第千六百四十話 夢の終わり(三十二)
「そろそろ、頃合いだな」
シグルド=フォリアーは、戦場を見渡しながら、つぶやいた。
戦闘が始まって、数時間あまり。
開戦当初から劣勢を極めていた戦力差は、時間の経過とともにさらに酷いものになっていた。傭兵団、ガンディア軍ともに壊滅的な状況にあり、一方、ヴァシュタリア軍はその兵力の十分の一も失っていない。
四千弱対二十万。
端から無理な戦力差だったのだ。
それでも逃げるわけにはいかないから、戦うことに拘った。ガンディア軍もそうだ。第四軍団長ミルヴィ=エクリッドも、第五軍団長ケイト=エリグリッサも、ここで逃げてはレオンガンドへの忠節を示せない、と踏み止まり、シグルドたちとともに負け戦に命を投じた。
万にひとつの勝算もない、完全な負け戦。
戦えば、死ぬしかないのだ。
逃げてもよかった。王都にまで引き下がっても、構いはしないだろう。敵は圧倒的多数。敵うわけがないのはだれの目にも明らかだ。赤子にだってわかるだろう。それくらいの戦力差。
肩書を捨て、野に下ってもいい。一般人に紛れて隠れれば、戦いの終わりを見ることもできただろう。
だが、バルサー要塞に残った多くの軍人、傭兵がそれを良しとはしなかった。
ガンディア軍人たちは、ガンディア王家への忠誠、レオンガンド個人への忠義のために命を擲とうとした。
シグルドも、ガンディア人であることを止められなかった。ガンディア王家のために、レオンガンドのために、戦い抜こう。そう想った。本当は、ジン以下、だれひとりとして道連れにするつもりはなかった。そういったところでついてくることくらいわかりきっていたが、それでも、自分勝手な戦いにまで強制する道理はない。
《蒼き風》は元々傭兵集団だ。野に下ろうとも、どうとでも生きていけよう。ちゃんと貯蓄していれば、数年は生活に困らないくらいの金は貯まっているはずだ。シグルドのように金遣いの荒い団員はほとんどいない。なんの心配もなかった。
それなのに、ほとんど全員がシグルドとの道行きを選んだ。
絶望的な戦いの果てに死ぬだけの道を。
「やっぱ、気炎吐いてるのはあいつくらいだな」
「ルクス、ですね」
「ああ」
彼は、遠眼鏡の彼方で戦うルクスたちの凄まじさに舌を巻く想いで、うなずいた。ルクスとベネディクト、ファリューたちが敵陣に混乱を巻き起こしている。ルクスの鬼気迫るような戦いぶりは、彼と初めて逢ったときのことを思い起こさせた。十年以上昔、ルクスがまだ子供だったときの記憶。身の丈に合わない長剣を大事そうに抱えた少年との触れ合いの日々。
懐かしい思い出。
「あいつだけ、飛び抜けてたもんなあ」
「はい」
ジンが、微笑みを浮かべていた。ルクスは、彼にとっても手のかかる弟のような存在だったのだ。ルクスがいたからこそ、《蒼き風》という集団がひとつにまとまったともいえる。なにも知らない子供だからこそ、荒くれ者の集団に変化をもたらしたのだ。危なっかしい少年剣士に対し、だれもが親身になったものだ。彼が類まれな剣才を発揮し、“剣鬼”と二つ名で恐れられるようになると、皆して喜んだ。だれひとり、ルクスの活躍を妬むものはいなかった。
ルクスは、ある意味で《蒼き風》の中心にいたのだ。
「あいつだけでも、生きて欲しいもんだが」
「無理でしょう」
ジンがあっさりと、いう。
「やっぱり?」
「ルクスに、シグルドを置いていくなんて真似、できるわけがない」
「ははっ……そりゃそうか」
「彼は、シグルドがいなければ生きていられませんから」
ルクスの思考法は、単純明快だ。自分を拾い、育て上げてくれたシグルドの命令だけを聞く。それだけなのだ。それはもはや思考法とはいえないだろう。思考の放棄。命令だけを聞き、遂行するだけの殺戮人形。それが“剣鬼”ルクス=ヴェインなのだ。人間らしい感情の入り込む余地がない分、彼の剣技は冴え渡り、戦場においては鬼の如く恐れられた。
だが、それでよかったのか、とシグルドは幾度となく想った。ルクスをそんな風にしてしまったのは、間違いなくシグルドだ。ルクスの剣才に惚れ込み、その才能を発揮するためだけの肉体作りに没頭した。気がつくと、ルクスはシグルドでも手に負えない怪物の如く成り果てていたが、その怪物は、シグルドの命令にのみ従うようになってもいた。
彼ほどの才能があれば、もっと別の人生を歩むことができたのではないか。
もっと、人生を愉しむことができたのではないか。
生き方を縛ってしまったのではないか。
ガンディアの躍進に従い、そう考えることが増えた。ルクスが不満を漏らしたわけでもなければ、彼が人生を楽しんでいないわけではない。
ただ、想うのだ。
ルクス=ヴェインの思うがままの人生を歩ませてあげたかった、と。
「ベネディクトと結婚したら、そんなこともなくなると想ったんだがな」
「だから、結婚しろと煩かったんですね」
「そりゃあそうさ。全部、あいつのためだよ」
シグルドは、足元に落ちていた手槍を蹴り上げ、右手に掴むと、無造作に投げ放った。手槍は放物線を描き、思った通りの敵兵の頭を貫き、絶命させた。敵兵をひとりやふたり殺したところで、状況は変わらない。流れは、完全に敵軍にある。それはそうだろう。たかが四千未満の軍勢が二十万を超える大軍勢に敵うわけもない。
数時間、持っただけでも十分過ぎる。
(あいつの生い立ちを知りゃあな)
ルクス=ヴェインの生い立ちは、シグルドやジン以上に悲惨だ。物心ついたときにはヴァシュタリア勢力圏を転々としていたという。父親であるブライト=ヴェインがなにをしていたのかは知らないというが、思い返してみると、異教徒を煽り、教会との間に戦いを起こしていたようだ。また、ブライト=ヴェインが、教会に“悪魔”と呼ばれていたという話も、シグルドは聞いている。
ルクスはつまり悪魔の子であり、そんな彼が教会の軍勢と最期の戦いを繰り広げているのは、因縁めいている。
「しかし、まあ、ベネディクトが少しでも報われたのなら、良かったよ」
「ええ」
ジンが、槍でもって敵兵を突き殺しながら、笑う。
ベネディクトは、ルクスの少年時代に一目惚れしている。それ以来、戦時、平時にかかわらずルクスに交際を迫ったり、結婚を申し込んだりしていたが、そのたびにルクスには軽くかわされていた。しかし、ベネディクトの献身的なまでの愛情は、ルクスの親代わりを自負するシグルドすら認めるところだったし、兄役のジンもベネディクトを応援していた。そんな彼女の愛がついに報われたのだ。たとえそれがわずかばかりの幸福であったとしても、彼女は嬉しかっただろう。
それによって、ルクスが少しでも人間らしい幸せを得られたのなら、シグルドにとってはそれ以上嬉しいことはなかった。
それでも、彼は、想う。
ルクスには、生きて欲しい。
ベネディクトとともに生き抜き、戦後の世界で生き続けて欲しい、と。
そのためにはどうすればいいのか。
(ますはふたりを呼び戻さにゃあな)
シグルドは、敵兵との距離を確認すると、遠眼鏡でルクスの様子を確認した。
ルクスは、中空高く、舞っていた。
飛び上がり、敵兵の肩を足場にするようにして踏みつけ、つぎつぎと乗り移って前進する。敵兵の視線が自分に集中していることを感覚だけで理解して、安堵する。ベネディクトは、黙殺されている。すべては、ラディアン=オールドスマイルの気分次第だが、その気分は信用することができた。ラディアンには、ヴェインの一族に対して個人的な恨みがあるようなのだ。その恨みを晴らすべく、彼はルクスを最優先に殺そうとするだろう。
聖歌が響き渡る中、ラディアンはこちらを見ている。喜悦満面といった表情は、勝利を確信しているからだろう。ヴァシュタリア軍の、自分自身の。
(吠え面かきやがれ)
ルクスは、内心吐き捨てると、敵兵の海の上を疾駆した。眼下には敵兵の群れ。上空の武装召喚師たちは攻撃できまい――
光の槍が前方から発射されてきたことで、ルクスは、唖然とした。瞬時に右に飛び、敵兵の兜を踏みつけて前に飛ぶ。数条の光の槍がヴァシュタリア兵を貫くのが見えた。味方を巻き添えにすることも厭わないということが判明した瞬間、ルクスは思考を変えた。敵兵を盾にして召喚武装の攻撃を制限するという戦い方はできない、ということだ。
光の槍がつぎつぎと飛んでくるが、そのたびに飛んでかわす。辺り一面敵兵ばかりだ。足場には困らない。敵兵の剣や槍を避けるのは、光の槍を避けるよりたやすい。そして、避けた槍は敵兵に突き刺さり、悲鳴をあげさせる。それだというのに、ヴァシュタリア軍には動揺ひとつ、混乱ひとつ起きなかった。まるで自分たちが味方の攻撃に巻き込まれても問題ないとでもいうように。
不自然にもほどがあると想いながらも、ルクスは、止まれない。止まったら最後、光の槍を雨の如く浴びせられ、死ぬだけだ。竜骨の鎧も、光の槍を防ぎ切れるのかはわからない。
翼を生やした武装召喚師たちは、ルクスとの距離を取るべく空中を後退する。その刹那、強烈な光弾が武装召喚師の翼に突き刺さり、爆光を撒き散らした。光の渦が武装召喚師を飲み込み、吹き飛ばす。焼死体が煙を吹き出しながら落下した。
立て続けに放たれた光弾が、別の武装召喚師に直撃し、再び爆発が起きる。武装召喚師はあと三人。動揺によってわずかに生じた隙をルクスは見逃さない。兵士を蹴って飛び、一足飛びに間合いを詰め、武装召喚師のひとりを袈裟斬りに切り捨てる。翼による浮力の制御を失った武装召喚師が重力に引かれて落下するのを見届けるまでもなく、つぎの目標に飛びかかり、切り裂く。そのときには、三発目の光弾が最後の武装召喚師を爆発させていた。
ベネディクトは、この短時間で三叉槍を使いこなしているようだった。優れた才能といわざるをえない。振り向く。ベネディクトは、三叉の槍を構えたまま、ふらふらになっている。消耗している。だが、武装召喚師は倒せた。これで、ラディアンを殺せば、少しは楽になる。
(いや……)
ルクスは、足元からの殺気に、後ろに飛んだ。光の槍が地上から上空に向かって放たれ、視界を切り裂いていった。武装召喚師だろう。
(ほかにもいたのか)
と、ルクスは考えたが、違った。
光の槍を発射してきた武装召喚師は、肩口から脇腹あたりまで切り裂かれた状態で、空中に浮かび上がってきたのだ。血の流れは止まっている。流し尽くした、というべきなのかもしれない。
(どういうことだ?)
ルクスが困惑していると、もうひとり、ルクスが斬り殺したはずの武装召喚師も空中に浮かび上がってきていた。同じく、血を流し尽くしたような状態だった。
「神の使徒たる我らがその程度で死ぬとお思いですカ?」
ラディアンの声とともに、大きな圧力を感じた。
見やると、ラディアン=オールドスマイルが白き一対の翼を生やし、光の輪を背負って、浮かんでいた。




