第千六百六十三話 森の王(前)
鬱蒼と生い茂る森の中を、走る。
小さな足を精一杯伸ばし、小動物のように飛び跳ねながら、森の中を散策する。
森は、彼女にとっては庭のようなものだ。
生まれ育った場所であり、彼女は物心付く前からこの森のことを知っていた。森には名はない。ただ、森と呼ぶ。だれもがそう呼んでいるから、彼女も自然、そう呼ぶようになった。
森。人間の言葉だという。
人間の言葉ときいてもいまいちよくわからない。言葉は言葉としか、彼女には考えられないからだ。人間の言葉があるのなら、動物の言葉もあるのかもしれない。虫の言葉、花の言葉、木の言葉、様々な種類の言葉があって、森には言葉が満ち溢れているのではないか。そんな彼女の期待は、度々裏切られる。
森は、沈黙しているからだ。
多様な種類の木々が育つ森の中には、年がら年中、様々な小動物や虫が生息し、彼女の目を楽しませ、知的好奇心を刺激する。見たこともない動物や虫を見つけては一日中観察するのが、彼女の日課といっても良かった。ひとつ問題があるとすれば、最近になって彼女の自由時間が極端に減ってきたことだ。覚えなければならないことが増えてきた。言葉だけではない。礼儀作法に始まり、この世界の成り立ちや自分たちの有り様についても知らなければならなかった。
それは、いい。
それもまた、彼女の知識欲を満たしてくれるし、なにより、彼女がいずれひとの上に立つためには必要なことだからだ。ただ、森を散策する時間が減っているのが、少しばかりつまらないだけのことだ。勉強中は、知識が増えていくことに感激すら覚えている。
ふと、小動物たちの足音が聞こえて、彼女は姿勢を低くした。耳を澄ませ、小動物たちがどこへ向かっているのかを推測する。彼女に対しては決して警戒することのない動物たちが一斉に動き出すということは、彼女以外のなにものかがこの森に足を踏み入れたということにほかならない。
彼女の追手かもしれない。
小動物たちの逃走経路から侵入者が向かってくる方角を推し量ると、彼女は、その進路沿いの木の上にそそくさと登っていった。体は軽い。地上を歩く人間の目には入らないだろう角度に身を潜めると、森の外からの侵入者たちの足音に耳を澄ませた。
方角を考えると、彼女の追手ではなかった。森の外は森の外でも、外界からの侵入者であるようで、そのことが彼女の好奇心を掻き立てる。
彼女は、外界を知らない。
閉ざされた森の奥の小さな国が、彼女の生まれ育った世界であり、天地のすべてだった。この森は、外界と彼女の世界を分け隔てる結界であり、おいそれと侵入できるものではない――はずなのだが、侵入者たちは、彼女の眼下を平然と歩いて行く。二十人くらいはいるだろうか。どことなく物々しい雰囲気を漂わせる集団は、なにやら話し合いながら、彼女の眼下を通過していっていた。
「しっかしまあ、陰気なところだねえ」
気楽そうな男の声が沈黙の森に響く。
「どうも好きになれないなあ」
「とはいえ、これから何度も足を運ぶことになるんですから、慣れていただかないと」
もうひとりの声は、柔らかい。どちらも男のようだ。上からではよくわからないが、その集団に女はいないように見えた。少なくとも、彼女がよく知っているような姦しい連中はいない。
「そうはいうけどさあ、俺、必要? エインくんに一任したほうがいいんじゃないかって思うんだけどなあ」
「なにいってるんですか。俺はただの参謀ですよ。確かに交渉事は俺の役割ですけど、相手が相手なんですから、代表みずから出向いていただかないと」
「それはわかってるんだけどさ。どうも、合わないなあって」
「合わないなら合わないで構いませんから、我慢も覚えてください」
「……わかってるんだけどお」
「状況が状況である以上、少しでも戦力が欲しいんです」
「だからって、彼に頼るかね」
「俺は、国を護るためならだれとだって手を組む覚悟ができています」
「相手は魔王だぜ。俺たちは元ガンディア軍人だ。交渉に応じてもらえるとは思えない」
「その前に俺達は元ログナー人ですよ」
「魔王がそんな話を聞いてくれるとも思えないけどな。彼は、ガンディアを心底憎んでいた。あのとき、ガンディアが見逃されたのは、幸運だったのは間違いない」
「それはそうですが。だからといって諦めるわけには行かないんです。せっかく生き延びたんですから。最後まで生き抜くんです」
「おっ、やる気だねえ。さすがは一児の父!」
「茶化さないでくださいよ。もう。怒りますよ」
言葉通り怒っているらしい声に対し、もうひとりは、静かに応えた。
「……俺だってわかってるさ。なんとしてでも魔王陛下に力になって頂かないと、俺達の未来はないんだ」
彼女は、ところどころわからないながらも、眼下を進む連中の話に耳を傾け、好奇心が満たされていくのを感じた。
もうしばらく、彼らの会話を聞いていよう。
彼女はそんな風に考えながら、木々を飛び移り、彼らの後を追った。
大陸暦五百五年十一月。
大陸全土を震撼させた破滅的な災厄“大破壊”からおよそ二年が経過し、世界は激変した。
ユベルを取り巻く環境にも変化が生じていた。
まず、彼の治めるリュウディースの国が世間に明らかになってしまったことが、一番の変化だろう。それがどういった理由によるものなのかは、外界と内界を隔てていた三位結界の術士たちでさえわからず仕舞いだった。おそらく“大破壊”の影響によるものだろうと推定されているが、それも確実なものではなかった。
三位結界は意味をなくし、術士たちは任を解かれて眠りについたが、それは別の話だ。
三位結界の消失後、国を囲う森が、内界と外界を隔てる障壁となった。森には、多数の皇魔が生息している。皇魔は人類の天敵。皇魔の巣食う森に近づくような人間はいないのだ。
いや、そもそも、“大破壊”後の世界をさまようものなど、そういるものではない。命知らずの愚か者か、この世界の現状に絶望したものか、いずれにせよ、まともな感性を持っているものではあるまい。正気を保っていられるものも、そうでないものも、多くの場合は、人間の住む集落で肩を寄せ合い、その日その日をどうにか過ごしているというのが、現状であろう。危険を犯してまで集落の外に出ようというものはいないのだ。
“大破壊”は、ワーグラーン大陸に甚大な被害をもたらした。
ワーグラーン大陸を襲った未曾有の大災害。
天は割れ、地は裂け、地の底より炎が噴き出し、大地と大地の間に海水が流れ込んで、大地と大地の繋がりを断ち切った。大陸はばらばらになった。かつて小国家群と呼ばれた領域も、三大勢力の領土も、なにもかもがばらばらになってしまった。広大な海を越える手段を持つ国は少ない。特に小国家群に属した国々は、内地ということもあり、川船こそ用意できても、海洋を渡る手段としてはあまりにも、脆弱かつ貧相であり、利用できるものではなかっただろう。
海洋に面していた三大勢力さえも、すぐさま船を用意し、外に繰り出すということはできなかったはずだ。
“大破壊”は、大地を引き裂いただけではない。数多くの、瀕死状態に等しかった国々に決定的な楔を打ち込んだ。滅びという名の楔によって数多の国が滅び去り、多くの命が散っていった。人間も鳥や獣だけではない。“大破壊”によって死んだ皇魔の数も数え切れなかった。
生き残ったわずかばかりが肩を寄せ合うようにして、健気にも生き抜こうとしているのがこの世の有様なのだ。
そんな状況下で、皇魔の潜む森に近づこうという酔狂な輩は、いない。
もっとも、皇魔に殺されずとも、別の理由でひとも魔も死んでいくのがこの世界の現状だ。
“大破壊”によって、世界は壊滅的な損害を被ったものの、滅び去ったわけではない。なにより、生き残ったものも少なくはないのだ。
だが、世界は破滅的な災厄に晒され続けているといっても過言ではなかった。
この世に生きるものたちとは根本から異なる性質を持つそれらが存在し続ける限り、それらが猛威を振るい続ける限り、このイルス・ヴァレの将来は暗雲に閉ざされたままだろう。
人間も皇魔も、この世に生きるあらゆる生物とともに滅亡を待つ他ないのかもしれない。
そんな絶望的な世界ではあったが、彼の周囲というのは、むしろ賑やかだった。
ユベルが住んでいるのは、前述の通り皇魔リュウディースの国だ。かつて彼が異能によって支配していたと思い込んでいたリュウディースの女王リュスカが統治する国であり、最盛期には五千名以上のリュウディースが生活していたという。
ユベルがガンディア王家を滅ぼすために起こしたクルセルク戦争において、数多くのリュウディースが命を散らした。結果、現在この国に住んでいるリュディースは千二百名ほどにまで落ち込んでおり、分裂期を迎えるまではせめてこの人数を維持したいというのがリュスカの意向だった。ユベルもそれを了承していたし、リュウディースをこれ以上減らすつもりもなかった。リュウディースたちを戦いに投じるという愚行さえ犯さなければいいだけのことだ。
野心を持たざる魔王には、メキドサールと名付けられたリュウディースの国を統治するだけでも十分過ぎた。
メキドサール。古代言語で悪魔の森という意味であり、かつてクルセルク領内に存在していたころ、クルセルクのひとびとによってそう呼ばれていたのだが、女王リュスカがその響きを気に入り、国名としたという。リュスカは、そのころから人間に興味津々だったのだろう。
クルセルク戦争後、ユベルは、リュスカによってメキドサールに招かれ、リュスカより王位を譲り渡された。ユベルはリュウディースの女王はリュスカであるということで断ったものの、リュスカが、ユベルに支配して欲しいといって引き下がらなかったため、仕方なく受け入れたのだ。それ以来、メキドサールは魔王ユベルの統治下にある。
当初はリュウディースだけの国だった。
リュウディースは、元来、争いを好まない種族だ。森の奥の小さな国に閉じこもり、花や木々といった自然を愛で、歌を歌い、平穏を謳歌する。そんな魔女たちの住処に別の皇魔を引き入れるのは気の毒だったし、当時、彼は既に魔王を廃業していたこともあって、皇魔一体として連れてきていなかった。
しかし、“大破壊”後、三位結界が維持できなくなると、外界からメキドサールを訪れる皇魔が続出した。まず、小型の皇魔ブリークの群れが森に住み着くことの許可を願い出てきた。ブリークたちは、皇魔の中では極めて脆弱な種族であり、魔王の庇護下でなければ生きていけないと判断したようだった。ユベルはリュスカたちとの会議を経て、それを了承した。
すると、その評判を聞いた別の種族の皇魔たちが我先にと押し寄せてきた。レスベル、ベスベル、ブフマッツなどだ。
“大破壊”は、本来ならば他種族を頼ることなどなかったはずの皇魔たちの考えをも破壊するに至ったのだろう。
本来ならばリュウディース以外の種族をメキドサール内に受け入れることはないのだが、状況が状況だ。ユベルたちは、彼らのために新たな居住区を設け、そこに住まわせることとした。
それからというもの、メキドサールは、リュウディースの国ではなく、皇魔の国となった。
ユベルは、名実ともに魔王となり、種族間の諍いや争いごとの調整なども行うようになった。軍備も整えた。魔王軍の再結成である。
リュウディースたちを戦力に加えたくないというユベルの方針は、リュスカによって覆された。リュスカは、リュウディースの女王として、“娘たち”に魔王軍への参加を命じたのだ。メキドサールは元来リュウディースの国だ。ならば、メキドサールの軍である魔王軍の主戦力はリュウディースこそが担うべきだというのがリュスカの考えであり、その頑固さにはユベルも閉口せざるを得ず、彼女の考えを否定することはできなかった。
魔王軍が成立すると、メキドサールは物騒な気配を帯びたものの、リュウディースの生活そのものに大きな変化があったわけではない。
皇魔の都と化したメキドサールにおいても、平穏は保たれていた。
外界に戦力を差し向けるようなことにさえならなければ、メキドサールの安寧は保たれるだろう。彼はそう信じている。
窓の外、日差しは高く、澄み渡るような青空が広がっているのがわかる。“大破壊”は世界を激変させたが、だからといって世界が終わったわけではない。日は登り、沈む。その繰り返しの中で日常は消費され、以前とさして変わらない日々が過ぎ去っている。
ただ、その日常も、そろそろ終りを迎えるかもしれない。
彼は、背広に袖を通すことで、気が引き締まる思いがした。
「ユベル、着替えは済んだ?」
「ああ。このとおりだ」
ユベルは、背後に向き直り、自分の来ている衣装を見せた。蒼を基調とする礼服は、リュスカの“娘たち”であるリュウディースの手編みだ。リュウディースたちの手先の器用さには感心するばかりだったが、久々に儀礼的な装束に袖を通したこともあって、なんとも変な気分でもあった。普段着は極めて簡素なものなのだ。魔王だからといって気取るほど、彼も愚かではない。
「うふふ。やっぱり格好いいね、ユベル」
「君はいつも以上に綺麗だよ」
「嬉しい」
そういって満面の笑みを浮かべるリュウディースの姿は、彼にとってこの上なく美しいものに見えていた。お世辞でもなんでもない。本心からの言葉であり、想いだ。
リュウディースは、人間によく似た姿をした皇魔だ。五体を持ち、二足歩行であり、目鼻立ちも人間そのものといっていい。青い肌に真っ白な頭髪に、特徴的な一対の角を両耳の上に生やしている。ほかの皇魔と同じく、眼球がないという点も、リュスカの場合は魔法で目を再現することで、異形感を減らすことに成功していた。それはリュスカが自主的に行ったことであり、ユベルに少しでも近づきたいという彼女の想いがそうさせたのだろう。
リュスカは、ユベルの異能によって支配されていたのではなく、個人的な感情で彼に付き従っていた稀有な皇魔だ。そして彼女の存在が、ユベルにひとつの可能性を抱かせるに至っている。そしてその可能性は、メキドサールでの数年に渡る生活によって確信に近づきつつある。
人間と皇魔は、共存できるのではないか。
少なくとも、知性を持ち、人語を解する能力を持つ皇魔とならば、ユベルの異能を介さずとも交渉することができるはずだ。そんな風に思いながらも、だからといってメキドサールに人間を招き入れるつもりはなかった。
人間は、本能的に皇魔を嫌う。血に染み込んだ天敵の記憶が、皇魔を見た瞬間に蘇り、恐怖と拒否反応を呼び起こすからだ。そしてそれは、皇魔もまた、同じだ。皇魔も人間を忌み嫌う。異世界からの来訪者である皇魔たちにとって、この世界から排除しようとする人間たちに優しく接する道理などないのだ。リュスカのような特例を除けば、皇魔が人間を襲わないなどありえない。
だから、分かり合える可能性があるのだとしても、実現までの道は遥かに遠いということも考慮しておかなければならないのだ。
ユベルはそのようなことを考えながら、魔王夫人として相応しい衣装を着込んだリュスカの姿を惚れ惚れと眺めていた。すると、リュスカは頬を染め、恥じらうようにした。そんな仕草がユベルの心を愛情で埋め尽くすのだから、困ったものだと彼は思う。
そのとき、衣装室の扉を軽く叩くものがあった。
「ユベル様、リュスカ様」
室外から遠慮がちに呼びかけてきたのは、執事長のノノルだ。先にリュスカが室内に入っていったのを見ていたのか、知っていたのだろう。だから、万が一の可能性を考慮し、声を潜めたに違いない。
余計なお世話だと苦笑せざるを得ないが、そういうところが彼女を執事長に任じた理由のひとつでもある。リュウディースと人間は文化が違うのだ。人間からしてみれば不躾にみえるところも多い。だがそれこそリュウディースの社会の有りようであり、ユベルは人間のやり方を強制しようとは思わなかった。人間社会であったクルセルクならばまだしも、メキドサールはリュウディースの国だったのだ。郷に入れば郷に従え。ユベルこそ、皇魔のやり方に倣うべきであり、彼はいまのところ皇魔として振る舞っているつもりだったりする。
「ログノールの皆様が、館にお着きになられました」
「そうか。待たせては悪い。急ぐとしよう」
「はい、旦那様」
リュスカはそういうと、嬉しそうに腕を絡みつけてきた。悪い気はしない。無論、客人の前では見せられないが、応接室までは腕を組んだまま歩くのもいいだろう。
衣装室を出ると、ノノルが待っていた。リュウディースの中でも長身の彼女は、体格も良く、戦士としての風格があった。実際、彼女はクルセルク戦争を戦い、生き延びた数少ないリュウディースであり、その証としてというべきか、右角が半ばで折れていた。連合軍の武装召喚師に叩き折られたというのだから、死ななかったのは幸運というほかない。いかに皇魔といえど、武装召喚師と遭遇すれば、ただで済むわけがなかった。
ノノルから様々な報告を受けながら、廊下を進む。戦士然とした執事長は、この館の一切を取り仕切るよう命じてあり、過不足なく役割をこなしていた。彼女の報告も理路整然としたものであり、ユベルは満足感を覚えていた。リュウディースにそのような役割をこなせるものは、そう多くない。
「そういえば、リュカの姿が見えないが」
「それが……」
彼女が明らかに困惑した表情を見せたことで、事情を察する。
「また、脱走したのか」
ユベルが嘆息すると、リュスカがころころと笑った。
「リュカったらお転婆ねえ」
「笑いごとではないぞ」
「だいじょうぶよ。リュカは森に愛されているから」
リュスカがなにひとつ心配していない以上、なにをいっても無駄になるだろう。ユベルはなにもかもを諦めるようにして、意識を客人に戻した。
この森の真の王は、リュスカなのだから。




