症状が改善することはなく、白化した部位を切り取っても意味がないことが判明している。一度白化症を患ったものは二度と元に戻ることはなく、助かる道はないのだという。
白化症の行き着く先が、セツナが目撃した怪物同然の姿であり、あそこまでいくと処分するしかなくなるのだと、シルヴィールはいった。
『だから、我々はおまえに感謝してもいるのだ。おまえのお陰で、神人による被害は最小限度に食い止められたのだからな』
『しんじん?』
『本当になにも知らないのだな』
呆れ果てたようなシルヴィールの反応に、セツナは返す言葉もない。実際、なにも知らないのだから、仕方がなかった。
『神人とは、白化症の最終段階に陥った人間のことを指す。命名したのはベノアであり、我々はそれに習っているだけだがな』
なぜ神人と呼ぶのかについては、教えてくれなかった。
ただ、白化症を患ったものは、最終的には見境なく周囲の人間を殺戮する怪物に成り果てるということは、わかった。そうなったものを神人と呼称し、討伐しなければならなくなるということも。そして、シルヴィールたち市軍には、神人に対抗する手段はなく、避難誘導と時間稼ぎしかできないのだ、ということもだ。
『サンストレアにおける神人討伐は、本来、マルカール市長の仕事なのだよ』
と、シルヴィールは誇らしげにいった。
セツナは、当然のようにいってきたその言葉に驚きを覚えた。マルカールなる市長がどれほどの人物であれ、あのような怪物と戦って生き残れるとは信じがたかった。生き残れるどころではない。シルヴィールは、マルカール市長が神人相手に勝利することを信じて疑っていないのだ。
その後の話によれば、サンストレアの市長マルカール=タルバーは、ベノアガルド騎士団の正騎士をも務めたことのある人物であり、シルヴィールは、市長が神人を討伐できるのは、それこそ本物の騎士の実力なのだろうといっていた。
『市長の手を煩わせずに済んだのは、おまえのおかげだ。先にもいったが、そのことには感謝している。しかし、おまえが不法入国した事実と、ケビン=アークスを殺害したという事実は消せないのだ。よって、おまえには牢に入って貰わねばならん』
シルヴィールは、セツナに対し同情的な態度を見せてくれたものの、それはそれとして、投獄することに否やはないといった様子であり、セツナもそれに従わざるを得なかった。
無論、その場を脱出することは、容易かった。黒き矛を召喚すれば、それだけで事足りる。シルヴィールを手に掛けるまでもなく、逃走できるだろう。サンストレアは騒ぎになるだろうが、二度と近づかなければいい。
だが、セツナは大人しく牢に入った。
自分がしたことを知れば知るほど、なんともいえない気持ちになった。
『人殺し!』
アンネの絶叫が耳に残っている。
彼女にとっては、仕事や生活以上に大切な人物だったということが、シルヴィールの話からわかってしまった。
白化症なる症状を患い、神人と呼ばれる化け物に成り果てたケビン=アークスは、殺す以外にどうすることもできなかった。それは、シルヴィール自身が認めることであり、アンネ=ローヌも理解していたことなのだろう。
それでも、大切なひとを殺されたという事実は、アンネ=ローヌにとってはこの上なく重いものだ。ほかに方法がなかっただろうし、もしセツナが殺さなくとも、マルカール市長が手を下したのだろうが。
遣る瀬ない気持ちのまま、セツナは、牢の闇を見つめていた。
格子窓の外からの光さえ届かない真の暗闇が、眼前に広がっている。風通しも悪く、空気は淀みきっている。そのせいか、闇そのものに重力があるかのように見えた。闇が重く、歪んでいるような気さえする。目の錯覚だろう。ずっと闇だけを見ているから、脳が勘違いを起こしているのだ。
真夜中。
寒さに震えながらぼんやりとしていると、その闇が動いたように見えた。
闇の中に赤々と燃える炎が揺らめいた。
炎は次第に闇を侵蝕していき、熱気を帯びてセツナの肌を焦がしていく。皮膚がじんわりと汗ばんだかと思うと、そのときには、全周囲が紅蓮の炎に包まれていた。
地獄の業火が、意識を包み込んでいる。




