第千六百七十六話 戦女神
「なにか、御用でしょうか?」
ファリアは、あからさまに困ったような表情でこちらを見ながらも、手元では、机の上に広げていた紙を折りたたんでいた。そして、そそくさと机の引き出しの中に隠してしまう。ニュウに見られたくない内容であることは、彼女の反応を見れば一目瞭然だったが、そのファリアのどこか気恥ずかしそうな表情がニュウの興味を引いた。
ファリアがそのような表情を見せるのは、この二年、まったくといっていいほどなかったことだ。
「いいえ。用事などなにもありませんよ、女神様。ただ、女神様のご機嫌を伺いたく参上仕った次第でして」
ニュウは、ファリアに対して、極めて恭しく接した。約二年前、ファリアが戦女神を受け継いだときから、ふたりの立場は変わった。かつてファリアに四大天侍のひとりとして敬われていた彼女が、今度はファリアを戦女神として敬う立場となったのだ。そのことについて不満に想ったことは一度もなかった。戦女神の立場ほど辛いものはない。四大天侍以上に困難を極めるものだろうし、なにより、“大破壊”によってすべてを失ったと感じているであろう彼女にこの上なく負担を強いているという事実が、ニュウたち元四大天侍や、戦女神を取り巻くひとびとの共通認識としてあった。
“大破壊”は、この地上から多くのものを奪い去ったが、同時に、この世に取り残されたものたちにも深い爪痕を残している。
世界の断裂以上に深く刻みつけられた心の傷は、そう簡単に癒えるものではない。
彼女も、彼女とともにリョハンを訪れたひとびとも、大切なひとを失ったという現実から目を背けることもできず、苦しみ、のたうちながらこの二年あまりを生き抜いてきたのだ。だれもが血を吐くような想いを抱いている。
であるにもかかわらず、リョハンはファリアに戦女神であることを望んだ。
ファリアの名を受け継ぐ彼女でなければ、リョハンのひとびとの精神的支柱にはなりえない。
マリクでは、駄目なのだ。マリクは確かにこのリョハンを“大破壊”の実害から守り抜き、ひとびとを滅びより救った守護神であり、救世主といっても過言ではない。だが、マリクは、リョハンのひとびとにとって四大天侍のひとりであり、彼が神としての正体を明らかにしたいまでも、その感覚は拭い去れないのだ。
故に、マリクではリョハンのひとびとを支えることはできなかった。マリク自身、戦女神にはなれないと諦めている。
戦女神といえばファリアであり、ファリアの名を継ぐ彼女だけが、この天地を支える柱たりうるという護山会議の結論には、元四大天侍の四名も異論を挟まなかった。護山会議の議員であり、ファリアの祖父アレクセイ=バルディッシュは、初代戦女神ファリア=バルディッシュとの約束を反故することになると反論したものの、終末思想に囚われ、絶望に暮れるひとびとを救う方法は彼女を戦女神として立てるほかないという意見に対案を出すことができなかった。
護山会議では、リョハンのひとびとを安んじることはできない。四大天侍、護峰侍団も同じだ。
再び、戦女神を立てる以外に道はなかったのだ。
ファリアは、護山会議の説得に一も二もなく応じた。彼女は、戦女神を受け継ぎ、リョハンにおける最高指導者として君臨することとなった。
「あの……」
ファリアが、おずおずと口を開いてくる。
この二年で、彼女の容姿というものはそう大きく変化していない。変わったところがあるとすれば、長めに伸ばされた頭髪と、眼鏡をかけなくなったことだろうか。二十代半ばから後半へと差し掛かった彼女の容姿は、まだまだ若々しく、美しい。
ただ、ニュウが見る限り、彼女の表情には張りがなかった。少なくとも、活気というものが見当たらない。まるで心が死んでいるかのようだった。ついさっきまでの気恥ずかしそうな表情が消え失せている。
もちろんそれは、戦宮にいるからというのもある。公務で人前に出ているときは、戦女神ファリア=アスラリアとして振る舞うため、いまと表情がまるで違った。
「なんでしょう?」
「そういう話し方、止めていただけませんか。せめて、ほかにだれもいないときくらいは……」
彼女がうつむき加減でいってきたのは、ニュウの他人行儀な話し方が辛かったということのようだ。ニュウは、ファリアの感情を引き出すため、ときどきこういう意地悪をする。そうでもしなければ、彼女は己に感情があることを忘れ、自分を見失ってしまうのではないかと思えるからだ。外から見る彼女の精神状態は、それほどまでに危うかった。
「それがお望みとあれば。その代わり、ファリアちゃんこそ楽にしてちょうだい」
ニュウがいたずらっぽく笑いかけると、ファリアは少しばかり怒った風にいってくる。
「わたしは、楽にしていますよ」
「そう? 硬いわよ」
「元々です」
「そうだっけ」
「はい」
むすっとした表情だったが、それだけでニュウは安堵した。ファリアがまだ人間としての感情を有していて、豊かに表現できるという事実を確認できたのだ。こうやって時折確認しなければ、不安になる。それほどまでに、ファリアは普段、感情を出さなかった。
“大破壊”以来そうなってしまったのは、なにも彼女だけの話ではない。
「それで、なにしにきたんです?」
「なにもないって。ただ、お話しに来ただけよ」
「お話? わたしと、ですか?」
「ええ。あなたと」
いいながら、彼女の机に歩み寄る。ファリアは、憮然とした表情のまま、いってきた。
「面白くもなんともないですよ、きっと」
「それを決めるのはあなたじゃないわよ」
「それは……そうですけど」
不承不承納得するファリアの背後に回り込み、油断しきった彼女の様子にほくそ笑む。彼女が油断してくれているという事実が、ニュウにはなんとも言えないくらい嬉しかった。それはつまり、ニュウに気を許してくれているということだからだ。
戦女神を継承して二年。
ファリアが気の許せる他人など、数えるほどしかいまい。
護山会議も護峰侍団も、リョハンの市民も、彼女を戦女神としてしか見ていないのだ。だれも、人間ファリア=アスラリアを見ようとはしなかった。リョハンのひとびとにとってのファリア=バルディッシュが人間ではなく、戦女神でしかなかったように。
自然、ファリアは壁を作り、ひとと距離を取っていく。そこが彼女と大ファリアとの違いだ。大ファリアは、この戦宮の作りを見てもわかる通り、野放図なほどに開放的であろうとした。誰に対しても心の門戸を開き、市民に対してさえ気を許した。それが初代戦女神への盲目的な信仰心を育んだのだが、今の時代、戦女神に求められるのは、大ファリアのような人間愛に満ち溢れた存在ではなかった。
象徴としての戦女神こそ、彼女に求められた役割だった。
ファリアの心が閉ざされていくのは、当然の帰結だ。
だからこそ、そんな彼女の心の支えになりたかったし、彼女とともにリョハンを訪れたルウファ=バルガザールやエミル=リジルにも協力を要請した。ガンディア時代のファリアをよく知る彼らの協力なくしては、ファリアを支えることなどできまい。
ファリアが気を許してくれているという事実が、その成果だ。
「で、ファリアちゃんはなにをしていたの?」
「ちょ、ちょっとした書物を……」
ファリアがぴくりと反応し、頬を僅かに紅潮させたのをニュウは見逃さなかった。すかさず、彼女の懐に手を伸ばし、引き出しを開けた。そして、ファリアがあっと声を上げる間もなく、引き出しの中から紙を掴み取って、覗き込む。
「どれどれ」
「ちょ、ちょっと! ニュウ様!?」
ファリアの悲鳴に込められた感情の温度に、ニュウは驚きを覚えながらも、さらに反応を伺うべく紙に記された文字列を目で追った。毛筆による書き文字は、ため息が出るほどに綺麗だった。
「えーと、なになに……親愛なるあなたへ?」
「だから!」
「あなたはいま、どこでなにをされているのでしょうか。わたしはいま、リョハンにいます。リョハンでミリュウやルウファたちと一緒に、元気にやっています――」
「読み上げないでくださいよ!」
「あ」
ニュウが声を上げたのは、両手で持っていたはずの手紙があっさりと取り返されてしまったからだ。さすがはファリアというべき身のこなしだった。戦女神となってからも毎日の鍛錬をかかさず、さらに七大天侍を招集しての合同訓練を行うなど、自身の修練に余念のない彼女は、この二年で以前にもまして強くなっている。
ファリアは、紙を折りたたむと、今度は懐に隠してしまった。これではさすがのニュウも奪い取れまい、とでもいいたげな表情だった。ニュウは、そんなファリアの表情に安堵するだけだ。人間らしく、感情豊かな一面が見れたことは、この上ない収穫だった。だから、手紙の内容に突っ込んでいく。
「だれに当てた手紙なのかしら」
「ニュウ様には関係ないでしょう!」
「関係オオアリよお」
「なんでですか!?」
動揺して声を裏返らせる彼女に、ニュウは笑みを浮かべる。良い兆候だと想ったのだ。このまま、彼女が感情的になってくれれば、それでニュウたちの心配も減る。アレクセイも喜ぶだろう。
「だって、戦女神の恋愛事情なんて、七大天侍に無関係なわけないじゃない?」
「れ、恋愛事情って――」
ファリアが絶句して、椅子に座り込んだ。
「あら、違うの? でもだって、親愛なるあなたって」
「そ、それは、別に、その……」
「なにも隠すことないじゃない」
もじもじする彼女に向かって、ニュウは優しく声をかける。
彼女がだれに当てた手紙を書いていたかくらい、想像できないニュウではない。ファリアが愛した男性など、この世でただひとりしかいないのだ。
「きっと、生きてるわ」
だから、というわけではないが、ニュウは声を励まして、いった。
「あなたの最愛のひと」
「ニュウ様……」
「信じなさい。信じて、待ち続けなさい。本当に愛しているのなら、本当に逢いたいのなら」
それは、ただの慰めでしかない。
なにもかも破壊された世界で、なにもかも奪い尽くされた世界で、だれかの生存を信じることほど虚しく、難しいものはない。信じたからといって、裏切られないとは限らない。むしろ、裏切られる可能性のほうが高い。大陸は徹底的に破壊され、世界はその形状を変えた。破壊の嵐を生き延びることができたとしても、その後、生き抜けられるかどうかは別問題だ。そもそも、“大破壊”そのものを生き延びることが絶望的なまでに難しい。
彼女の最愛のひとは、“大破壊”の発生地点にいたという。
どこかで生きているとすれば、それは奇跡にほかならない。だが、その奇跡を信じずして、なにを信じろというのか。
この神さえも信じられない世界で、奇跡など信じられようはずもないのだが、それでも、信じるしかない。
「はい……」
ファリアは静かに頷き、胸に手を当てた。瞑目する彼女がなにを想ったのか、ニュウにはわからない。ただニュウは、彼女がその無感情見えることの多い表情の奥底に、深い愛情を護り続けていることを知り、安心した。
そして、ファリアと同じように変わり果てた女のことを想い、心を痛めた。
その女は、七大天侍のひとりとしてニュウとともに戦女神に仕える身分であり、現在、リョハン周辺の調査のため、この御山を離れていた。
名をミリュウ=リヴァイアという。




