第百六十五話 残光
敵陣が光ったと思った直後、雷光の帯がベイロン=クーンの頭上を通り過ぎていった。彼は一瞬びっくりしたものの、雷光は大きく逸れていき、実害はなかった。ばちばちという爆ぜる音が耳朶に不快感を残したが、それだけだった。
周囲の弓兵たちが声を上げた。湿原から城壁上にまで届いたのだ。驚くのも当然だったし、ベイロンだって驚いていた。しかし、脅威はまったく感じない。ベイロンを狙ってすらいなかったのだ。敵の武装召喚師は、城壁上に適当に射ってきただけだ。当たれば御の字、当たらなくとも脅威と思わせることができるかもしれない、という考えだろうが。
「牽制だ。気にするな」
ベイロンは、弓兵たちを一括すると、額からこぼれ落ちる汗を拭った。
全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げていることに気づき、それを騙し通せなくなってきたことも察していた。肉体の異変を欺瞞するのは難しい。ちょっとした負傷が、全身の動作に影響を及ぼすことだってある。全身が正常であっても、疲労が蓄積されれば同じことだ。
剛弓を、ほとんど休みなしで使い続けてきた。どれだけ鍛え上げられ、怪物染みていると評される肉体であっても、体力は有限であり、筋肉は消耗する。剛弓に番えた矢を引くだけで相当な筋力が必要であり、狙った目標に当てるには凄まじいまでの集中力と精神力が必要だった。
既に八十本近い矢を放っていた。そのほとんどが命中したとはいえ、殺せたのは半数以下だろう。大盾兵が展開してからというもの、その盾の布陣を崩すために余計な矢が必要になった。隊列を崩し、その隙につぎの矢を撃ちこむ。隙はどこにできるのか、よく見ていないとわからないが、綻びは必ず生まれるものだ。人間なのだ。どれだけ訓練しても完璧というわけにはいかない。
それは、ベイロンとて同じことだった。どれだけ訓練し、どれだけ鍛え上げ、どれだけ時間を費やそうとも、無尽蔵の体力を得ることも、途切れない集中力を持つこともできない。所詮、人間は人間なのだ。怪物にはなれないし、化け物にもなれない。
それでも、彼にはやらねばならないことがある。
(翼将殿に勝利を)
それだけが、彼の望みだ。
眼下の湿原を進む敵軍の進軍速度は途中から上がっており、じきに通常弓の射程範囲に到達するだろう。そうなればベイロンも剛弓を止め、通常の弓に持ち替えることができる。通常の弓ならば、いまの状態でも難なく使いこなせるのは間違いない。
ベイロンは、剛弓の矢を手に取ると、その部下に命じた。
「弓兵の準備をしておけ。じきに来る」
「はっ」
部下は威勢よく返事をすると、すっくと立ち上がり、南側城壁上の弓兵たちに声をかけていった。
「全軍弓射用意! 全軍、弓射用意!」
城壁上から放った矢が、湿原のどこまで届くのかは、城壁に配置された弓兵ならば感覚でわかっているはずだ。それこそ、血の滲むような特訓の成果だ。毎日毎日、飽きることなく繰り返した訓練の力が、弓兵たちの斉射の威力、精度を凶悪なものにしたはずだった。敵軍は、バハンダールに辿り着く前に壊滅状態に陥るだろう。
ベイロンの剛弓は、ただの警告に過ぎなかったのだと、思い知るのだ。
ベイロンが剛弓を構え、軋む腕で矢を引き、中央の大盾兵に目標を定めたときだった。
「報告! 翼将カレギア様が討たれ、敵がこちらに登ってきます!」
ベイロンは、一瞬、伝令がなにをいったのか理解できなかった。唖然とし、思考停止に陥る。頭の中が真っ白になりかけるが、兵士の悲鳴によって自分を取り戻す。振り返る。どうやら、城壁の階段を登ってくる敵を狙い撃とうとしていたらしい弓兵が、見事なまでに真っ二つに斬られていた。血が飛沫のように吹き上がり、その中を血まみれの鎧の男が駆け抜けてくる。手には黒い矛。セツナ・ゼノン=カミヤ。その瞬間、ベイロンはやっとすべてを理解した。
「翼将殿は殺されたか」
カレギアが戦死し、ベイロンの夢も潰えた。
(あっしは、あなたこそ上に立つべきだと思っていましたぜ)
だから、全身全霊で勝利を捧げよう。
ベイロンは、剛弓の矢の目標を、迫り来る敵に定めた。
だが、その瞬間には、黒き矛は眼前に閃いていた。
グラード=クライドは、城塞都市の乗った丘陵に近づきつつあることに多少の安堵を覚えた。バハンダールの周囲四方に広がる湿原の南方から始まった進軍も、いよいよ佳境を迎えているといっても過言ではない。進軍当初、中天へと昇ろうとしていた太陽は既に傾き、沈むための準備を始めている。
数時間、歩き続けている。
湿原に侵入した直後はまだ良かった。敵の脅威もなく、足元にさえ気をつけておけば、ある程度の速度を保つことができた。基本的に騎馬は禁物で、馬自体がぬかるんだ地面に足を取られ、転倒事故が続発した。地面が地面のため、転げ落ちた兵士が重傷を負うような事態にこそならなかったものの、馬が怪我をすることがあり、馬の扱いに長けたもの以外の騎乗移動は禁止にした。
グラードは、馬の扱いには自信があった。若い頃はログナー随一の手綱捌きと讃えられたものだ。馬上、指示を足しながらの進軍は、湿原の中程まで続いた。が、それもそこまでだった。セツナとルウファが部隊を離脱し、バハンダール上空へ飛び立った後のことだ。バハンダールから矢が飛んできたのだ。それも凄まじい威力と精度を誇り、瞬く間に数人に被害が及んだ。
通常の弓では考えられない射程距離だったが、ザルワーンの武装召喚師という可能性も考えられた。ファリア隊長補佐曰く、その可能性は限りなく低い、との事だったが。
ともかくも、陣形を整え、進軍速度も落とさなければならなくなった。的となる馬車隊は置き去りにせざるを得ず、予定が狂った。
つぎつぎと飛来する矢は、前面に展開した盾兵を弾き飛ばすほどの威力であり、鎧などたやすく貫通し、当たる箇所によっては命を落とすこともあった。兜を貫かれて絶命したもの、腹部に受けて死んだもの、死者の数こそ多くはなかったものの、悲惨な死に様は、全体の士気に影響しかねなかった。
しかし、グラード隊は前進しなければならない。作戦は遂行中であり、立ち止まることなど許されなかった。
幸い、グラード隊にはファリア隊長補佐という凄腕の武装召喚師がついていた。彼女の召喚武装の力によって、こちらに脅威が及んでいることを上空待機中のセツナたちに報せることができたのだ。セツナは予定より早くバハンダールに投下された。
黒き矛である。
戦局を覆すガンディアの矛の実力は、遺憾なく発揮されたらしい。
「矢が、止みましたね」
ファリアが、グラードに確認するようにいった。彼女の言葉通り、さっきまで猛威を振るい、何十名もの死傷者を出してきた矢が、飛んでこなくなっていた。
小休止というにはあまりに長い静寂が、湿原に横たわっている。
「セツナ殿が、成し遂げてくれたようですな」
グラードは、ファリアの横顔を見た。彼女の表情は、作戦の成功に喜んでいるというよりは、隊長の無事が確認できたことにほっとしているようにみえる。ファリア隊長補佐も、不安だったに違いない。
敵の監視外である超上空からの投下作戦。
いくら黒き矛の性能がとんでもないとはいえ、およそ常人の考えつく作戦ではない。
エイン=ラジャールの奇抜な発想には度肝を抜かれたが、確かに、現状の戦力ではこの方法が一番安全かもしれなかった。バハンダールに降下したセツナが、敵兵をひとりでも多く片付けてくれれば、こちらの損害も抑えられる。兵は捨て駒ではない。なるべく多く生還させるべきであり、できるならば一兵たりとも損じたくないというのがグラードの考えだ。
そのしわ寄せがすべてセツナという少年に向かうのは、彼が黒き矛という規格外の存在だからにほかならない。哀れだとは想わない。グラードに彼のような力があれば、進んで任されただろう。残念ながら、グラードとディープクリムゾンの力では、戦局を変えるような大それたことはできないが。
アスタル将軍がエインの案を採用したのは、ほかの作戦だと、勝利のための代価が大きすぎるからにほかならない。払う犠牲は少なければ少ないほど良い。もちろん、それが勝利に直結するのなら、多大な犠牲を払うことも厭わない。将軍とはそんな人物だ。
だから、ログナーの敗戦で払われた犠牲は少なく済んだ。無駄に兵の命を失わずに済んだのだ。結果、ガンディアの戦力は潤い、ザルワーン侵攻へと繋がっている。
なにもかもが複雑に絡み合い、現状を生み出している。
気が付くと、湿原の三分の二ほどを踏破していた。そろそろ通常の弓の射程範囲に入る頃合いだろうが、矢の雨を心配する必要はなさそうだった。
「馬車隊の進軍を再開、盾の陣解除、進軍速度を上げる」
グラードは部下に命令すると、自分の馬を探しに後方に戻った。
「矢の雨はなし。本日は晴天なり」
「槍でも降らせましょうか」
「冗談きついねえ」
西進軍第二軍団長ドルカ=フォームの戯言に付き合うのは、彼の副官たるニナ=セントールくらいだろう。
第三軍団長エイン=ラジャールは、背後で繰り広げられる痴話喧嘩ですらないなにかを黙殺しながら、周囲を一瞥した。第二・第三軍団の混合部隊は、便宜上、本隊と名付けられた。といっても、今作戦のみの名称にすぎないが、呼びやすさ覚えやすさは大事だ。
バハンダールの湿原、その東側を進む部隊に欠員は一人も出ていない。皆、足は泥まみれで、顔に疲労を滲ませてはいたが、だれもかれも傷ひとつ負っていなかった。部隊長連中もそうだし、軍団長のふたりは無論のこと、右眼将軍も無傷だ。
なにもかもが上手く運びすぎていて、エインは呆気に取られることもあった。
湿原の半ばまではなにごともないだろうというのはわかりきっていたことだ。バハンダールの城壁上に弓兵を展開したところで、弓には射程というものがある。丘の上の城塞都市。その城壁という高さは、弓の射程を稼ぐのに最適ではあったが、だからといって超遠距離の敵に届くかというとそうではない。バハンダールから届いても、湿原の三分の一以下の範囲くらいのものだ。
もちろん、こちらが知らないほど強力な弓が多数揃えられていたら話は別だったし、脅威になったのだろうが、幸いにもそういうことはなかった。
本隊は、想定通りに進軍したのだ。
騎馬のまま進んだ連中が転倒したり、歩兵がぬかるみに足を取られて湿原に突っ込んだりはしたものの、それらは笑い話で終わるようなものだった。
ただひたすらに丘を目指した。
そうするうち、空から舞い降りたルウファがセツナからの伝言をもたらしてくれた。
どうやら、グラード隊に異変があり、対処するため予定より早く投下することになったらしかった。それはいいのだ。なにもかもが作戦通りに進むとはエインだって思っていない。不測の事態が起きて当然なのだ。
エインが嬉しかったのは、そのあとのことだ。
セツナは、
『投下後、進軍の安全を確保するために城壁の弓兵を殲滅する』
といったということであり、それはエインの考えそのものだった。軍議の場では派手に暴れろとしかいっていないが、ようは敵軍のこちらへの攻撃を止めてくれればいいのだ。投下の混乱など、一時的なものにすぎない。そんなものに頼って進軍などできるわけがないのだ。
だから、セツナを投下するという賭けに出た。黒き矛のこれまでの戦果や情報を統合した結果、高高度からの投下くらいなら耐えられるだろうと判断したのだが、やはり賭けには違いない。矛が無事でも、セツナの体が保つかは不明なのだ。セツナならばいけるだろうとも思えるし、彼も人間なのだとも考えてしまう。どれだけの戦果を残し、どれだけの敵を殺していようとも、十七歳の少年なのだ。それを忘れてはいけない。
だが、それでも、エインがこの作戦を提案したのは、やはり、セツナへの熱情からなのだろう。
セツナならば、どんな状況も打開してくれるに違いない。
あの日、あの戦場で、アスタル=ラナディースの供回りとして従軍していたエインは、ついさっきまで言葉をかわしていた親友や知人、同僚たちが、黒き矛の一振りで物言わぬ屍になっていくさまを目撃した。どこからともなく飛来した黒き矛は、飛翔将軍の命を狙うのではなく、将軍の供回りを勝敗の生贄としたのだ。
将軍の命を守るために黒き矛に飛びかかった兵士たちは、つぎの瞬間には貫かれ、切り裂かれ、断ち割られ、打ち砕かれて死んでいった。目の前で繰り広げられる殺戮舞踏に、エインは、我を忘れるほどに見惚れた。
これが死なのだ。
圧倒的な暴圧。理不尽極まりない脅威。ただの破壊であり、ただの殺戮。そこに善も悪もないのだ。純然たる闘争の帰結としての死が、乱舞していた。
エインは、その死の一部になるのだと、覚悟を決めたものだった。
だが、何百人目かの死者が出たとき、アスタルが決意したことで、彼は死を免れた。
思わず生き延びてしまったエインは、それ以来、黒き矛のセツナという人物について調べるようになっていた。戦後の慌ただしいマイラムの中にあっても、ただただセツナの情報を集め続け、彼のことを考えない日はなかった。それは恋に似ているのかもしれないが、少し違うだろう。
エインは、いつかセツナに逢えることだけを楽しみに、日々を生きてきた。軍人を続けているのもそうだ。あの苛烈な死の舞踏を目撃した同僚の多くは、軍を辞めてしまった。その気持ちもわからなくはない。あんなものを魅せつけられて、狂喜乱舞しているほうがおかしいのだ。正常ではない、というのは自分でもわかっている。だからこそ、軍人を続けるのだろう。
狂気は戦場に横たわり、生と死が交錯するその場にこそ、エインの生きる道がある。
などと考えているうちに、本隊の最前列が湿原を抜け、バハンダールの丘に辿り着いた。
「どういうことだ?」
馬上のアスタルが疑問視したのは、城門が開け放たれていたからだろう。遠目にはわかりづらかったが、丘の下にまでくればはっきりと見える。普通、城門は敵の侵入を防ぐために閉じておくものだし、閉じた城門を抉じ開けるための準備はしてあったのだ。
「罠ですかねえ?」
「それはないでしょう」
エインは、断言した。矢の雨すら降ってこなかったのだ。敵を城内に引き入れて包囲覆滅するほどの戦力が残っているとは、到底考えられない。いや、戦力はともかく、戦意はもはや無に等しいのかもしれない。バハンダールの兵は、こちらの接近に気づいているはずだ。だというのに、打って出てくる気配すらなかった。
まるで空城だ。
だが、完全な静寂ではない。城塞都市のどこかで小さな戦闘が起きているのか、悲鳴や怒号が聞こえてくることもあった。
セツナが、暴れまわっているのだろうか。