第千六百四十六話 夢の終わり(三十八)
三大勢力によるガンディオンの包囲は、日に日に狭まっていた。
バルサー要塞陥落の報せが届いた翌日にはマルダールが落ち、ケルンノール、クレブールも同日中に落ちたという報告が入っている。
王都ガンディオンは、静寂に包まれていた。
王宮区画、群臣街、旧市街、新市街のいずれもが沈黙に近い静けさの中にあった。吹き抜ける冬の風が音を立てるだけであり、ひとひとり、街路を通らない。市民は皆、王都の地下へと避難誘導されていたからだ。
王都ガンディオンには、大規模な地下施設がある。迷宮のように入り組んだそれは、かつてシウスクラウドが外法機関を住まわせていた場所だが、地下施設が作られたのはそれよりもずっと以前のことだという。王都市民をまるまる移住させても余裕が生まれるほどの空間は、王都が戦場になった際、貴族や市民の避難場所として想定された作りになっている。食料も十分すぎるほど確保されているのだが、それは、三大勢力の動きが確認されたころから貯蔵されはじめたということだ。それまでは、王都の地下施設が利用されるなど想定されてもいなかったのだ。
それはそうだろう。
王都地下が利用されるということは、王都が戦場になる可能性を視野に入れるということであり、ガンディア本土まで敵国が侵攻してくるということなのだ。ガンディア本土は同盟国、従属国という分厚い壁に護られているといってもよく、戦場になる可能性は極めて低くみられていた。このままガンディアが勢力を拡大し続けることができていれば、ガンディオンが戦火に見舞われることはなかっただろうし、地下施設が利用されることもなかったはずだ。
しかし、現実は、ガンディアに極めて厳しかった。
小国家群に向かって進軍を開始した神聖ディール王国、ザイオン帝国、ヴァシュタリア共同体の三大勢力は、弱小国家を蹴散らし、蹂躙するだけでは飽き足らず、ガンディア本土目掛けて侵攻を続けたのだ。マルディア、アバードといった遠方の関係国だけでなく、アザーク、ルシオンといった国々もつぎつぎと制圧されていった。ガンディア領内の各方面も、瞬く間に侵略され、滅ぼされた。クルセルク、ザルワーン、ログナー、ミオンなどだ。
そしてついにガンディア本土に到達した産大勢力は、まるで歩みを揃えるかのような足取りで、ガンディオンに近づきつつあった。
ときに大陸暦五百三年十一月二十五日。
「この国が滅びるのも時間の問題だな」
カイン=ヴィーヴルは、人っ子一人いない旧市街を歩いていた。だれもいない。民間人はおろか、軍人、都市警備隊の人間さえ見当たらなかった。
軍に関して言えば、ガンディア方面軍のうち、第一軍団のみが王都に残っている。第四・第五軍団はバルサー要塞陥落とともに壊滅しただろうし、マルダールの第三軍団、クレブールの第二軍団も同様だろう。クレブールの領伯であり元大将軍アルガザード・ラーズ=クレブールは、現在、手勢を連れて王宮に入っている。馴染みの薄いクレブールで死ぬよりも、生まれ育った王都での死を選んだということだ。
デイオン・ラーズ=クルセールも、クルセルク方面軍三千を連れて、ガンディオンに入っていた。左眼将軍は、クルセルクの激戦を生き抜き、ザルワーン方面からガンディア本土を目指そうとしたが、ヴァシュタリア軍の侵攻を知り、ジベル領を南下、ガンディア本土に辿り着いている。その際、ジベル国王セルジュ・レイ=ジベルも手勢五百とともにデイオンの保護下に入り、そのままガンディオンに合流した。セルジュは、ジベルを滅ぼした帝国軍に一矢でも報いるべく、ガンディオンへの合流を願い出たのだということだ。
同じような想いを持ってガンディオンを訪れたものには、ルシオン軍もいる。ルシオンは、南方から北上してきた帝国軍によって蹂躙され、滅ぼされたのだが、その直前、ルシオンの白天戦団一千名が王都に到着していた。指揮官はハルレイン=ウォースーン。
それら戦力が合流するたび、ガンディア軍の士気は高揚したが、だからといって現状をどうにかできる戦力ではないことくらい、だれもが理解していた。空元気でも士気を高めなければやっていられないという想いが、将兵の中にあるのかもしれない。
「本当に、滅びるのでしょうか?」
「滅びるよ。どうあがいても、数百万の軍勢を撃退することなんざできん」
カインは、冷ややかに告げた。
話し相手は、サリス=エリオンだ。カインの正体を知っているこの人物は、ウルに支配されてからというもの、カインの従者のような立場になっていた。都市警備隊に置いておくのは不安だ、というのがウルの表向きの理由だったが、無論そんなはずもなく、サリスを使ってカインをからかうためのようだった。
サリスは、自分が支配されていることを認識してはいない。
カインが認識できているのに奇妙な話だが、それはカインが特別なだけらしい。普通、ウルの支配を認識することなどできないのだ。なにもかも自分の意思で決定し、自分の心が思い描いたものだと認識する。それなのにカインは、自分が支配されているということを認識してしまった。
『あなたの我が強すぎるのよ』
ウルが苦笑交じりにいった言葉を思い出す。
彼女は、まだ、生きている。
それは間違いない。
死んでいれば、カインは自由になっているはずであり、サリスもまた、己を取り戻しているはずだからだ。
「セツナ様でも、ですか?」
「ああ。セツナ様は強い。とてつもなくな。俺が知る限りでは最強の存在だ。だが、そんな彼にも弱点がある」
「弱点?」
「人間だということだ」
カインが告げると、サリスは意外そうな顔をした。よもやそのようなことが弱点だとは思いもしなかったのだろう。だが、カインはそれこそ、この上ない弱点だと思っていたし、それ以外には弱点というべきものは見当たりそうになかった。
「彼は、どうあがいても人間なのだ。人間には限界がある。体力も精神力も消耗し続ければ、いずれ尽き果てる。そうなれば、たとえ黒き矛のセツナだろうと、雑兵ひとりに殺されるさ。数百万の軍勢がこの王都に殺到してみろ。そのすべてを撃退し切る前に力尽き、倒れるのが関の山だろう」
「三大勢力が交渉に応じてくれる……なんてことは」
「だったらもっと早く侵攻は止まっているさ」
カインは、サリスの希望を踏み潰しながら、帝国軍の動きに変化が訪れるのを待っている自分に気づいた。
それはすなわち、ウルの生存を期待しているということだ。
ウルが皇帝を支配することに成功し、帝国軍を制御することができれば、流れは変わる。少なくとも、帝国軍の軍事力でもって二大勢力に抵抗することができるのだ。それによってガンディアが勝利できるかといえば、その可能性は極めて低いが、小国家群を理不尽な力で蹂躙してきたものたちに一矢報いることくらいはできるだろう。
逆にいうと、それくらいしかできない、ということだが。
(なにもしないよりはいいさ)
どうせ、死ぬのだ。
カインも死ぬ。サリスも、死ぬだろう。
死ぬのであれば、派手なほうがいい。
派手に戦って、派手に死ぬ。
最後など、その程度でいいのだ。
惜しむらくは、セツナの最後の戦いをこの目で見ることができないだろうということだ。
終わりが近づいている。
ひりつく空気がそれを実感させる。
滅びが形となって現れたのだ。
ザイオン帝国、神聖ディール王国、ヴァシュタリア共同体。
それぞれ、総勢二百万という兵数を呼号しているという。そしてそのほとんどがこのガンディアの大地に結集しているのだとも。
王都ガンディオンにそれほどの戦力が残っているはずもない。
せいぜい六千に到達するかどうかという数でしかない。
三大勢力が本当に二百万ずつの兵力を誇っていたとすれば、合計六百万対六千というとんでもない戦力差の戦いになる。
勝ち目などあろうはずもない。
本来、兵力差即ち戦力差だ。
武装召喚術の普及、武装召喚師の充実によって、兵力が戦力に直結しなくなったとはいえ、これほどまでの兵力差となれば話は別だ。召喚武装の絶大な力で持ってしても覆し得ないだろう。たとえセツナと黒き矛がその強大無比な力を駆使しても、だ。
「百回戦って百回負ける戦です」
アレグリア=シーンの冷静な声が、感傷に浸ろうとする彼にはちょうどよかった。妄想に逃げるのを引き止め、現実に向き合わせてくれるからだ。
「だが、セツナは戦うそうだ」
レオンガンドは、あの日、セツナがいってくれた言葉を思い浮かべて、苦笑した。
「彼は、わたしの英雄なんだ」
「はい」
「英雄は、いつだって輝いているものだな」
「はい」
アレグリアは、ただ静かにうなずいた。
「わたしはここで、英雄殿の勝利を願おう」
無論、そんなことは万にひとつもないことくらいわかっている。
それでも、彼は祈らずにはいられないのだ。
セツナの無事を。
セツナがこの王都制圧を目指す三大勢力との戦いの中で己の無謀に気づくことを。
そしてレオンガンドの言葉を思い出し、戦場から離脱することを。
黒き矛ならば、黒き矛とセツナならば、雲霞の如き大軍勢の中からであろうと離脱することもできるだろう。
レオンガンドはセツナの決意と覚悟を受け入れながらも、そう願わずにはいられなかった。
自分はいいのだ。
ガンディア王家最後の王として、王都ガンディオンと運命をともにするというのは当然のことだと考えている。生き延びる方法ならば、いくらでもあった。避難させた市民らと同じように地下に逃げ込み、息を潜めて待てばいい。三大勢力が儀式のために血を必要としているとはいうものの、その血は自分たちで補い合うだろう。すべての勢力が王都を目指している以上、激突は避けられない。その激突によって、儀式に必要となるであろう血が流れるのだ。
王都地下に隠れていれば、いつの間にか戦いは終わっているはずだ。
生き抜くことそのものは、それほど難しくはない。
だが、生き抜いたとして、レオンガンドにはなにも残らないというのが、彼がここにいる理由のひとつだった。
三大勢力の戦いがどのような結末を迎えようと、その先の世界でガンディアという国を再興することは難しいと彼は見ている。小国家群は三大勢力によって蹂躙され尽くしたのだ。国という国が滅びた。三大勢力の勝利者が切り開く未来。そこに弱小国家の未来などはあるまい。ましてや、滅びた国を再興させることなどできるわけもない。
ガンディアは滅び、歴史の中に埋没する。
レオンガンドの夢は、永遠に失われるのだ。
小国家群そのものが滅びた。
彼は、夢を失ってまで生きていこうとは想わなかった。
夢の終わりが、自分の人生の終わりだと、彼は想った。
その終わりを飾るべく、アルガザードやデイオンまでがこの王宮に集ってくれたことには感動すら覚えたものの、彼らがいかに力を結集したところで、多勢に無勢、勝てる見込みはない。無論、そんなことがわからないアルガザードたちではない。
勝てない戦いをしようというのだ。
一世一代の負け戦。
アルガザードたちの戦いを見届け、そして、この王宮とともに滅びを迎えよう。
レオンガンドは、そう考えている。
そして、運命の日がやってきた。
大陸暦五百三年十一月二十七日。
三大勢力それぞれの前線部隊が王都ガンディオンを挟んで牽制し始めた。
その様子を、セツナは獅子王宮の屋根上から見ていた。
王都の周囲四方、円を描くように大軍勢が包囲している。
「雲霞の如く、とはまさにこのことですねえ」
ルウファが呆れるようにいうと、グロリアがうなずいた。
「まったく、物凄まじいものだな」
「あれが三大勢力か」
セツナは、黒き矛によって強化された感覚を用いて、王都を包囲する軍勢を見ていた。その数、ざっと五十万は超えるだろう。前線に出てきた数でそれだ。全軍合わせればもっと多いだろうことはいうまでもない。
三大勢力はそれぞれ、二百万を呼号する大軍勢を率いて、この王都ガンディオンの包囲を構築している。五十万というのは、それら三大勢力の前線部隊の総数にすぎない。それもセツナの感覚がざっと把握した数であり、正確なものではない。
それでも、王都を攻め滅ぼすには十分過ぎる数だ。
王都に集まったおよそ六千では、五十万を撃退するなど不可能だ。
「ふざけやがって」
セツナは、黒き矛を握る手に力を込めた。
「隊長」
「ああ。みんなのことは、頼む」
「はい。任せてください」
「必ず、無事にこの戦場から離脱してみせますとも」
ルウファとグロリアの言葉は、心強い。
しかし、ルウファは、どうにも納得出来ないといった表情を浮かべていた。
「ん?」
「隊長も、逃げましょうよ」
彼は、またしてもそういってきた。彼自身、ガンディオンで戦い、死ぬことを覚悟していただろう。彼は、バルガザール家の人間なのだ。ガンディア王家に人生を捧げることを教育されてきた彼は、レオンガンドとともに死ぬことが正義であると考えているようだった。だが、彼はセツナの説得により、戦場から離脱することを承諾した。
ルウファとグロリア、それにアスラが協力してくれれば、この王都から遥か北に逃れるのは難しいことではない。
「それはできない」
セツナは、ルウファの目を見なかった。
「何度もいっただろ。俺は、ガンディアのセツナなんだよ」
ガンディアが滅ぼされようとしているいま、ここを離れることなどできるわけがない。
ガンディアを蹂躙し、侵略してきたものどもに思い知らせてやるのだ。
自分たちがなにをしてきたのか、その身に刻みつけてやる。
「俺はここで戦って、死ぬさ」
それがセツナとルウファたちの別れの言葉となった。




