第千六百七十五話 空中都市
空中都市リョハン。
ヴァシュタリア共同体勢力圏内に独立国家として存在する都市は、リョフ山と呼ばれる峻険そのものをひとの住処として作り変えたものとして知られている。麓に抱かれるようにして存在する山門街、山中の広大な空洞を居住区とする山間市、そして山頂に築き上げられた空中都という三つの都市区画を総称して、リョハンという。
リョハンは、始祖召喚師とも大召喚師とも呼ばれ、また紅き魔人と恐れられる武装召喚術の始祖アズマリア=アルテマックスが四人の高弟に武装召喚術を教えた修行の地であり、武装召喚術の歴史が始まった地としても知られている。武装召喚術を大陸全土に広めることを使命とした《大陸召喚師協会》発足の地であり、総本山でもある。
武装召喚師の原点ともいうべきこのリョハンは、二年前の“大破壊”による実害を受けなかった。
“大破壊”。
二年前、この世界をずたずたに引き裂き、打ち砕いた未曾有の天変地異は、リョハンの存在するヴァシュタリア勢力圏にも甚大な被害をもたらしている。ヴァシュタリア勢力圏は大きく三つに分断され、それぞれが海よって引き離されてしまった。それによってヴァシュタリア共同体は瞬く間に勢力を失い、リョハンのある北ヴァシュタリア大陸においてはもはや瓦解しているといっても差し支えがなかった。ヴァシュタリアが大陸中央に戦力を集中していたことも大きい。ヴァシュタリアはその広大な領土内の治安を維持する力も失い、北ヴァシュタリア大陸各地では、ヴァシュタリア共同体から独立すると宣言する都市が続出した。
ヴァシュタリア共同体から離脱するということはすなわち、ヴァシュタラへの信仰を捨てる、ということにはならない。数百年に渡って素続けてきた至高神ヴァシュタラへの信仰を捨てることなど、そう簡単にできるものではない。
世界が破局に見舞われ、終末思想に染まる中、神に救いを求めたくなるのは、心弱い人間ならば当たり前のことといってもよかった。
大陸は破壊され、大地は砕かれ、天は割れた。海は荒れ、沿岸の都市などは打ち寄せる波に飲まれたところもあるという。“大破壊”以降、様々な異常気象が世界を襲った。北ヴァシュタリア大陸と呼ばれるようになったこの地域一帯も、そういった異常気象の中で氷に閉ざされた時期があった。
数多くの命が奪われ、だれもが絶望した。
救いもしない神でも、縋るほかないのだ。
ヴァシュタリア共同体から独立しながらも神への信仰を続けるという心理は、そういうところにあるのだろう。
リョハンに生きるひとびとも、そういったヴァシュタリア人たちの振る舞いをあざ笑うことなどできなかった。リョハンが“大破壊”を免れ得たのは、リョハンに降臨した一柱の神のおかげであったし、“大破壊”後の混乱を逃れ得たのは、もう一柱の女神のおかげだったからだ。
ニュウ=ディーは、二年前と大きな違いのない空中都の町並みを見回りながら、ふと、そんなことを考える。空中都の景観そのものには変化がなかった。“大破壊”以前に比べると住人が多少増えたくらいだ。新たに家を建てられるような敷地はそれほど多くはない。元々、リョハンはヴァシュタリア勢力圏内の独立国家であり、周囲四方を事実上敵対関係にある勢力の領土に囲まれている関係から、外部との繋がりは皆無に等しかった。様々な理由からリョハンの外へ出ていくものこそあれど、リョハンの外から移り住んでくるものはほとんどいない。武装召喚術の総本山ということで、己の技術に磨きをかけるために御山を登るべく訪れるものもいないではないが、全体から見れば、その数は極めて少ない。
リョハン自体、外との繋がりを持とうとしてこなかったのだ。ヴァシュタリアという大勢力のただ中で独立不羈を貫くだけでも並大抵のことではないのだ。ヴァシュタリアの外の国々と関係を持とうという考えさえ、リョハンを統治運営する護山会議にも、リョハンの精神的指導者である戦女神にも生まれなかった。
そういう意味では、数年前、リョハンが最高戦力を小国家群に差し向けたのは、極めて珍しい事件だった。魔王率いる皇魔の軍勢を放置できないというのは、人間ならばだれもが想うことであり、当時の戦女神からすれば、孫娘のいる国を救いたいという気持ちもなかったとはいえない。結果的に魔王軍を解散に追いやることができたのは、リョハンの介入のおかげだけではなかったものの、もしリョハンがあのとき魔王軍との戦いに介入しなければ、歴史は大きく変わっていただろう。
もっとも、あのときリョハンが介入したことで存続した国はほとんどすべて、“大破壊”によって壊滅し、魔王戦争の意味も価値も失われてしまったのだが、そればかりはどうしようもないことだ。あの当時、だれひとりとしてこの世界がこのような状況に陥るとは、想像さえできなかった。
できるわけもない。
大陸がばらばらになり、原形を失うなど、だれが想像できるものだろうか。たとえ想像できたとして、くだらない妄想や無意味な空想と吐き捨てられるだけのことだ。
しかし、その“大破壊”はリョフ山を襲わなかった。ヴァシュタリア勢力圏を大陸から切り離し、さらに三つに分かたったほどの未曾有の大災害だったが、リョハンは、山全体が激しく揺れるくらいで住んだ。山門街、山間市、空中都のいずれも、実害なく、被災者はひとりとして出なかった。
それもこれも、このリョフ山を覆う守護結界のおかげだ。
見えざる神の加護は、このリョハンに住むひとびとを守り抜き、その事実が守護神への信仰心を集める結果となった。いまや守護神なくしてはこのリョハンは立ち行かなくなった。
いや、守護神だけでも、リョハンのひとびとの心を安定させることはできない。
リョハンは、ヴァシュタリアからの独立以来、ひとりの現人神によって支えられてきた。独立戦争において多大なる戦果を上げ、戦女神と謳われたファリア=バルディッシュのことだ。戦女神の存在がリョハンに勝利をもたらし、ヴァシュタリアからの独立を成功させたといってもいい。以来、リョハンは戦女神を頂点に置く国となり、リョハンに住むひとびとは戦女神を精神的支柱とし、戦女神に寄りかかって生きてきた。
戦女神なくしては、生きてはいけない。
世界を粉々に打ち砕いた“大破壊”後の混乱を落ち着かせるには、再び戦女神の存在が必要だったのは間違いなかった。
もし、戦女神がいなければ、リョハンは大破壊後の混乱の中で終末思想に取り憑かれたひとびとによって、破滅の道を歩んだかもしれない。
彼女は、“大破壊”から二年が経ち、見たところ完全に落ち着きを取り戻した空中都の様子に胸を撫で下ろすような気持ちだった。
二年。
戦女神が再びこのリョハンに誕生してから、二年。
空中都の居住区を抜け、戦女神の住居たる戦宮へと足を向ける。空中都の北側に位置するその神殿めいた建物は、一時期、四大天侍と呼ばれた武装召喚師以外立ち入ることを禁じられていたが、いまはそうではない。
新たな戦女神が住んでいるからだ。
戦宮の門前には、門番として護峰侍団の武装召喚師が二名、立っている。彼らは、彼女がニュウ=ディーであると遠目からも認識していたのだろう。彼女が門に近づくと、深々とお辞儀をし、戦宮への入場を許可してくれた。戦宮の門は、常に開放されている。戦女神は、リョハンのひとびとの精神的な支えだ。頂点にあるが、だからといって権威的になるべきではないというのが、初代戦女神の考えであり、二代目の戦女神も初代の考えを尊重した。
だからといって戦宮に勝手に侵入するようなものがいてはならないため、護峰侍団が門番や警備に人員を割いている。戦女神の住居を護るというのは、護峰侍団としても最重要任務であり、戦宮の警護につくというのは誉れ高い役目として、人気がある。
戦宮の中に入り、戦神の座とも呼ばれる中庭にまで進むと、剃髪の屈強な男がひとり、座しているのが目に入ってきた。足を組み、瞑目している様子から、瞑想している最中のようだった。カート=タリスマ。ニュウと同じくかつての四大天侍のひとりであり、現在の七大天侍における序列三位の人物だ。序列二位はニュウで、一位は七大天侍筆頭シヴィル=ソードウィン。四位以下は同列といっていい。
「女神様は?」
「奥におられる」
カート=タリスマがいつものように目を閉じたまま、いってくる。彼は、“大破壊”によって世界が破滅に飲まれていく光景を見たときからというもの、瞑想に深けることが多くなった。理由は、わからない。精神的に参ったのか、それとも、ほかになにか理由があるのか。聞くこともできたが、聞かなかった。聞けば、彼の心に土足で踏み込むことになりかねない。四大天侍として戦い抜いてきた間柄ではあったし、信頼している同僚ではあるのだが、互いに深く踏み込まないようにしているのが四大天侍という集まりだった。
「ありがと」
軽く礼をいって、彼女は奥に向かった。
単に奥というと、中庭に隣接した戦女神の寝室ではなく、廊下を迂回した先にある部屋のことを差す。通称・戦神の間と呼ばれる部屋は、戦女神の執務室として機能している。戦女神はその部屋に篭もることが多い。公務や修練、食事に当てる時間以外は、大抵、そこにいた。用事がなくとも、理由がなくとも、執務室に籠もっている。
ほかに身の置き場所がないというのが実情だろう。
戦女神は、公の存在だ。自分本位には生きられない。リョハンである限り、どこにいても他人の視線がある。そればかりは致し方のないことだ。リョハンに住むだれもが戦女神を盲信している。だれもが、戦女神なしでは生きていけないと信じている。戦女神の一挙手一投足に注目するのは、ある意味では当然のことだろう。
だから、彼女は特別な理由がない限り、戦宮から出なくなってしまった。
不憫に思うのだが、だからといってニュウになにができるわけもない。戦女神という人柱があって初めて、このリョハンは纏まるのだということが初代戦女神の死後から二代目戦女神の誕生までの間に分かりすぎるくらいにわかってしまった。
戦女神の時代は終わらなかったのだ。
そのしわ寄せが、彼女ひとりに押し寄せている。
それが不憫でならない。なんとかしたいのだが、なんにもできない。もうリョハンに実在する一柱の神に相談しても、彼にもどうすることもできないといわれるだけだ。
ニュウは、少しばかり後ろめたい気持ちになりながら、戦神の間に入った。
戦宮は、初代戦女神の考えによって、すべての部屋に扉が設けられていなかった。どこもかしこも開放されていて、冬場などは寒くて敵わないのだが、ファリア=バルディッシュはその寒さに耐えてこその戦女神であるといって聞かなかったという。
二代目も、初代の意向を尊重した。
その二代目は、大きな机に向かってなにか書物をしている様子だった。
「戦女神様はなにをされておられるのです?」
「……ニュウ様」
戦女神がこちらを見ると、腰辺りまで伸びた頭髪が揺れた。
二代目戦女神ファリア=アスラリアの理知的な表情は、いつ見ても痛ましかった。




