第百六十七話 戦勝風景
「こんなところにいたの」
突然聞こえてきた声に、セツナは瞼を開いた。
青空の下、見知った女性の姿がある。足甲は膝辺りまで泥にまみれ、半ば固まっているようだった。いつものように軽装の鎧を纏い、両手で巨大な兵器を抱えている。ファリア=ベルファリア。
セツナは、矛を手にしたまま大きく伸びをすると、あくびが出た。涙も出る。覚えはないのだが、少々寝ていたのかもしれない。
「殲滅しておいたほうがよかったかな?」
「それやったら嫌われるわよ。ただでさえ戦功独り占めなのに」
「そりゃそうだ」
セツナは、ファリアの少し呆れたような顔がおかしくて、笑った。立ち上がり、腰を伸ばす。疲労が溜まり始めている。
周囲では、西進軍の兵士たちが動いていた。バハンダールの兵士の死体を、ひとりひとり大きな袋に詰め込んでいる。
セツナは、そういう作業を見るのは初めてだった。黒き矛を握り、大量の死体を作り出しながら、その最後を見届けることまではほとんどない。殺したことを確認する暇もなく、つぎの目標に飛びかかることも多い。ひとりひとり、違う人生があり、違う夢があったはずだ。そういうことを考えだすと、深みにはまっていくのがわかるから、セツナは考えないようにしていたのだが。
「あのひとね」
ファリアは、兵士がふたりがかりで袋に詰め込んでいる大男の死体を見ていた。彼の大弓は、別の兵士たちが、これもふたりがかりで市街へと運んでいく。巨大な弓だ。重量も相当あるのだろう。しかし、あの男は、たったひとりで、平然と扱っていた。
「ああ、あいつがグラード隊を攻撃していたんだな」
セツナは、バハンダール上空から見ていた光景を思い出した。バハンダールからの攻撃が、湿原のグラード隊に襲いかかり、陣形を崩していく。その情景の異常さに、セツナは降下を決意した。直後にファリアからの合図があったのだが。
「そうよ。通常の弓の二倍はあったわね、あの弓の射程」
「二倍か……」
通常の二倍もの射程を誇る弓を軽々と操る大男の最期は、あまりにも呆気なかった。セツナは、彼の名を知ることもなかったのだ。もっとも、殺した相手の名前など、いちいち覚えてもいられないのだが。
名を知れば、死の重みが少し増す。相手を知れば、さらに増える。そういうものだろう。なにも知らない相手だから、無造作に殺せるのだ。自分の人生に関わり合いのない人間だからこそ、殺せる。これが仲間や友人なら、そう簡単にはいかないのだろう。
そういう日が来ないことに越したことはないし、来るとも思わない。
「そういや、もう終わったのか? 下」
「ですから隊長を探していたのですが」
わざわざ背筋を伸ばして丁寧口調でいってきたファリアに、セツナは笑いをこらえきれなかった。
「それはそれはどうもご苦労さまです」
「いえいえ、どういたしまして」
「副長殿は下ですか?」
「副長殿は飛び回って大忙しです。持つべきものは翼の生えた副長ですね」
ファリアはにこやかに告げたが、要するに、ルウファはいいようにこき使われているということだろう。彼の召喚武装シルフィードフェザーの能力は、移動には非常に便利だ。南と東に分かれた部隊の意思疎通に使うには、ちょうどよかったのだろう。ルウファには可哀想だが、西進軍に所属している以上、最高指揮官はアスタルであり、《獅子の尾》隊長の権限は極めて低い。
そもそも、《獅子の尾》はたった三人の部隊だ。しかもそれぞれが隊長、隊長補佐、副長という役職を持っており、末端の隊員などはいない。セツナが命令できるのは、ファリアとルウファのふたりだけであり、なんとも寂しい部隊であった。もっとも、セツナがふたりに命令を下すことなどほとんどないのだが。
「じゃ、送還してもいいのか」
「ええ」
「ファリアはなんで?」
セツナは、彼女が両手に抱えた弓を見た。とても弓とは思えないような形状なのだが、彼女は弓と言い張っている。怪鳥が翼を広げたような形状の兵器。オーロラストーム。戦闘が終わったのなら、召喚している意味はないはずだし、消耗を考えると、送還しておいたほうがいいのだ。
召喚武装の維持は、基本的には召喚者の精神力という目に見えないものを消耗する。その召喚武装が故人の遺物である場合は別らしいのだが、通常は、そうなのだ。セツナも、黒き矛を召喚し続けることなどできない。カオスブリンガーを手にしている限りは超人的な力を振るえるのだ。できるものなら常に召喚しておけばいい。そうすれば、だれもセツナを手に負えなくなる。
が、実際そんなことをしていれば意識を失い、倒れてしまうのだろうが。
「君を探すのに使えるでしょ」
「なるほどね」
「といっても、使う必要もなかったけどね」
そういうと、ファリアは笑って囁いた。
「すぐに見つかっちゃった」
その笑顔は、日が沈みかけた空よりも眩しかった。
城壁を降り、市街に入ると、勝利の余韻に浸る兵士や死体の処理に追われる兵士、血の臭いを薄めようというのか水を撒く兵士たちの姿が目に入ってきた。
まばゆい夕日の下、城塞都市の街角で繰り広げられる光景が、セツナの網膜に焼きつくようだった。
通路の片隅では、負傷した兵士の泣き言を叱咤する部隊長と、そんな部隊長に迷惑そうな顔の医療班がいた。仲間の戦死を嘆く兵士の一団があれば、戦功を自慢し合う兵士たちもいる。生き残ったことを喜び合う女性兵士に、初陣だったのか放心状態の青年兵、さまざまな表情があり、さまざまな感情がある。
これが戦勝後の風景なのだ、と、セツナは一人納得した。
戦場特有の熱狂は去り、いるのは戦いから解き放たれたひとびとだ。だれもが戦いが無事に終わったことを喜んでいる。仲間の死こそ悼んでいるものの、生き延びた事実を全身で受け止めている。
そこには厳然たる生と死の境界がある。死者は黙して語らず、生者だけが謳い、笑い、喜んでいる。しかし、だからこそ、セツナの胸に迫るものがあるのかもしれない。
「なんていうかさ」
「ん?」
「俺が戦う理由って、こういう風景を見たいからかもしれない」
戦闘という極限状態から解き放たれたひとびとが見せる喜怒哀楽こそ、生の実感ともいえる。生きていることの証明。互いの生還を喜ぶもの、死別を嘆くもの、苦痛に呻きながらも生きていることに涙するもの。そういう光景を見るためには、戦いに勝たなければならない。敗戦の光景とは、もっと悲惨なものだろう。
「陛下のためじゃなくて?」
「それもあるけど……って、意地悪だな」
「そうかしら」
セツナが口を尖らせても、彼女は笑って取り合わなかった。
と。
「セツナ様ああああっ!」
どこからともなく響いた叫び声は紛れもなくエイン=ラジャールのものであり、セツナは、周囲の兵士たちが一瞬にして緊張するのを見た。セツナの名への反応なのか、エインの声への反射なのか。両方ではあるのだろうが、セツナには前者のように思えてならなかった。もっとも、気にすることではない。慣れている。
声の主は、中央通りのほうから脇目もふらずに駆け寄ってきていた。彼の部下らしき女性たちもついてきているが、なぜかはわからない。
「ご無事でなによりですううううう!」
声を張り上げながら全速力で飛びかかってきた少年を避ける事などできるはずもなく、セツナは彼の華奢な体を受け止めた。エインの体は思った通り軽く、疲労困憊のセツナでも押し負けるようなことはなかった。彼が鎧を纏っていれば違ったのだろうが、エインは既に鎧を脱ぎ去っている。
セツナは、エインに抱きしめられるのはまだ構わないのだが、自分が血まみれなのが気になっていた。鎧や服に付いた血はとっくに乾き、固まっている。しかし、血の臭いが消えるわけではない。だから彼はファリアから離れて歩こうとしたし、周りの兵士たちの嗅覚を刺激しないように注意していたのだ。
もっとも、セツナを抱きしめるエインの顔は恍惚としていて、血の臭いは全く気にならないようだった。
「俺、今回の戦いで、自分の拙さ、未熟さがよくわかったんです」
エインは、セツナをひと通り抱きしめて満足したのか、体を離してこちらの目を見てきた。碧眼が滲んでいるように見える。涙が浮かんでいるのかもしれない。
「全体を見ているような気でいて、まったく見ていなかったんです。頭の中に描いた絵空事のような作戦に夢中になって、予想外の事態に対応できていなかった。策とは本来、何重にも巡らせておくべきなのに」
囁くような声は、ほかの兵士たちの耳に拾われないようにするための配慮だろう。彼は軍団長であり、今回の作戦の立案者だ。そんな人物が弱気を吐いたとあっては、兵士たちの士気に関わる。本来なら、小声でもこんなところで話すべき内容ではないはずだが、彼も抑えきれなくなったに違いなかった。
「でも、もうだいじょうぶです。つぎからはもっと上手くやってみせますから」
「うん、期待している。今回のだって、発想自体は悪くなかったさ。だから被害も最小で済んだんだろ?」
セツナは、エインの頭を撫でてあげたかったが、それは彼の誇りを傷つける行為かもしれないと思い、やめた。彼がなにを望み、なにを求めているのかなど、セツナにはわからない。彼について知っていることなどほとんどないといっていい。ナグラシアで合流して三日だ。その間、彼とはほとんど一緒にいたような気もするが、エイン=ラジャールがどういった人間なのかまではわかっていなかった。セツナのファンであることは間違いないようだったし、隠そうともしない好意の熱量には圧倒されっぱなしだった。それは決して、気分の悪いものではない。
エインが。頭を振る。
「それはセツナ様や皆さんが機転を働かせてくれたからにほかなりません。策とは、そういう不確定要素に期待すべきではないんですよ。セツナ様投下後の混乱だって、そう。不確定な要素に頼りすぎたのが、反省材料です。幸い、セツナ様が弓兵の排除に動いてくれたから、本隊もグラード隊も矢の雨に射たれずに済んだわけですが」
「結果良ければ全て良しってわけにもいかないか」
「はい。そこを突き詰めていくのが俺たちの仕事ですし」
エインは、小さく胸を張った。彼は、みずからの仕事に誇りを持っているのだ。ログナー方面軍第三軍団長であり、この西進軍においては作戦立案者として、アスタルの補佐を務めている。彼の作戦は、確かに見事なものとは言い難かったものの、あれ以上に有効な作戦が考えられなかったのだから仕方がない。ほかの方法では、多大な犠牲を払う必要があったという。
超上空からセツナを投下するという、恐らく前代未聞の作戦によってバハンダールは陥落したのは事実だ。いろいろあったものの、セツナは落下によって死ぬことなんてなかったし、敵軍に殺されるようなこともなかった。むしろ蹂躙し、突入してきた自軍の勝利を完全なものにしたのだ。
「無茶をするのが隊長の仕事とはいえ、あまり無理はさせないでくださいね。このひと、引き際っていうのを心得ていないみたいだから」
ファリアが、隊長補佐らしくエインに要望したのかと思ったのも束の間、彼女の言い分ではセツナが馬鹿みたいだった。セツナは、憮然とした。
「ひどいな」
「本当のことでしょ」
ファリアは悪びれなかったが、口元は微笑んでいる。冗談でいっているのだろう。彼女だってわかっているのだ。状況次第では、セツナが無理や無茶をしなければならないときがくる。黒き矛の力とは、そういったものだ。レオンガンドは風穴を開けるのがセツナの役目だといった。先陣に立ち、敵軍に大いなる風穴を開け、勝利を呼び込む。そのためには多少の無茶は承知しなければならない。
上空からの投下だって。無茶苦茶なのだ。
「善処しますよ。俺だって、セツナ様を失うような真似はしたくないです」
「そのわりにはあんな高さから落とすのには躊躇しなかったよな」
セツナが軍議での一幕を思い出しながら告げると、エインはにっこりと笑った。その笑みに悪意はないのだが、だからこそ強烈ななにかを感じざるを得ない。
「セツナ様なら大丈夫だという確信がありましたから」
「俺にはなかったぞ」
「またまた」
エインが取り合おうとしてくれなかったのは、きっと冗談に違いないと思いたいのだが。
「……まあ、いいさ」
すべて終わったことだ。
セツナにしてみれば、終わりよければすべてよし、なのだ。結果がすべて。無論、経過を無視するわけではないのだが、西進軍が勝利し、難攻不落の城塞都市が陥落したのだ。これ以上の戦果は望むべくもない。最高の結果、といっていいのではないか。エインはもっと上を目指したいようだが、セツナたちは、できることを精一杯するしかないのだ。
「おやおや、皆さん揃ってなにしているんですか。って、夕日を浴びたファリアちゃん、超天使」
こちらに近づいてきて声をかけてきたと思うなり、ファリアの足元に跪き、両手を組んだドルカ=フォームの姿に、さすがのファリアもさっと後退ってセツナの背後に隠れた。セツナは、目をきらめかせてすらいたドルカに冷静に告げた。
「なんですかそれは」
「儀式のようなもんですよ、気にしないでください」
「馬鹿が移りますので、本当に気にしないでやってください」
いつの間にかドルカの近くにいたニナが、セツナに耳打ちするような素振りを見せながらも、彼に聞こえるような声でいってきた。セツナは苦笑したが、ドルカには多少、効果があったようだ。立ち上がり、渋面を作っている。
そんなドルカの様子を不思議そうに見ていたエインが、思い出したように口を開いた。
「ドルカ軍団長、そっちはどうでした?」
「首尾は上々って感じかな。西進軍の損害は軽微。今後の作戦に問題はなさそうだ。それから、各方面に戦勝の報告を出したところだ。そして、肝心のレコンダールとの連絡だが、そうすぐにできるものでもないね。補給物資が届くのは四日から五日後といったところか。ま、レコンダールからの物資がなくとも、バハンダールにはたっぷり備蓄してあるようだけどねえ」
セツナは、ドルカの軍団長らしい一面を久々に見たような気がして、目をぱちくりさせた。彼にもそのような表情があるのだと思い返す反面、やはりいつものファリアへの態度は、本性を隠すための仮面なのではないかと考えてしまう。色男だ。普通にしていれば、ファリアだって優しく接してくれるだろうに。
「今後のこともあります。バハンダールに備蓄してある物資、兵糧にはあまり手を付けないほうがいいかと」
「籠城でもすんのかね」
「可能性の問題です。龍府侵攻に失敗し、本国に撤退せざるを得なくなった場合、バハンダールはザルワーンの攻撃に曝されるわけですから。とはいっても、ここを攻め落とすのは容易ではないですし、いまのザルワーンに長期攻囲に耐えうる力があるとも思えませんが」
セツナの投下によってあっという間に無力化したとはいえ、バハンダールの攻め難さに変化はない。湿原は変わらず存在し、高い丘と分厚い城壁と城門は傷ひとつついていない。ガンディア軍が篭もれば、バハンダールも相応の力を発揮するのは疑いようがなかった。敵に空中から投下されるような武装召喚師や、超長距離から攻撃できるような武装召喚師がいるのなら、話は別だが。
「兵力は未だ我が方を上回っていると思うけど」
「総兵力では、ですね。そのすべてを動かせるわけではない。特にザルワーンは、国内に敵を抱えたままです」
「グレイ=バルゼルグか」
ドルカの一言に、セツナはレコンダールで出会った武人の姿を想い起こした。厳粛そうな人物だった。直接戦いこそしなかったものの、百戦錬磨の猛将とはどういうものなのか、少しだけわかった気がしたものだ。
エインが、ドルカにうなずいた。
「彼が東で睨みを効かせてくれているのは、ガンディアにとってはありがたいことです。おかげで、ザルワーンはバハンダールに兵力を割くことができていなかった。ここにもっと多くの戦力が割かれていれば、こちらの損害はもう少し多くなっていかもしれない」
「それでも、もう少し、なんだな」
セツナがいうと、エインが苦笑するように告げてきた。
「結局、セツナ様が平らげてしまいますからね」