第千六百四十一話 夢の終わり(三十三)
ラディアン=オールドスマイルの姿は、さながら天使のようだった。
白い法衣を纏い、背には純白の翼を生やしている。背後には光輪が浮かび、ラディアンの姿を照らし出している。巨躯からくる威容が、光を帯びて、神々しささえ感じさせる。よく見ると、両方の前腕が奇妙なほどに肥大していた。その肥大した手を胸の前で組み、彼は、異様なほどに巨大化した両目でこちらを見ていた。双眸が光を発している。人間ではない。
(なんだ……これは)
ルクスは、ラディアンの変容と、絶命したはずの武装召喚師たちが槍を構えていることに動揺を隠せなかった。そして、ルクスが武装召喚師と断定したものたちが武装召喚師ではない可能性があることに気づく。ラディアンの翼と、武装召喚師たちの翼はまったく同質のものに見えるからだ。
(翼型召喚武装ではないってことか?)
だとすれば、同じ武装がいくつも存在していることにも納得がいく。二叉の槍も、翼も、召喚武装とは別由来のものなのだ。
「我らは神の使イ。救いを求めるものに神意を伝エ、教えに背くものどもに神威をもたらすもノ」
ラディアンが口を開くと、声が幾重にも響いた。
「悪魔ルクス=ヴェイン。あなたにも神の裁きを受けて頂きましょウ」
大きく開いた翼が大気を叩く。瞬間的に生じた強烈な衝撃波が、ルクスを、周囲のヴァシュタリア兵ごと吹き飛ばす。避けようのない広範囲攻撃。凄まじい威力の衝撃波を叩きつけられ、一瞬、呼吸ができなくなる。そしてそのまま遥か後方へと吹き飛ばされている。ラディアンの巨躯が迫りくるのがみえた。
(早いっ!)
ルクスは、がむしゃらに剣を振ろうとしたが、振り下ろした剣はラディアンの右掌に受け止められていた。そのときには、ラディアンがルクスの眼前に到達していたのだ。目の前に、ラディアンの顔があった。そのまま、地面に背中を打ち付ける。直後、ラディアンが振りかぶった左掌に光の輪が生じる。不可思議な力。叩きつけられればただ事ではすまないだろう。しかし、逃れようがない。グレイブストーンを掴まれている。瞬間、爆音と閃光がラディアンの左手を吹き飛ばす。ラディアンが視線を向けた先には、槍を掲げるベネディクト。ラディアンが笑う。
「悪魔がもう一体、いたようですネ」
吹き飛ばされた左腕がみるみるうちに復元し、元通りになる。そしてその左手をベネディクトに向かって掲げた瞬間、ルクスは呼吸を整え、剣を振り抜いた。右掌を切り裂き、巨体を蹴り上げる。左手に生じた光の輪があらぬ方向に飛んでいき、ヴァシュタリア兵に接触した。その瞬間、光の輪が無数の光輪を生み出しながら肥大化し、周囲の空間ごと飲み込むかのように収束した。その後にはなにも残らない。ヴァシュタリア兵も、地面も、なにもかもだ。空間そのものが削り取られたかのようだった。
ルクスはラディアンを蹴り上げた隙に離れると、一気にベネディクトの側まで駆け寄った。ベネディクトは、肩で息をしていた。消耗している。
「ルクス、あれ、なんなの?」
「わからん」
彼は、ベネディクトにそう答えてから、ラディアンを睨んだ。
「神を崇拝するものが化物になるだなんて、因果なものだな」
「我々を愚弄するのですカ!」
「どう見たって、化物じゃねえか!」
「化物! 化物!? 我々のどこが化物だというのでス!」
ラディアンが立ち上がりながら、絶叫する。その声が大気に作用し、彼の周囲に嵐が巻き起こった。周囲の兵士が吹き飛ばされるほどの暴風の渦。それを見ても、ラディアンの力が尋常ではないことがわかる。
(神の加護ってやつなのかもな)
ベノアガルドの十三騎士が、救世神ミヴューラの加護によって、人知を超えた力を発揮するという話を聞いたことがある。神を信仰するヴァシュタラ教会の巡礼教師にも、同じようなことが起こったとしても、必ずしもおかしいとはいえない。神がラディアンのようなものにまで力を与えるのであれば、絶望的に過ぎるが、ヴァシュタリアの神など元より信じるにたる神ではないのだ。神の加護によって、戦力を量産していても不思議ではない。
ルクスは、ラディアンが怒りに我を忘れているいまが好機だと判断した。
「ベネディクト、動けるか?」
「ええ」
「一旦、引くぞ」
「え?」
ベネディクトが意外そうな表情をしたのは、ルクスならばラディアンを見逃すまいと想っていたからに違いない。
「あんな化物、相手にしていられるかっての」
「でも……」
「ああいうのは、俺の弟子の専任なんだよ」
ルクスは一方的に話を打ち切ると、彼女の槍を握った。掲げ、力を込める。ルクスの精神力を消耗し、光弾を発射したのだ。光弾は、嵐の中心に吸い込まれるようにして消え、爆発を起こした。瞬時に駆け出す。
(セツナでも際どい相手なんだろ、神の加護ってのはさ)
ルクスは、弟子であるセツナの実力は、自分以上であると認めている。無論、それは素の実力の話ではない。黒き矛を手にしたセツナは、グレイブストーンと戦竜呼法を併用したルクスを軽く凌駕する力を発揮するのだ。それは、マクスウェル=アルキエルの《時の悪魔》との戦闘で明らかになっている。ルクスひとりでは《時の悪魔》を倒すことなど不可能だったが、セツナは、ほぼひとりの力でマクスウェルを撃滅している。
そんなセツナですら苦戦を強いられ、敗北を喫したというのが神の加護だ。再戦では圧倒できたというが、それはセツナだからだ。ルクスでは、ルクスとグレイブストーンでは、神の加護を得たのであろう怪物を撃破することなどできるものかどうか。
(だが、どうする?)
ラディアンは、間違いなくルクスを殺そうとしている。ヴェインの血を根絶やしにすることに執念を燃やしている。この戦場にいる限り、いや、この戦場を脱したとしても、追撃し、ルクスの息の根を止めようとするだろう。
それは、いい。
死ぬための戦いだ。
死を見越した上で、戦っているのだ。いまさら死は恐ろしくない。
真に恐ろしいことは、大切なひとを、大事なひとたちを失うことだ。
敵兵の真っ只中を、ベネディクトを引っ張りながら、駆け抜ける。敵兵はルクスを狙っている。片手で握ったグレイブストーンで血路を開き、前進する。ラディアンとベネディクトの距離を少しでも離すためだ。自分のためではない。
「わたくしがあなたを見逃すとお思いですカ?」
声は、頭上から聞こえた。愕然と顔を上げたとき、中空のラディアンが左腕を振りかぶっていた。左掌に光の輪が生まれている。振り下ろされる。
「ルクス!」
鋭い叫び声とともに、ルクスは衝撃を受けた。召喚武装によって引き上げられた身体能力が、ルクスの体を突き飛ばしたのだ。おかげでラディアンの光輪攻撃を回避することができたものの、ルクスの耳をなにかが爆ぜる音が掠めた。敵兵の海の中で態勢を立て直し、振り向いたルクスが目の当たりにしたのは、空中高く舞い上がった三叉の槍であり、竜骨鎧の破片であり、腕であり、血液だ。悲鳴は聞こえなかった。おそらく、一瞬だったのだろう。ラディアンの左手がベネディクトに触れた瞬間、周囲の空間ごと削り取るようにして、消し飛ばしたのだ。
ラディアンの左腕そのものが消し飛んでいる。足元の地面も大きくえぐれており、ベネディクトの体はほとんど完全に消失していた。宙を舞った腕だけが、抉り取られた地面に落ちる。
「ベネディクト……」
ルクスは、意識が急激に冴えていくのを認めた。沸騰していた感情が冷却され、思考が透明になっていく。呼吸を整え、体力を回復させる。怒りは、なかった。悲しみも、ない。感情の変化も、度が過ぎるとなにも感じなくなるものなのかもしれない。
醒めていく。
「悪魔が一匹、消滅しただけのこト」
ラディアンが、左腕を瞬く間に再生させながら、こちらを見た。痛みも感じないのだろう。だからこそ、己の左腕を犠牲にすることもできるのだろうし、ヴァシュタリア兵を巻き込んでも、なんとも思わないのだ。
「なにも悲しむことはありませン。なにも嘆く必要はありませン。あなたもすぐに後を追わせて差し上げまス。神の御下、天ヘ」
「あんたらのくだらない神の元なんて、願い下げだ」
吐き捨てる。無論、そんな言葉で動揺するような相手ではないことくらい、わかりきっている。
「それに俺もベネディクトも、行き先は地獄って決まってんだよ」
「それこそ、お門違いというものですヨ。我らが神ハ、背信者であれ異教徒であれ極悪非道な罪人であレ、分け隔てなくお救いくださるのでス。神ハ、その大いなる愛によっテ、汚濁に塗れ穢れきった魂を浄化してくださるでしょウ。そして、神の御下デ、未来永劫、幸福に満ちた時間を過ごそうではありませんカ」
「てめえらだけでしてな」
ラディアンの演説など、聞いていなかった。呼吸法によって身体能力を最大限に強化したルクスは、即座にその場を離れた。思考を支配する圧倒的な冷静さだ、ベネディクトを殺された怒りを制圧し、ルクスを突き動かす。このままでは、だめだ。このままラディアンと戦っても、無意味に殺されるだけだ。それでは、意味がない。ベネディクトの仇も討てず、だれも護れず、意味もなく死ぬなど真っ平だ。
(済まない、ベネディクト)
胸中、悲しみが満ちていく。
(君を護れなかった)
ベネディクトも守りたかったひとりだ。
それなのに彼女は、なにもいわずルクスを守り、死んだ。ルクスの代わりに死んだのだ。死ぬべきは、彼女をあんな戦場に連れて行ったルクスであるべきなのに。
脳裏を巡るのは、わずかばかりの結婚生活。
ベネディクトは、本当に幸せだったのだろうか。
そんなことばかりを考えながら、敵兵の群れの中を疾駆する。もはやだれの目にも止まらない。だれの手にも負えない。そんな有様で、シグルドの元に辿り着くと、惨憺たる状況だった。
「よお、ルクス。首尾はどうだよ?」
などと笑いかけてきたシグルドは、竜骨鎧のおかげもあってか、無傷に近かった。ただ、目に見えて疲労している。それはそうだろう。敵は圧倒的多勢。雑兵ばかりとはいえ、人間の体力は無尽蔵ではない。戦竜呼法で体力を回復できるのならばともかく、常人であるシグルドは、ここまで戦い抜けているだけでも賞賛に値するといってもよかった。ジンも、へとへとといった様子で、ルクスの無事な姿を見て、ほっとしたようだった。
《蒼き風》は、壊滅状態に近い。
いや、《蒼き風》だけではない。バルサー要塞を発したガンディア軍そのものが、壊滅目前といった有様だ。
「ベネディクトが死んだよ」
「そうか」
シグルドの反応が薄かったのは、ルクスがいうまでもなく把握していたからだろう。生きていれば、ルクスならば必ず連れてくるということがわかっているのだ。
「ファリューも、俺と一緒に行った連中も皆、死んだ」
「こっちも、ほとんど死んだな」
「《蒼き風》、《紅き羽》合わせても五十人に満たないくらいです。ガンディア軍も、五百人残っているのか、どうか」
「ついに、本当の意味での最後の時が来たってわけだ」
シグルドが野性味あふれる笑顔を浮かべると、ジンが静かにうなずいた。言葉に出さずとも分かり合える。ふたりは、互いに半身のようなものなのだ。ふたりでひとり。互いを補い合っている。どちらが欠けてもいけない。
ルクスとは、違う。




