第千六百七十話 ログナー島
十二月になった。
十一月の末、マルスール・ヴァシュタリアが決行したログノール侵攻は、メキドサールの魔王軍がログノールに与したことで失敗に終わった。それにより、マルスール・ヴァシュタリアは多大な損害を出し、手酷いしっぺ返しを食らうこととなったのだ。
ヴァシュタリア軍は、マイラム、バッハリア双方の戦いで敗走すると、すみやかにマルスールに引き上げ、ログノール領との境界の防衛戦力を充実させた。それは、魔王軍を味方につけたログノール軍がマルスール・ヴァシュタリアを滅ぼすべく侵攻してくる可能性を憂慮したものであり、また、マルスール・ヴァシュタリアが当面、ログノールへの侵攻を行う予定がないことを示していた。
しかし、マルスール・ヴァシュタリアの支配者であり、ヴァシュタラ教会の巡礼教師マリエラ=フォーローンは、ログナー島全土への弘教を諦めたわけではないという旨の宣誓書を発布したとの報せが、魔王の森にも届いていた。
ログノールとの同盟以来、メキドサールに外界の情報が届くのは、めずらしいことではなくなった。以前は、外界の情報収集手段といえば、飛行能力を有した皇魔を駆使してのものであり、人間社会について興味の持てない皇魔たちがもたらす情報といえば、この世界の現状程度だった。ゆえにユベルは、ログノール政府の代表や高官の名前について知らなかったし、マルスール・ヴァシュタリアの現状も理解に及んでいなかった。
そもそも、皇魔は人間を嫌っているのだ。情報収集のためとはいえ、人間の集落に潜入させようものなら、発狂して我を忘れ、暴走するかもしれない。ユベルが支配している限り安全だが、あまりにも離れすぎるとどうなるかわかったものではないのもまた、事実だ。
もっとも、皇魔たちの情報収集能力のおかげで、ユベルはこの世界がどのようになっているのかを知ることができたのもまた事実であり、彼はベクロボスら皇魔たちに感謝していた。
それらの情報は、ログノールとの取引材料となった。
皇魔は、人間とは相容れない存在だ。だから彼は、ログノールとメキドサールの同盟を最小限のものとした。つまり、メキドサールからは戦力を提供するだけであり、それ以外の一切の関わりを許さないという立場を取っている。ログノールのほかのいかなる要求も受け付けない、というのは、ログノールとメキドサールの交流が深まれば、人間であるユベルや人間に理解のある一部リュウディースはともかく、それ以外の皇魔たちの中に不満が溜まるからだ。ユベルの支配下にある限りは、皇魔たちがメキドサールの人間を襲うようなことはないが、不満や不安が心労となって蓄積し、皇魔たちの日常に悪影響を与える可能性を彼は憂慮した。
では、メキドサール側はその同盟によってなにを得られるのか。
ひとつは、魔王軍が人間と戦ってもいいという大義名分だ。
魔王軍は、ユベル以外皇魔のみで構成された軍勢であり、その運用には魔王自身身長にならざるをえない。魔王軍の戦力をもってすれば、ヴァシュタリア軍もログノール軍も滅ぼすことは、容易い。しかし、彼としては、皇魔と人間の間にある溝をこれ以上深く大きなものにしたくはなかったし、できれば外界と関わりを持たず、メキドサールで静かに暮らしたいというのが、ユベルやリュスカの願いだった。
だがそれは、こちら側の一方的な想いでしかなく、外部の、それも人間たちに理解できる思想ではないのだ。人間は、皇魔を天敵とみなし、恐怖の対象としてしか見ようとはしない。それは当然だ。皇魔と人間の関係を鑑みれば、道理でしかない。
皇魔の国など認めるべきではない――などと人間たちが言い出さないとは限らなかったし、ログノールやヴァシュタリア軍がメキドサールを滅ぼすべく動き出す可能性も大いにあった。その場合、ユベルは、メキドサールを放棄し、別の島か大陸にでも逃げ出そうと考えていた。
魔王軍の戦力をもってすれば、ログナー島を制圧することも難しくはないというのにだ。それくらい、彼は消極的な考えの持ち主だった。
皇魔の力をもってすれば、人間の軍勢など、赤子の手をひねるほどの容易さで撃滅できよう。だが、その果てになにがあるのか。結局、人間と皇魔の間の埋めがたい溝がさらに深まるだけであり、人間の死体がこの血を埋め尽くすだけだ。
それでは、なんの意味もない。
ユベルは、ただ安息が欲しいだけだ。
愛しい妻と娘、家族、皇魔たちとともに穏やかな日々を過ごしたいだけなのだ。そのために人間を殺戮するなど馬鹿げている。
リュスカは、そんな彼の考えに賛同してくれていたし、ノノルやナルナたち人間への理解があるリュウディースらも、賛成してくれていた。ほかの皇魔の中には、人間滅するべしという思想を持つものもいるが、それは致し方のないことだ。皇魔と人間の溝は、それほどまでに深い。
とはいえ、メキドサールを捨て去り、新たな土地に楽園を築き上げようとすると、途方もない時間がかかるだろう。当てもない。
そも、この破壊され尽くした世界に、メキドサール以上に素晴らしい土地などあるものだろうか。
リュカにいわれるまでもなく、彼はこの土地を手放したくはなかった。だからといって、人間との間に争いを構えたくはない。勝てるとはいえ、皇魔も血を流すことになる。それは避けたい。
ユベルは、苦悩の末、ログノールに協力することで、メキドサールを見逃してもらうという道を選んだ。マルスール・ヴァシュタリアが権勢を失えば、ログノールがログナー島最大の勢力となる。ログノールがメキドサールを安堵してくれるのであれば、ユベルたちはあの森を離れないで済むということだ。
それが、第一の利点。
第二の利点は、人間社会の情報提供だ。
皇魔が人間社会の情報を仕入れることができないため、必然的にユベルはこの島内の情勢さえ、よくわかっていなかった。風のうわささえ、メキドサールには流れ着かない。
人間が使う共通語を理解する皇魔がいないわけではない。ユベルと話し合いたいという一心で共通語を習得したリュスカは、自分の“娘たち”にも教えており、“大破壊”後、この森に住むようになった皇魔たちも、ユベルとの会話の必要性を理解して、人語を会得している。
だからといって、それら皇魔たちを人里に派遣するわけにはいかないのは、先に述べた通りだ。自然、ユベルは、メキドサール内のことに詳しくなりこそすれ、外界の情報には疎くならざるを得なかった。“大破壊”前、三位結界が機能していたころはそれでもよかったが、結界の力が失われ、外界と接触せざるを得なくなったいま、そういうわけにはいかなかった。
そこで、ログノールから情報提供を行ってくれることとなったのだ。
魔王軍というとてつもなく強力な戦力を手に入れるためならばどのような手段でも用いようというのが、ログノールの考えなのだろう。そして、その考えは正しい。ログノールが皇魔との結託に手段を選ぶようならば、ユベルも応じなかったかもしれない。
ログノールから提供された情報によって、ログナー島には現在、メキドサールを含め、四つの勢力が存在することが判明した。ひとつはもちろん、ログノールだ。マイラムを本拠地とし、バッハリア、エンジュールを支配下に置いている。国家元首に当たるのは総統という役職であり、ドルカ=フォームがこれに当たる。ドルカ=フォームは元々ログナー人であり、ガンディア軍の一員としてクルセルク戦争を戦い抜いたという。軍の頂点に立つ将軍はアスタル=ラナディース。総統とともにメキドサールを訪れ、交渉の席についた参謀エイン=ラナディースの妻であるという話だ。
エンジュールには《蒼き風》の生き残りが療養中とのことだった。エイン=ラナディースが当てにしている戦力のひとつが、それらしい。
つぎにベレルの残党だ。ログナー島東部に位置する都市ミョルンは、数年前までベレル領であり、その後ジベルの支配下に入っていたが、“大破壊”の混乱に乗じ、ミョルン在住のベレル人によって奪還されたという。ベレル人たちがどのようにして奪還したのかは不明だが、少なくともミョルンを占領していたヴァシュタリア軍がマリエラ=フォーローンの召集令に応じ、マルスールに集まってからのことだろうとログノールは推測している。
ミョルンは、ログノールに対し、一定の距離を取っている。ベレル本国との連絡が取れない以上、勝手なことはできない、というのがミョルン・ベレルの見解だという。もはやベレルという国そのものが滅びている可能性のほうが高いというのにベレル政府の意向を伺うとしているのは、ミョルンのベレル人にとって、ベレル政府こそが心の拠り所、というところがあるようだった。
そして、最後は、マルスールを制圧したヴァシュタリア軍だ。
巡礼教師マリエラ=フォーローンは、“大破壊”後の混乱期においていち早くログナー島の置かれている状況を察すると、召集令を発動。ログナー島各地に生き残っていたヴァシュタリア軍の将兵をマルスールに呼び集めた。巡礼教師の地位は極めて高く、また、指揮官級の人材が枯渇していたこともあり、ヴァシュタリア軍将兵はマリエラ=フォーローンを自分たちの支配者と仰ぎ見た。
そして、マリエラ率いるヴァシュタリア軍は、マルスールをヴァシュタラ教会の神殿に改築するべく動き出す。“大破壊”によって希望を見失い、悲嘆に暮れるひとびとの魂を救うには、神への祈りこそが重要であるとマリエラは説き、そのためにも大神殿の建造を急ぐべきであると力説した。ヴァシュタラ教の敬虔な信徒の集まりであるヴァシュタリア軍は、マリエラの説教にいたく感動し、彼女の命ずるまま大神殿の建造を行った。
その結果できあがったのは、マリエラ自身を崇め称えるための大神殿であり、大神殿の礼拝堂に安置されている神像は、マリエラ=フォーローンを女神としたものであるのだという。そして、その女神像をヴァシュタリアの将兵たちやマルスールのひとびとは礼拝し、祈りを捧げているのだ。
つまり、ヴァシュタリア軍とは名ばかりの存在に成り代わっているということであり、ログナー島全域へのヴァシュタラ教の弘教というのも、ログナー島全域を支配するための名目でしかないということだ。
「お父様」
「……なんだ?」
不意に耳に飛び込んできた声に、彼は顔を上げた。
馬車の対面の席に座った娘が、こちらを見上げていた。床につかない小さな足をぶらぶらとさせている様子から、彼女がふてくされているのがわかる。
「先程から何度も呼びかけておりますのに、まったく聞いてくださらないなんてリュカは悲しいです」
「そうなのか?」
ユベルは、リュカの右隣に座ったリュウディースのナルナに尋ねた。内心、少しばかり慌てているのを隠すように、だ。
「はいい。おひいさまが可愛そうですよう」
白髪の美女は、いつもどおりの間延びした口調でリュカを援護した。彼女は、その極めて人間に近い容姿から、この度のマイラム行きの同行者に選ばれている。彼女の役割は、ユベルの護衛などではなく、リュカのお目付け役といったところだ。ナルナは、肌の色といい顔立ちといい、体つきといい、どこをとっても人間そのものに近く、頭巾を被り、角さえ隠せば、リュウディースに見られることはなかった。たとえ角を見られたとしても、髪飾り程度にしか思われまい。それほどまでに彼女と人間の区別はつきにくい。
そして、(これがなにより重要なのだが)ナルナは、皇魔特有の気配を人間に感知させることがなかった。人間は、皇魔と相対したとき、特有の違和感に襲われる。神経を逆なでにされるようなその気配は、人間が皇魔と敵対することになった原因といってもいい。人類と皇魔の悲劇的な邂逅も、その感覚によって引き起こされたに違いない。
それがある限り、人間と皇魔が分かり合えることはないといっていい。
そしてそんなことがありえないことは、ユベルにもわかりきっていた。なぜならば、ユベル自身、魔王でありながらもそういった違和感を皇魔たちから感じ取り続けているからだ。リュスカや実の娘のリュカにさえ、だ。慣れによって克服できるものであり、耐え続けることができるのであれば問題はないのだろうが、だれもがユベルのように何百、何千時間も皇魔と行動をともにできるわけもない。そうやって訓練しなければ耐えられないような関係がうまくいくわけもない。
だが、そんな彼の絶望を照らした光明がナルナであり、彼女の肩に乗っているミュウだ。ベクロボスのミュウもまた、人間を刺激しない皇魔だったのだ。
ミュウとナルナの共通点といえば、“大破壊”後、突如として見舞われた突然変異であり、他の突然変異の皇魔も同様であることから、彼はある仮説を立てている。が、それはまた、別の話だ。
此度のマイラム行きは、魔王のひとり娘であるリュカが人間に興味を持ってしまったことから、生じた。リュカは、好奇心旺盛な子供だ。まだ二歳半だからこそなのか、あらゆることに興味を持ち、一度興味を持ってしまうと追求せずにはいられないところがある。彼女がメキドサールとログノールの交渉に口出してきたのも、それだ。リュカは、ログノールの使節団がメキドサールを訪れたとき、森のなかで彼らの会話を聞いていたらしい。そして、あまりにも弱々しい彼らが途方もなく困り果てていると感じ取った彼女は、魔王たるユベルが救ってあげるべきだと結論した。
さらにそのとき、それほどまでに弱々しい彼らが普段どのような暮らしをしているのか知りたくなったのが、マイラム行きの発端だ。リュカはわがままをいう子供ではないし、聞き分けのいい、優しい子ではあるのだが、一度興味を持ってしまったことに関しては、どうしようもなくなるのだ。彼女を実質的に支配しているリュスカでさえ、彼女の好奇心を抑えることはできない。
しかし、そんな好奇心も一度満たされればそれで収まるということも知っているため、ユベルは危険を押してでもマイラムを経験させることにした。
「……それはすまないことをしたな、リュカ」
ユベルがすぐさま謝ると、リュカは満足げに微笑んだ。
「うふふ。お父様が素直に非を認めてくださったのなら、リュカは許して差し上げます」
「リュカは優しいな」
「お父様とお母様の娘ですから」
彼女は、実に自慢げにいう。
「それで、なにが聞きたかったのだ?」
「マイラムまではあとどれくらいなのでしょう? リュカはそればかりが気になるのです」
「もう少しだよ。あと二時間もかからないだろう」
「もう少し……!」
席に乗り上げた彼女は、窓の枠を掴むと、外の風景を食い入る様に見ていた。見たこともない風景ばかりで、彼女の目はきらきらと輝いている。
情報提供の代価が愛娘の笑顔というのは魔王が求める代償としては破格のものだろうし、魔王ユベルの名を地に落とすものかもしれないが、彼はそんなことはまったく気にしていなかった。
魔王の威厳を気にするのであれば、交渉の席にリュスカを同席させたりはしなかっただろう。




