第百六十六話 掃討戦
城壁の階段を駆け上がったセツナが真っ先にやったことといえば、弓を向けてきた大男を殺したことだった。身長二メートルはありそうな巨漢で、並外れた筋肉が印象的だった。
彼は、セツナを見つけるなり、大弓の目標をこちらに定めたのだ。だが、矢が放たれることはなかった。
セツナが彼を斬殺したからだ。
矢を放とうとする寸前の鬼のような形相が、セツナの網膜に焼き付いている。
男は恐らく、弓兵隊の隊長かなにかだったのだろう。彼の死によって、南側城壁の趨勢は決した。弓兵たちは、抵抗らしい抵抗もできないまま、黒き矛の錆となった。セツナは、返り血を浴びて重くなり始めた体を気にすることもなく、つぎの目的地に向かった。
東側城壁へ。
城壁上の通路は繋がっていて、わざわざ下に降り、上るための階段を探す手間はかからなかった。ただ突き進み、角を曲がるだけでよかったのだ。それで、東側城壁に辿り着いた。東側城壁には既に南側の惨状が伝わっていたらしく、覚悟を決めた弓兵たちの出迎えを受けた。セツナを発見するなり解き放たれた膨大な量の矢は、しかし、彼の影を捉えることすらできなかった。
セツナは、射線を潜り抜け、弓兵の懐に飛び込むと、矛の一突きで一人目を殺した。瞬時につぎの標的へと躍りかかり、切っ先で斬り裂き、薙ぎ払い、叩き潰す。セツナを迎撃するための弓兵の布陣は瞬く間に崩壊し、統率も失われた。算を乱して逃げ出すものは追いかけず、立ち向かってくるものだけを殺した。とにかく、城壁上の弓兵を蹴散らせばいいのだ。
東と南の弓兵の排除を問題なく成し遂げたセツナは、もののついでに北側と西側の弓兵も掃除した。道中、城壁に上がってきた部隊と交戦したが、戦闘と呼べるものすら起きなかった。北と西も潰したのは、東と南の弓兵が全滅したと知り、後詰として布陣されると少々厄介だったからだ。湿原の部隊の安全が第一だ。
北側の弓兵は少なく、制圧も一瞬だった。おそらくバハンダールの北から敵が攻め寄せてくるという可能性が少ないからだろう。バハンダールの北方にはザルワーン領土が広がるのみだ。
西側にはある程度の弓兵が配置されていたが、黒き矛の前ではものの数にもならない。迫り来る数多の矢も、矛のひと振りで無力化する。
一方的な暴力によって捩じ伏せ、城壁上の制圧は完了した。
本隊とグラード隊に合図を送るべきかと考えたが、矢が降ってこなければ進軍してくるだろうと判断した。それに、黒き矛ではオーロラストームのように派手な合図を送る方法もない。そのうえ、黒き矛が派手に合図をしたところで、激しい戦闘の最中なのかと思われるだけだろう。
城壁を制圧したあとは、市街に降りた。自軍が到着するまでの間、適当に戦いながら時間稼ぎをするつもりだった。指揮官のいなくなった敵軍の意識をセツナに集めることで、味方部隊のバハンダール到着をより確実なものにするつもりだった。
市街各所に布陣していた部隊は、指揮官たる翼将カレギア=エステフの死を知り、浮き足だっていた。各部隊こそ纏まって行動してはいたが、全体としては統率されておらず、セツナを目撃するやいなや悲鳴を上げながら逃げ出す部隊もあった。
長い間、難攻不落の城塞都市に護られていた連中など、そのようなものかもしれない。
中には他の部隊と連携を取り、セツナに一矢でも報いようと勇を振るった部隊もないではない。しかし、そういった蛮勇こそ、黒き矛の餌食となり、物言わぬ肉片と成り果てるのだ。
臆病にも逃げ散った連中こそが生き延びるのだが、それもいつまで持つか。
セツナは、敵兵を追いかけ回すのも面倒になり、南側城壁の上で休憩することにした。死体は置き去りにされたままで、血の臭いも色濃いが、気にはならない。当然だが、黒き矛の送還はまだ先だ。戦闘中であることに変わりはないのだ。油断して大怪我を負うなど、笑い話にもならない。
城門から見渡す湿原には、グラード隊の最後列だけが覗いている。大半が丘を登り、バハンダールに突入しはじめた頃合いだろう。
鬨の声が聞こえてきた。
「一番乗りだぜいえーい!」
「子供ですか」
ニナは呆れ気味だったが、ドルカは気にもしていないようだった。城門の向こう側からこちらを振り返り、笑顔を見せつけてきている。ついでにいうと、全軍に向けて親指を立てているようだった。
「一番手! ドルカ様に憧れ隊!」
ドルカの号令に、彼の配下の中でも屈強な男たちが、低い声で唸りながらバハンダールに進軍する。西進軍第二軍団と名称は変わっても、基本的にはログナー方面軍第四軍団の人員と変化はない。ようは認識の問題である。三軍しかないのに第四軍団というのは、混乱を呼びかねない。西進軍として編成されている間だけでも、わかりやすいほうがいい。
「二番手! ニナちゃんに踏まれ隊!」
つぎの歓声は、一番手よりも野太く、強かった。兵士たちの体格はさほど変わらないが、勢いが違う。恐らく、ニナ=セントールの熱狂的な支持者たちなのだろう。当のニナはドルカを冷ややかに見ているが、彼には通じないようだ。
「三番手――」
ドルカの号令は聞いているだけで頭が悪くなりそうだったが、本人たちが楽しそうなのはいいことだろうと、エインは他人事として納得した。
彼は、ようやくバハンダール東門をくぐったところだった。
湿原を越え、小高い丘を登り、難攻不落の城塞都市の内部に至ることができたのだ。多少の感慨がある。しかも、本隊の被害は皆無なのだ。だれもが戦功欲しさに息巻いていた。これから、掃討戦が始まろうとしている。
「そこ! 嫌そうな顔をしたから減点一!」
「ぎゃーひどいっすー!」
ドルカと愉快な仲間たちのやり取りを横目に、エインは小首を傾げた。
「減点?」
「なんでも、第四軍団兵は点数制度があるらしく、最初は五点もらえるらしいです!」
「零点になると厳しいお仕置きが待っているそうで……」
「逆に十点に到達した暁にはニナ副長からご褒美があるとかないとか」
「へー」
部下たちが次々とまくし立てるように説明してくれたことにおかしみを感じながら、エインは、それがドルカなりの部下の操縦法なのだろうと理解した。ただ餌で釣るのではなく、条件をつけることで競争心を煽るというのか。
「我が隊にも導入しませんか……?」
ひとりが提案すると、ほかのふたりも目を輝かせて同意する。
「十点なら軍団長の添い寝で!」
「零点なら軍団長に一時間侮蔑され続けるとか?」
エインは、彼女たちの異様な盛り上がりっぷりに辟易しながら、考慮する、とだけ告げて三人を振り切った。三人ともエイン率いる第三軍団の部隊長を務めるほどの人物なのだが、なにかとエインにさせたがるのだ。軍団長としては、部下に信頼されるのは嬉しいのだが、彼女たちのそれは信頼とは違うものだろう。
ちなみに、第三軍団には女が多い。そのほとんどが、アスタル=ラナディースに憧れて軍に入ったような連中であり、第三軍団に編入されたのもアスタルの意向が強く働いている。軟派なドルカには任せられないし、グラードは武骨一辺倒で部下もそういう集まりだ。レノ=ギルバースには彼の元来の部下が多く、アスタル派ともいえる彼女らとは軋轢を生む可能性が高かった。
アスタル派の多くは、ログナー末期の彼女の不遇は、ジオ=ギルバースの陰謀によるものだと信じていた。ギルバース家を継いだレノやその一派に複雑な感情を抱くのも仕方のないことだった。
それらの理由で、旧ログナー軍の二割ほどを占める女性軍人がエインの配下に入っていた。
ドルカに何度羨まれたかわからないが、エインにしてみれば、どうだっていいことだ。性別で扱いを変えることはないといっていい。男だから前線に出すわけもないし、女には後衛を任せる、ということもない。部隊としてどう機能してくれるかが重要なのだ。
個々の実力や才能は、実際のところそれほど大事ではない。個人競技ではないのだ。突出した才能は、作戦を破綻させかねない。
もっとも、清々しいまでに突き抜けた才能を運用するのも、エインのような人間には堪らない楽しみではあるのだが。
(セツナ様……どこかな)
エインは、彼の、血に濡れたような紅い眼を思い浮かべて、頬を緩めた。
「これは……」
グラードは南門を潜って間もなく、多数の死体と対面した。
ザルワーンの兵士たちの亡骸は、圧倒的な暴力を前に無残にも敗れ去ったものの末路にすぎない。血が散乱し、死の臭いが充満しており、湿原の泥臭さとはまた違った空気に吐き気を催すものもいた。戦場に慣れてはいても、予期せぬものには対処しきれないこともあるだろう。
しかし、死体の処理など後にするしかない。
ここは戦場であり、敵兵を掃滅したわけではないのだ。
城塞都市バハンダールの代名詞と呼べる難攻は突破した。あとは不落を超えるだけだ。敵軍を殲滅し、バハンダールを制圧する。その瞬間、この西進軍はガンディアの歴史に名を刻むことになる。といっても、名が上がるのは黒き矛セツナと投下作戦立案者くらいかもしれないが。
「各部隊、準備完了しました」
「よろしい。バハンダール市街に残った敵を探しだし、掃討し、手柄をたてよ」
「はっ」
副官がグラードに敬礼し、後方に下がる。部隊長たちに号令し、部隊長たちが兵士たちに檄を飛ばした。鬨の声があがる。勝利は目前。だれもが目の前の戦功に士気を高め、戦意を高揚させている。自分たちログナー人は、少しでも戦果を上げなければ、ガンディアという国で生きていくことなどできないのだということを、皆が認識していた。
敗者は、勝者に従うしかない。
この世の道理だ。
勝者が敗者を労り、慈しむことはあっても、敗者が勝者に対してできることなどなにもない。おもねり、言葉を尽くしても、勝者の気分次第で首は飛ぶ。命は消える。敗者など、その程度のものにすぎない。
だからこそ、勝者の国の一部として、完全に同化していかねばならない。ログナー人ではなく、ガンディア人になってしまえば、敗者ではなく、勝者としての立場になるだろう。そのためには、活躍し、皆に認められなければならない。戦功を立て、名を刻んでいくのだ。
グラードは、若き兵士たちの熱い魂を感じながら、ゆっくりと歩いた。西進軍第一軍団の各部隊が、バハンダール市街地に散っていく。何人かは死ぬかもしれない。負傷するものも多々いるだろう。だが、戦功を立てるとは、そういうことだ。命を賭して戦わねば、得られるものも得られない。死にたくなければ生き残る方法を見出すのだ。死なない戦い方をするしかない。手傷を負い、敵に追われ、戦場で学んでいくのだ。
そうやって幾多の戦場を越えていったものだけが、部隊長、軍団長へと上り詰め、さらなる高みへと目指せるのだ。
グラードは、壁際に倒れた死体に目を留めた。右眼に眼帯をした男の亡骸は、ほかの死体と違って、その場に放置されていただけではなさそうだった。壁に背を預けて座らされている。あとで回収するために、見失わないようにしていたのかもしれない。豪奢な銀の甲冑は、彼の身分を示している。部隊長程度ではない。
「第一龍鱗軍の翼将でしょうか」
「だろうな」
部下の推測を肯定して、グラードは、男の死に顔を見た。安らかとは言い難く、無念だったのであろうことは容易に想像がついた。腹を貫かれ、死んだようだった。即死ではないのかもしれないが、だからといってなにがどうということもない。彼は間違いなくセツナと交戦し、死んだのだ。腰に帯びた鞘には剣が収められていたが、兵士が戻したのかもしれない。でなければ、セツナに素手で立ち向かったことになる。それは、将としてあるまじき行為だ。
そもそも、黒き矛に立ち向かってはいけない。
グラードは、南門前に繰り広げられていた凄惨な風景に、そう思わざるを得なかった。
不意に大声が聞こえた。
近くで、戦闘が始まったようだ。