第千六百六十六話 ログノール
ログノールは、ログナー再興を掲げるログナー人による国家として、成立している。
二年前の“大破壊”前夜、ログナー方面はヴァシュタリア軍によってほぼ完全に制圧され、ヴァシュタリア軍に立ち向かったガンディア軍ログナー方面軍は、壊滅状態に陥っていたといっても過言ではなかった。圧倒的な兵力差に基づく絶望的なまでの戦力差を覆すことなど、ただの人間が主力であったログナー方面軍にはできようもなかったのだ。
いや、たとえ、ガンディアの英雄と謳われた黒き矛のセツナがいたとしても、結果は変わらなかったかもしれない。ヴァシュタリア軍にある程度の打撃を与えることができたのだとしても、結局のところ、一矢報いた程度に過ぎなかったのではないか。
大戦に投じられたヴァシュタリア軍の兵力はおよそ二百万と呼号され、そこには多数のドラゴンも含まれていた。さすがの黒き矛も、これだけの戦力を前にすれば沈黙せざるを得まい。
戦場がガンディア本土に移り、王都防衛のため出撃した黒き矛のセツナは、三大勢力の一角を崩すこともできないまま、終戦を迎えたのだから。
大戦。あるいは最終戦争と呼ばれる三大勢力の戦いは、大陸全土を襲った未曾有の災害“大破壊”によって一旦その幕を閉じた。小国家群に属するあらゆる国々を戦火に飲み込み、滅ぼし尽くした大勢力さえも、“大破壊”の前では為す術もなかったはずだ。
天は割れ、大地は引き裂かれた。分断された大地と大地の間には、海洋が流れ込み、広大な大陸は無数に分かたれた。有史以来最大規模の天変地異といっていいのだろう。世界は、形そのものを変えた。ログナー方面は、ジベル、ベレルの一部とともにひとつの島となって、イルス・ヴァレの大海に投げ出された。
以来、ログナー方面はログナー島と呼称されるようになった。とはいえ、ログナー方面の全土がこの島にあるわけではない。ログナー西部の都市レコンダールは消えてなくなっており、別の島に属しているのか、海中に没したのかはわからなくなっていた。
ログナー島は、周囲を海に囲まれており、島外の状況を把握するには船を出す必要があった。が、海に繰り出すための船を製造する技術など、内地であったログナーに存在しているはずもなければ、“大破壊”から二年余り、そんなことに人を使っている余裕などあろうはずもなく、外界の様子を探るのは後回しにされているのが現状だった。
そんなことよりも、“大破壊”後、絶望し、悲嘆に暮れるひとびとをどうにかして慰め、纏め上げるほうが先決だったし、重要なことだった。
“大破壊”によって国は形をなくし、行政は機能しなくなった。ガンディアという国も、ベレルという国も消滅した。ログナー方面軍も、ヴァシュタリアとの戦いによって壊滅して以来、その勢力を失っていた。さらにいうと、“大破壊”は、法や秩序さえも破壊し、“大破壊”直後の数ヶ月はどこの都市も無法地帯といっていい有様だった。“大破壊”がその未曾有の災害によって生み出した終末の風景は、ひとびとを絶望させ、混沌の中で暴走させた。
そういったひとびとを纏め上げるべく誕生したのが、ログノールだ。名にログナーの名残を匂わせるその国は、たったひとりの男のささやかな活動によって立ち上げられたといっていい。
その男こそ、現在のログノール総統ドルカ=フォームであり、彼が立ち上がらなければ、ログナー島は一年足らずにして秩序を取り戻すことなどありえなかっただろう。
ログノールは、マイラムを首都として活動を開始、バッハリアを制すると、エンジュールと協力関係を結んだ。やがてエンジュールはログノールに参加することとなり、ログノールはログナー島最大の勢力となる。ベレルの都市ミョルンとも協力関係を結ぶことができ、向かうところ敵なしといった勢いがログノールのひとびとを昂揚させた。
“大破壊”以降、絶望的な思想が蔓延する中において、これほどまでにあざやかに立ち直ることができたのは、ひとえに常に明るく前向きにあろうとするドルカ=フォームが先陣を切り続けてきたからであろうし、彼が総統としてログノールを導き続ける限り、この国の将来は明るいだろう。
もっとも、ログノールにも問題がないわけではない。
ログノールは、成立以来、常に戦力不足といっていい有様だった。ログノールの戦力の根幹をなすのは、当然、ガンディア軍ログナー方面軍の残党だ。ログナー方面軍は、最終戦争におけるヴァシュタリア軍との戦いで大敗を喫し、戦力の大半を失っている。生き残った人数をかき集めて、ようやく二千五百といったところであり、これでは物足りないというのが実情だった。
ログノールには、敵がいる。
マルスールを支配するヴァシュタリア軍の残党が、それだ。ヴァシュタリア軍のほとんどすべてが、最終戦争のガンディア本土決戦に参加していたはずだが、わずかばかりがログナー方面に残っていたらしく、それらは“大破壊”後の混乱に乗じてマルスールを制圧、マルスールをヴァシュタラ教会信徒の都市へと変えていた。マルスールのヴァシュタリア軍は、そのためだけに二年あまりを費やしているのだが、ログナー島全土に勢力を広げんとする意図があるのは、だれの目にも明らかだった。ヴァシュタリア軍の斥候と思しきものたちが、ログナー島各地で目撃されている。
ヴァシュタリア軍の総兵力はおよそ二万と見られている。
対して、ログノールはというと、
(エンジュールを含めても、四千足らずか)
アスタル=ラナディースは、ひとり考え事をしながら、難しい顔をした。ログノール首都マイラムにおいて軍議が開かれたのは、つい今朝のことだ。ログノール領に向かって、マルスールのヴァシュタリア軍が進軍を開始したとの報せが入ったのだ。元よりヴァシュタリア軍の動きが怪しいという情報は入手しており、いつでも対応できるよう軍備は整えてあった。幸い、“大破壊”によってガンディア軍の軍施設が失われるようなことはなく、武器防具の類もある程度は揃えることができている。
しかし、戦力差は圧倒的だ。
四千対二万。
まともにやりあえば、勝ち目はない。
しかもログノール軍の戦術を担うはずの参謀は現在、マイラムからいなくなっていた。それも参謀として大事な仕事のためであったが、彼女は、夫の不在に多少の心細さを覚えないではなかった。
「ヴァシュタリアも国としての形を失ったでしょうに、それでもまだ、ヴァシュタリアとして活動するのですね」
「ヴァシュタリアは、ヴァシュタラ信仰の国だ。共同体という名のな。たとえ国が失われようとも、信仰心がある限りはまとまり続けるだろう」
秘書官のニナ=セントールの疑問に、アスタルはそのように回答した。ログナー人の中にも、ヴァシュタラ教会に帰依するものは多い。かくいうアスタルもそのひとりだ。かつて、百年の昔、ヴァシュタラ教会の巡礼教師がログナーを訪れ、布教した際、その教えに感動し、帰依したものの子孫たちがログナーのヴァシュタラ信徒なのだ。
故にヴァシュタリア軍とログナー方面軍の戦いは熾烈を極めたといっていい。
ログナー方面軍の中から、ヴァシュタリア軍に内通するものが現れたからだ。ヴァシュタラの教えこそがすべてである信徒にとって、ヴァシュタリア軍と戦うなどありえないことであり、ヴァシュタリア軍に寝返るのは、ある種、当然の判断といってよかった。
アスタルは、最後までガンディア軍人として戦い抜き、死を覚悟したものだが、すべての人間がそういうわけにはいかないのだ。国よりも信仰に殉じるものがいたとしても不思議ではないし、そのことを彼女は攻められなかった。彼女がもし、大将軍という責任ある立場でなかったならば、ヴァシュタリア軍に寝返ろうとしたかもしれない。
信仰は、心の根幹を成すものだ。信仰によって心の安息が保たれ、信仰によって生きる力を得ることができる。物心付いたときから信仰しているものは特にそうだった。
もっとも、ログナー方面軍のヴァシュタリア信徒のうち、ヴァシュタリア軍に内通しようとしたものは、皆、死んだという話が伝わっている。ヴァシュタリア軍は、内通も寝返りも受け入れなかったのだ。ヴァシュタリア軍を始めとする三大勢力の目的を考えれば、必然といえる。
そして、その真実を知ったアスタルは、至高神ヴァシュタラへの信仰を捨てた。故にガンディア軍人としての最期を迎える決心がついたともいえる。
ヴァシュタラには、信徒を導き、救うつもりなどはなかったのだ。ただ己が在るべき世界に還ることだけを考え、そのためだけにヴァシュタリアという大勢力を作り、維持してきたという真相を知れば、神への敬虔な信仰も、捨て去ろう。
“大破壊”によってあらゆる価値観が破壊されたが、ログナー人の中に根付いていたヴァシュタラへの信仰もまた、打ち砕かれた。
神は、なにも救わなかった。
ただ無慈悲に破壊が起き、なにもかも奪われ尽くした。
天変地異によって多くの命が奪われた。ジベルの都市スマアダなどは、“大破壊”によって壊滅しており、ログノール軍が調査したところ、生存者はいなかった。
神への救いの祈りなど届かない。
この世に存在する神など、利己的な、神という名の化け物でしかない。
そういった想いが、アスタルたち生き残ったものたちの中に生まれた。
「たとえヴァシュタラの本質が自分本位のものだと知れたしても、数百年に渡って信仰してきた事実を捨て去ることはできんさ」
その点、ログナー人は気楽なものだ、とも、彼女は思う。百年足らずの信仰だからこそ、気軽に捨て去ることができるのだろう。
「さて、その狂信者たちを相手にどう戦うか、だが」
「総統閣下と参謀をお待ちになられるわけには参りませんね」
「無理だな」
にべもなく、首を横に振る。
総統ドルカ=フォームと参謀エイン=ラナディースは、ヴァシュタリア軍との戦いに備えるべく、三日前にマイラムを発っていた。まさか、自分たちがマイラムを空けた直後にヴァシュタリア軍が動き出すとは、さすがのエインも読めなかったようだ。
ヴァシュタリア軍が動き出す予兆は一切なかったし、そういった情報は入ってきていなかった。
「だが、案ずることはあるまい」
彼女は、ニナの豊かになった表情を眺めながら、告げた。
「我らの総統閣下と参謀殿を信じるのだ」
ふたりならば、必ずやログノールに勝利をもたらしてくれるだろう。
これまでがそうであったように。
ログノール軍がマイラム南部の丘陵地帯に展開したのは、十一月下旬のこと。空の色や風の中に冬の気配が交じり始める頃合いだ。雲はまばらで、太陽の光さえも寒々しかった。空が透き通るように青い。滲んでいたような青さが特徴的だったイルス・ヴァレの空は、“大破壊”以降、別物に変わった。それがなにを意味しているのかはわからない。気のせいではないはずだ。何十年も見てきた空だ。記憶違いのはずがない。
変わったのは、空だけではない。
地形そのものも、激変した。
後方にログノールの首都マイラムを見渡すことのできる丘陵地帯は、“大破壊”の際の地殻変動によって隆起してできたものであり、“大破壊”以前には見られなかった地形だった。そのような地形の変化は、ログナー島の各地で見られた。ログナー方面の一部が切り取られるようにして島になったことそのものも、そのひとつといえるだろう。遥か前方、大地に刻まれた裂け目から噴出している白い岩壁のようなものもそういった地形の変化のひとつといえるのだが、ただの地形の変化ではないことは、その異様さからも明らかだ。
“大破壊”がこの世界にもたらした異変のひとつといっていい。
が、そんなことよりも重要なのは、白い岩壁よりもこちら側に展開する敵軍の様子であり、アスタルは、その戦力差に目を細めるしかなかった。
ログノール軍は総勢四千名足らずだが、そのうちマイラム防衛に当てられるのは二千にも満たない。バッハリアやエンジュールをがら空きにしてまでそれらの戦力を寄越させるわけにはいかないのだ。そんなことをすれば、ヴァシュタリア軍がそちらに戦力を差し向けた場合、どうすることもできなくなる。
(現状ですら、同じことだが)
前方に展開するヴァシュタリア軍の兵数は一万くらいだろうか。総兵力二万を誇る戦力の半分ほどでしかない。では残り半分はマルスールに残っているのかというとそうではあるまい。
おそらく。ヴァシュタリア軍は、ログナー島全域を制圧するべく行動を開始したのだ。
ヴァシュタリア軍は、マルスールより北東、バッハリア方面にも戦力を差し向けているという情報が彼女の耳に入ってきていた。
絶望的なまでの戦力差だ。
このままではまともに戦うこともままならないうえ、たとえ目の前の一万をしのげたとしても、バッハリア、エンジュールは制圧されかねない。バッハリア方面がヴァシュタリア軍の支配下に落ちれば、さすがのマイラムも持ち堪えられなくなるだろう。
アスタルは、しかし、絶望も悲嘆もしなかった。現状、丘の上に布陣するこちらのほうが有利だ。ヴァシュタリア軍が丘の上に進軍してくる間は、一方的に攻撃ができる。そうやって時間を稼いでさえ入れば、あとは彼女の夫がどうにかしてくれるだろう。
やがて、ヴァシュタリア軍が動き出した。
荒れ果てた平野を駆け抜け、丘陵地帯に迫りくる。
それに対し、二千の将兵が一斉に矢を射掛けた。
ログノール軍の初陣が幕を開けた。




