第千六百五十話 夢の終わり(四十二)
頭上、青空が覗いている。
濛々と立ち込めるのは粉塵の中、あきれるほどの空を仰ぎ見て、彼は苦笑を禁じ得なかった。この絶望的な状況には、あまりにも似つかわしくない空模様だ。平穏で呑気なほどの気候。冬を目前に控えているとは思えないくらいの暖かさがある。
ついいましがた、なにかが王都や獅子王宮を攻撃したようだった。それによって王宮そのものが破壊され、玉座の間の天井から上が吹き飛んでしまっていた。幸いにも上階そのものが吹き飛ばされたらしく、瓦礫が落ちてくることはなかった。巻き込まれて死んだものもいまい。王宮に住んでいた貴族や働いていたものたちのほとんどは地下に逃れているし、残っているものも一階にいるはずだ。
「陛下!」
「御無事ですか!」
と、アルガザードや側近たちが一斉に玉座に駆け寄ってきたのも、彼に可笑しみを誘った。
「騒がずともよい。死ぬときは死ぬのだ」
レオンガンドは、死を見据え、どこか心が軽くなった気がしていた。夢は、終わった。終りを迎えた。この上なくあっさりと、終わってしまった。夢を失ったものは、夢を失い、生きる力を失ったものは、これほどまでに虚しい存在になり得るのかと驚いている。ただ、その驚きにはあざやかさはなく、心は微動だにしなかった。
とっくに、沈み込んでいるからだろう。もはや浮上することはあるまい。あるとすれば三大勢力を撃退し、セツナが勝利の報告を持ち帰ってきたときだが、そんなことはありえない。万にひとつどころの話ではない。
(この世には絶対など存在しないというが)
三大勢力を撃退せしめることなど、絶対にありえまい。
三大勢力は、神に率いられているという。
セツナが神に勝てるか。
勝てないだろう。
神の加護を得たものには勝てたとしても、神そのものを滅ぼすことなど、できるものではあるまい。神は、五百年に渡ってこの世界を影に日向に支配してきたのだ。それほどの存在が、人間であるセツナに倒せるとは思えない。
セツナを信じていないわけではない。
むしろ、セツナの力を信じているからこそ、確信するのだ。
セツナは、怪物などではない。人間だ。人間が、化け物染みた力を得ただけのことだ。そのことは、いまならばよくわかる。召喚武装を手にすることの意味を理解したいまならば、セツナの苦悩が大いに理解できた。セツナにどれだけの苦労をさせてきたのか。どれだけ無責任に彼に重責を背負わせてきたのか。彼ひとりに頼り切ってきたのか。
それなのに彼は、レオンガンドの夢を蹂躙したものたちへの怒りを露わにして、戦場に向かってしまった。レオンガンドは、彼を止められなかった。そのことが心残りだ。
「どのような死に様であれ、笑って迎えようではないか」
笑っていられるものか、と想う。
だが一方で、こういうときにこそ笑うものではないか、とも考える。
笑いながら死んでいったものたちの姿が、彼の脳裏に浮かんでは消えた。
レオンガンドは、アルガザードが穏やかな笑みを浮かべていることに気づいて、安心した。彼は、レオンガンドのことをわかってくれている。
「い、いまのは……いったい……」
サリス=エリオンが声を震わせたのは、第四城壁に大穴を開けた光芒が彼の真横を通り抜けていったからだ。膨大な熱量を帯びた破壊光線は、ただ近くに立っていただけの彼の全身に猛烈な汗を流させ、髪や皮膚を焼いている。しかし、驚きと恐怖のほうが強いのか、彼は痛みを訴えるよりもまず、あれがなんだったのかを知りたがったようだ。
カインは、全身、汗でずぶ濡れになるのを認めて、仮面の奥で苦笑した。彼もまた、破壊光線の熱気によって大量の汗をかいたのだ。ただ通り抜けていっただけだというのにこのざまだ。直撃を受ければ、仮面ごと蒸発していたのではないか。
「さてな。召喚武装か、魔晶人形か、はたまた神の力か」
彼は、第四城壁の上から、ガンディオン南東を見やった。帝国軍、聖王国軍、そしてガンディア軍が入り乱れる戦場よりも遥か南方から、光芒は発射されている。どうやら、カランの帝国軍陣地からのようだ。
「いずれにせよ、三大勢力の戦力がとんでもないことに違いはないな」
そして、こうも想うのだ。
仮に三大勢力が動き出さず、ガンディアが小国家群の統一に成功したとしても、新たな均衡の成立はありえなかったのではないか。結局、三大勢力が気まぐれにも動き出せば容易く終わるような均衡は、均衡などとはいえまい。小国家群統一政府と三大勢力では、戦力差は圧倒的にも程がある。例えば、小国家群統一が成立し、戦力を整えるだけの時間があれば話は別だが、そう上手く行くわけもない。
結局、三大勢力の動向次第だったのだろう。
(夢は所詮、夢か)
レオンガンドの夢も、所詮は現実を知らないものの見る妄想だったのだろうか。
そんなことを考えた矢先、彼は、奇妙な感覚に囚われた。魂を縛り付けていた糸が解けていくような、そんな感覚。心を抑えつけていた重力が消えてなくなったかと思えば、翼が生え、どこにでも飛んでいけるような気がした。そして、自分がなにものなのか、わからなくなる。
なにが起きたのかさえ、わからない。
自分は一体なにもので、なぜ仮面などつけているのか。仮面を外し、目の前の男が驚くのを見ても、なにも理解できない。その男が腰に帯びた剣を抜き、腹に突き刺してきたときも、だ。あまりに突然のことで、避けられもしなかった。このくらいの剣速、避けられないはずがない。だが、彼は実際に避けられなかった。脇腹に深々と突き刺さった刀身を紅い液体が伝うの見て、ようやく理解する。自分は、目の前の男に殺されようとしているらしい。
どういう理由なのかはわからなかったし、理由を知る意味もないだろう。
彼は、男の側頭部を殴りつけると、自分の腹から剣を抜いた。血が流れ落ちる。命の流出。止められまい。止めようがない。
「ランカイン=ビューネル……!」
彼に殴られて倒れた男は、こちらを憎悪と憤怒に燃える目で睨んできていた。ランカイン=ビューネル。聞いたことのある言葉だと想った。よく知っている。それこそ、物心ついたときから聞いていたような記憶がある。その言葉がなにを意味するのか、思い出そうとすればするほど、わからなくなる。どうやら、あまり喜ばしい言葉ではないらしい。その言葉に関する記憶のほとんどが、頭の中で暗い影に包まれていた。
「おまえさえ、おまえさえいなければ……!」
男は、叫ぶ。その怒りの声が、耳朶に心地いい。そうだ、と、彼は想う。自分は憤怒と憎悪の中でしか生きられない生き物だったのだ。
ランカイン=ビューネル。
「俺の名だ」
思い出したときには、彼は剣を振り下ろしていた。剣が肉を貫き、臓器を突き破る感触に様々な記憶が復活してくのがわかる。影に覆われた想い出に光彩が宿り、彼の記憶に華を添えていく。絶望的な記憶の数々が、彼の死に向かう肉体を突き動かす。
名も知らぬ男の死体の上で、彼は、呪文を口ずさんだ。
命の流出は、もはや止められない。
剣は、脇腹を貫いていた。余程の怒りと憎しみがあったのだろう。そのせいで、彼の命の時間は残りわずかとなった。
もはやただの肉塊となった男には目もくれず、彼は視線を巡らせた。
残り僅かな命の時間。
どうしたものかと迷う暇もない。
使い切るしかない。
どうやって、使い切るべきか。
彼は、その目に戦場を発見した。いや、この都そのものが戦場の真っ只中といっても過言ではなかった。この都に向かって大軍勢が向かってきているのだ。それこそ、彼が夢にまで見た大軍勢だ。雲霞の如き将兵が押し寄せてきている。千や二千では足りない。万どころではない大軍勢。
彼は歓喜した。
歓喜の中で、呪文を完成させた。
そして竜の翼を得た彼は、南方の戦場に向かって飛翔した。
脳裏には、視界を白く染め上げた光芒が焼き付いている。




