第千六百五十九話 夢の終わり(五十一)
「クオン……」
セツナは、矢の雨の中、平然と歩み寄ってくる軍勢を見つめていた。
その軍集団の先頭を歩くのは、セツナのよく知る人物だ。この寄る辺なき異世界において、唯一、セツナと同じ世界に生まれ育ち、同じ常識、知識を持つ青年。黒髪に青い瞳。中性的な容貌は磨きがかかり、セツナでさえ美しいと想ってしまうくらいだった。傷ひとつ見当たらない肌は珠のようであり、白く輝いているようですらあった。身に纏う白衣は、壮麗であり、彼の美貌を引き立てている。その装束は、教会の神子と合一した彼の立場を表しているようだ。手には、真円を描く純白の盾シールドオブメサイアが抱かれており、聖王国軍の猛攻が彼を始めとするヴァシュタリア軍を傷つけることができないのは、確実にその盾の能力だった。
シールドオブメサイアは無敵の盾であり、最強の矛たるカオスブリンガーの対をなすと言っても過言ではない。
グリフを傷つけられなかったのも、セツナやウルクが攻撃を受け付けないのも、それだ。
この広大な戦場にシールドオブメサイアの守護領域が広がっている。
クオンに追従しているのは、《白き盾》の幹部たちだ。かつてザルワーン戦争においてガンディアと契約を交わした際、彼ら幹部たちについて多少なりとも知った。クオンが心を許し、側に置いているだけあって、だれもかれも優秀な人材なのだろう。ウォルド=マスティア、マナ=エリクシア、イリス、グラハムなどだ。知らない顔ぶれもいたが、問いただす必要もない。知る意味がない。そして幹部たちの後方には、二百人程度の兵隊がついている。ヴァシュタリア軍なのか、それとも、《白き盾》の構成員だった連中なのか。
いずれにせよ、敵であることに代わりはない。
「クオン……なんだな」
「そうだよ。ぼくはクオンだ。君が知っている通りのね」
彼は、にこりと微笑んだ。ウルクがセツナの前に出て、警戒態勢に入ったのは、クオンがあまりにも平然とセツナに歩み寄ってきたからだろう。
セツナは、ウルクを手で制し、後ろに下がらせた。
アズマリアのいうとおり、クオンはヴァーラとの合一後の主導権を握ったというのは間違いなさそうだ。言動がクオンそのものだからだ。もっとも、ヴァーラなる人物がこの世界におけるクオンならば、いずれにせよクオンと同じように振る舞い、セツナにも判別がつかなかったかもしれない。セツナの同一存在であるニーウェは、ほぼセツナそのものだった。
「久しぶりだね」
彼は懐かしそうな顔をしたが、セツナは彼と世間話をするつもりもなかった。矛を掲げ、切っ先をクオンに向ける。ウォルドとイリスがクオンの前に飛び出す。反射だ。主に敵意を向けられたのだ。主を護るべく体が反応するのは、側近として正しいことだ。が、クオンはそんなふたりを制した。
「これは一体何の真似だ」
「なんの?」
クオンがきょとんとする様に、セツナは苛立ちを覚えた。掲げた矛の切っ先が震えているのがわかる。滾る怒りが体を震わせている。切っ先を右に向け、聖王国軍を示す。
「俺は、こいつらと戦っていたんだぞ。ガンディアの国土を踏みにじる連中、一人残らず叩き潰すためにな。それを邪魔したのは、おまえだ。クオン。返答次第じゃ、ただじゃおかねえ」
セツナがクオンの眼を睨み据えながら告げると、クオンは初めて厳しい表情になった。
アズマリアは、セツナにクオンの邪魔をするな、といった。
クオンこそ、この世界の鍵を握る人物であると魔人はいっていた。聖王復活を止める手立てはない。だが、クオンならば、クオンとシールドオブメサイアならばなにかしらできることはあるだろう、と。少なくとも、世界を滅亡から逃れさせることはできるはずだ、と魔人はいうのだ。
それは、その通りなのだろう。
何百年にも渡って聖皇の復活を阻止する方法、あるいは聖皇を滅ぼす方法を探していたのだろうアズマリアがいうのだ。彼女の言に間違いがあるとは思えない。たとえ聖皇復活がなされようとも、クオンならばどうにかしてしまえるのではないか、とセツナでさえ想ってしまう。
それならばいっそのこと、聖皇のことはクオンに任せてしまえばいい。
セツナは、そう考えていた。
だからこそ、この戦いに全力を注ぐことができた。ガンディアの国土を踏みにじるものどもを殺し尽くし、三大勢力に小国の意地を見せつけてやる――。
「セツナ。矛を下ろし、戦いを止めるんだ」
「なんだと」
「君の戦いは、ここまでだ。あとは、ぼくに任せてくれ」
「任せろだと? なにを……」
「アズマリアから聞かなかったかい? この戦いの真実」
「聞いたさ。だからなんだってんだ」
セツナは、くすぶる怒りを燃え上がらせるしかなかった。矛を振り払い、叫ぶ。
「俺は、戦ってんだよ!」
クオンは、慈しみに満ちた眼で、こちらを見ていた。穏やかで、愛に満ちた表情。その態度、反応がセツナの神経を逆なでにする。振り切ったはずの過去が影のように浮かび上がり、セツナの思考を絡め取っていく。正常な判断ができなくなっている。
「君の戦いに一体なんの意味があるというんだい? この戦いにどんな意味がある。勝ち目もなければ、死にだけの戦いだ。仮に万が一にでも君が勝ったとして、根本的な解決にはならない。君の考える勝利とは、三大勢力のガンディア本土からの撃退だろう? そんなことをしても、もはやなんの意味もない」
クオンの冷静なまでの判断が、セツナの感情をさらに昂ぶらせる。口の中に血の味が広がった。唇でも噛み破ったらしい。
「術式が完成し、詠唱が始まっている」
クオンが頭上を仰ぐ。見上げると、魔方陣のようなものが浮かび上がっていた。複雑で精緻な古代言語の文字列。魔方陣の光は、少しずつ強くなっているようだった。
それは、王都上空のヴァシュタリア軍を確認したときにはなかったものだ。
「本当はもう少し時間がかかるはずだった。今日中に完成する、その程度の予測だった。けれど君たちが暴れ回ったおかげで、より多くの血が流れた。より多くの人間が死んだんだ。血は呪文を結び、死が術式を組み上げる。それが聖皇ミエンディア・レイグナス=ワーグラーンのこの世界に残した約束という名の呪いだ」
クオンの言葉が、さながら呪詛のようにセツナの意識に絡みつく。セツナは、昂ぶりによって呪詛を振り払い、一歩、踏み出した。聖王国軍の攻撃は止んでいる。不可思議な力に護られていることを認識したからだろうし、そういう命令が下ったからだろう。だが、だからといって、セツナの怒りが収まるわけではない。むしろ、この状況が彼の怒りを加速度的に燃え上がらせるのだ。
「呪いの成就まで時間がない。君は戦いを止め、ここから離れることを考えるんだ。聖皇復活のために必要だった力を考えれば、復活の際に生じる力も想像がつく。ぼくの力でも、どれだけのことができるものか」
「ふざけんじゃねえ!」
「ふざけているのは君だ、セツナ」
「俺は、俺は……!」
「セツナ。君だって理解しているはずだ。この戦いになんの意味もないことくらい、最初からわかっていただろう。ただいたずらにひとを殺していただけだ。運命の理不尽さに対しての怒りを、力なき弱者にぶつけていただけ。それくらい、理解していないわけがないよね」
「クオン!」
セツナは叫ぶことで、クオンの声をかき消さんとした。だが、クオンの声はセツナの耳に残り、意識に突き刺さるのだ。それこそ、彼のいう通り、最初からわかりきったことだったからにほかならない。
「セツナ。話を聞け。聞くんだ」
「うるせえ!」
吼え、矛を薙ぐ。
「俺は、ガンディアのセツナだ! ガンディアの国土を蹂躙されて黙っていられるほど、お人好しじゃあねえんだよ!」
「君の気持ちは、痛いほどわかる。でも、ここは堪えてくれ」
「わかってたまるかよ!」
「わかるんだよ」
「黙れ!」
「セツナ」
クオンは、それでも慈悲に満ちた表情を変えない。悲しみに寄った表情は、セツナの感情を余計に昂ぶらせるのだが、彼はそれを理解していないのだ。彼がセツナの心情を理解できるのなら、初めて逢ったときから互いの想いがこじれることなどなかった。
なにもかもすべてを有していたクオンと、なにもかもすべてを失っていたセツナでは、立場が違う。そのことを彼が理解できるわけもない。
彼は、矛を構えた。隣に立ったウルクが、彼の意図を理解したように両腕を掲げた。
「これ以上邪魔をするなら、クオン」
「……セツナ」
クオンは、ひどく悲しそうな表情をした。その慈愛に満ちた表情は、彼の本心に違いない。それがわかっているから、余計にセツナは怒り狂うしかない。クオンには、セツナの気持ちなど絶対に理解できないのだ。
「まずはおまえを斃す!」
「どうしてそうなるんだ。君は」
「おまえがこの守護領域を解除したら話は別だがな!」
「そんなこと、するわけがないだろう。これ以上の流血は無意味なんだ」
「無意味だと……」
セツナは、クオンに腹立ちをぶつけるように叫ぶ。
「意味ならあるさ!」
「どこにある」
「俺の恨みを晴らさせろ!」
セツナが叫ぶと、クオンは失望したように目を細めた。その反応は、むしろセツナを興奮させる。クオンに失望されようと、構いはしない。
「三大勢力の、神の我儘に翻弄され、夢を奪われたものたちの恨みを晴らさせろ!」
「結局、感情論じゃないか」
「それがすべてだ」
「話にならない」
「それは、こっちの台詞だ」
地を蹴った。一足飛びに、飛びかかる。ウォルド、イリス、マナが動くより遥かに速く、セツナの体はクオンの元に到達している。クオンの眼だけが、セツナの動きを捉えていた。そして、彼の反応だけが、セツナの行動に対応していた。
セツナは、咆哮とともに黒き矛を振り下ろしていた。無論、クオンを盾の防壁ごと殺すためではなく、シールドオブメサイアだけを破壊するために、だ。当然、クオンは、矛を防ぐべく、盾を掲げるだろう。
目論見通り、彼はシールドオブメサイアを掲げた。真円を描く盾が光を発した。盾の力が一点に集中するのがわかる。さすがのクオンもカオスブリンガーの真の力には、全力で対抗しなければならないと感じたようだ。
(それを打ち砕く!)
そうすれば、クオンの心も折ることができる。
セツナは、持ちうる限りすべての力をカオスブリンガーに集めた。全身全霊の力を込めて、シールドオブメサイアに叩きつける。
最強の矛と無敵の盾。
両極をなす力と力が激突し、世界が震撼した。




