第百六十三話 激走
「敵襲! 敵襲!」
「中央大交差路に敵襲!」
「敵は黒き矛のセツナを名乗り――!」
兵士が数名、算を乱して走り去っていったのは、自軍にセツナの急襲を伝えるためだろう。
全員が全員、セツナの前から逃げ去ったわけではない。甲冑も纏っていない哀れな兵士たちは、空からの侵入者を前にして、驚きや恐れを隠せない様子だった。中には腰を抜かしたまま立ち上がれないものや、悪い夢でも見ているかのような顔をしているものもいる。
これが現実だと認識し、腰に帯びた剣を抜いたのは、ひとり軽装の鎧を纏った人物。部隊長だろうか。彼が剣を抜いただけで、周囲の兵士たちも我先にと抜剣した。刀身が陽光にきらめき、敵意を投影してくるようだ。
セツナは半身に構え、両手で握った黒き矛の切っ先を前方上方に向けた。セツナの足場は、落下の衝撃で半球形に窪んでおり、敵兵を見上げる形になっていた。が、だからどう、ということはない。敵兵も、半球形の空間に迂闊に足を踏み入れることを恐れている。明らかに黒き矛を警戒していた。セツナが自己紹介しなければ殺到してきた、ということはあるまい。それに、黒き矛の襲撃を報せる必要はあった。バハンダールの兵士たちに多少の動揺と混乱を与える必要がある。
そのためには、ただ落下してくるだけでは意味がない。
周りを一瞥する。兵士たちは、次第に立ち直りつつあるように見えるが、剣を構えながらも腰が引け、剣先が震えている。明らかに黒き矛という雷名への恐怖が先に立っている。目に怯えの色がある。それは、部隊長らしき兵士ですら同じだった。
「なにをしている! さ、さっさと攻撃しろ!」
鎧の兵士の怒声に、兵士たちがびくっと震えたが、即座には動き出さなかった。上官の命令が理解できなかったわけではあるまい。恐怖に身が竦んでいるのだ。
セツナは、小さく息を吐くと、未だ痛みの残る足で地面を蹴った。跳躍する。落下地点の外へ飛び出し、悲鳴を上げて後退った上官の首を刎ねる。血を吹き出しながら空中に舞う首には目もくれず、着地とともに、上官の周囲にいた兵士を三人、水平に薙いだ矛の一閃で斬殺する。
「ひっ」
その光景を見ていた兵士が悲鳴を上げたのは、数秒後のことだった。
セツナは、腰を抜かして尻餅をついたその兵士の首を切り飛ばすと、周囲を見回した。だれかが中央大交差路と叫んでいた通り、セツナが立っているのは、無数の通路がちょうど交差する地点らしかった。四方八方に伸びた通路は、バハンダールの各地へと続いているのだろう。通路自体入り組んでいるようで、暮らす上では不便に思えた。
「でやああ!」
威勢のいい掛け声とともに背後から切りかかってきた敵兵を、石突きの殴打で迎撃する。苦悶の声が聞こえた。セツナは視線を動かしてはいない。ほとんど無意識的に矛を振るっていた。地に崩れた兵士は、性懲りもなく剣を突き出してきたが、その一撃がセツナに届くことはなかった。黒き矛が腕を切り飛ばし、頭蓋を破壊している。
セツナは、生き残った敵兵が動揺するのを肌で感じながら、進路を考えていた。向かうべきは城壁の上だ。城壁上に配置された弓兵を一掃し、味方の進軍を補助しなければならない。
それならば、南側の弓兵から一掃するべきだろう。武装召喚師と思しき敵兵は、南側に配置され、グラード隊に対して猛威を振るっているのだ、
(南はどっちだ?)
方位磁石があるわけでも、なにか目印があるわけでもない。あるとすれば、バハンダールを貫く街道は北から南の直線だという情報だけだ。しかし、門は東西南北にあり、この複雑に入り組んだ通路のどれが街道と繋がっているのかもわからない。
軍靴の音が聞こえる。バハンダール各地で、セツナを迎撃するために動き出しているのだろう。入り組んだ市街地。敵はどこにいて、どこから飛び出してくるのかわからない。弓のような射程兵器ならばなおさらだ。どこかに潜み、セツナの到来を待ちわびているのかもしれない。
が、セツナには関係のない話だ。
市街地で戦うつもりは元よりなかったのだ。
(城壁を目指そう)
足元に散乱した死体には一瞥もくれず、セツナは目の前の通路の奥に向かって進軍した。
「仔細わかった。だが、そのためにも進軍を止めるわけにはいかんな」
グラード=クライドは、ルウファ・ゼノン=バルガザールよりもたらされた情報に頷きながら、遙か前方に聳えるバハンダール南門を睨んだ。
城門の上から時折飛来する矢は、的確にグラード隊前衛を狙い、直撃している。前面に隙間なく展開した大盾隊も、その凄まじい威力の矢によって吹き飛ばされ、隊列が乱れることしばしばだった。その際に生じた隙間は、左右の盾兵がなんとか埋めるのだが、そうなると、弾かれた盾兵が持ち直すまでに両端に隙が生まれる。敵の矢は、それを見逃さない。左右どちらかで悲鳴が上がり、傷の具合によっては後退させざる得なくなった。
街道を進んでいた馬車は停車させ、騎馬兵も馬車の脇に隠れさせた。馬が目標になっては面倒だったし、騎馬兵などいい的だろう。グラードも馬を降り、馬は部下に任せていた。
しかし、悪い話ばかりではない。
敵の矢がグラード隊に被害をもたらす間隔は、着実に長くなってきている。相手は人間。どれだけ怪物じみていても、体力は有限であり、集中力がいつまでも持つようなことはない。通常の弓よりも遥かに長い射程を誇るということは、それだけ体力を使うということにほかならない。何人かが合力して射っているのだとしても、相応の力が必要なのは疑いようがない。それでも、矢の威力や精度にいまだ変化が見えないというのが恐ろしいところだ。
犠牲者は既に二十人に及んでいる。そのうち死者が三名。十名が重傷を負って馬車に運ばれ、七名は運良く軽傷で済んだ。軽傷の兵士は手当を受け、戦線に復帰している。
隊列が横に長いのは、弓による被害を減らすためであり、この高威力・超射程の矢にも効果的ではあった。左右に伸びきった陣形の前列に並べられた大盾は、この矢でなければある程度防ぎきることができるだろう。ただしそれは前方からの矢のみであり、近づけば近づくほど上方からの矢に気をつけなければならなくなる。その場合も縦列陣形よりも被害は抑えられるだろう。
「通常の弓の射程までは、なんとしても辿り着かねばならん」
「そのために兵士が負傷しても、ですか?」
宙に浮いたままのルウファが尋ねてくる。疑問に思っただけなのだろうが。
「必要な犠牲だ。それくらいの覚悟はできている」
死者の数は思った以上に少ないのだ。もっとも、接近すれば、敵の弓の精度はさらに上がり、威力も高くなるのは当然だったが、かといって後退するのも難しい。湿原という地形が、後退という選択肢を取りにくくしている。進むも遅く、下がるも遅く。どちらにしても、この矢から逃れ切るのは難しい。後退中に出る被害を考えれば、前進するほうがマシともいえる。
黒き矛のセツナには、期待が持てる。
「我々はガンディアとの敗戦で一度死んでいる。いまさらなにを恐れることがあるか」
グラードがつぶやくと、周囲にいた兵士たちが喚声を上げた。
ログナーという国は死んだ。ログナーに所属していた軍人も皆、一度死んだのだ。ガンディアに拾い上げられて、息を吹き返しただけにすぎない。
死んだ人間が再び死ぬことを恐れる必要はない。
グラードは、鎧の胸に手を当てた。鎧は、彼の意思に反応して、発熱を始めている。赤の心鎧。いつしか友となったあの若い騎士がグラードのために召喚してくれた甲冑。彼が死んだことで、この世界に遺されてしまったものだ。
「前進せよ!」
号令に、全軍が応えた。
「敵発見! 北に向かって移動中!」
「射て射て射て!」
バハンダール市街を突き進むセツナの聴覚に飛び込んできたのは、敵兵の叫び声だ。一つ目は、伝令か何かだろうか。セツナの進軍経路を仲間に伝えるつもりだったのだが、セツナにこそ正解を教えてくれていた。落下地点からかなり前進していたが、転進することに躊躇はない。北側に展開した仲間はいないのだ。
ふたつ目は指揮官らしき大声であり、次の瞬間、セツナの頭上から矢が降ってきた。通路の両側に並んだ建物の屋上にでも潜んでいたのか、移動したのか。
(南は逆方向!)
セツナは前方に転がりながら方向転換すると、後方からの追撃部隊と対面する格好になった。騎馬兵が五人。五人とも、手槍を構えている。矢が、いまさらのように地面に突き刺さっていく。
セツナは、立ち上がって騎馬兵に対峙した。
横幅の広い通路を埋めるように横隊を組んだ騎馬兵たちは、そのまま、セツナへと殺到してくる。馬の突進で吹き飛ばし、蹴散らすつもりなのだろうが、セツナにはその動きがやけに緩慢に見えた。矛を水平に薙ぐ。目前まで迫っていた馬の目に恐怖が過った。先頭の馬がセツナを避け、通り抜けていく。後続の騎馬兵たちは一瞬唖然としたようだが、即座に槍を構え、突き下ろしてきた。左右から、ほぼ同時の攻撃。セツナは柄の中心を持ち、矛を回転させた。穂先と石突きで敵の槍を弾く。衝突音とともに火花が散った。
二頭の馬が立ち止まらずに通過すると、さらに三列目の騎馬兵が迫ってくる。こちらも左右両側に展開しており、セツナに向かって槍を突き出してきていた。
セツナは、跳躍した。騎馬兵の槍の軌道が変わる。切っ先が空中のセツナに向けられ、そのまま猛然と突っ込んでくる。セツナは飛ぶ寸前に体を捻っている。その勢いで回転し、矛を振り回した。わずかな手応え。馬が興奮状態で駆け抜けていく。断末魔は聞こえない。着地とともに後方を一瞥する。首から上を失ったふたりの騎馬兵は、しばらく馬に揺られたあと、落馬した。制御が聞かなくなった馬が、こちらへと転進しようとする騎馬兵たちへの牽制となった。セツナは、南側に向き直って走りだした。頭上から、再び矢が降ってきていた。味方が射程から消えたからだろう。
矢は、セツナに掠りもしなかった。屋上からでは狙いにくいのか、練度が低いのか。どちらにせよ、無視して南側城壁を目指す。無駄な戦闘はしない。優先すべきなのは城壁の制圧であり、敵兵の殲滅ではない。弓兵さえ無力化すれば、あとは自軍の到来を待つだけだ。
ひたすら走っていると、左側の通路から武装した兵士たちが飛び出してきた。彼らはこちらを目撃するなり驚いたようだったが、次の瞬間には黒き矛の餌食になっていた。一閃で五人の胴を切り裂き、絶命させたのだ。十人くらいの部隊のようだったが、セツナは運悪く進路を塞いだ敵兵だけを殺し、蹴散らした。返り血が白金の鎧を赤く染める。
落下地点が見えてくる。部隊長と部下の死体の先に落下跡があり、その半球形の穴を囲むように敵兵が布陣していた。戻ってくるだろうと思っていたのか、はたまた、バハンダール市街各地に同じような陣を敷いているのか。
(恐らく後者)
敵兵はざっと五十人。前方と左右に十人ずつひしめき、それ以外の狭い通路にも兵士たちが並んでいる。前列に盾を構えさせ、後列の兵士たちは弓を構えていた。盾はグラード隊の用意している大盾よりも小さいものの、前に突き出して並べてあればそれなりに威圧的ではあった。しかし、そんなもので黒き矛は止められない。後方から、馬蹄を轟かせて騎馬兵が突っ込んでくるのが、超感覚のおかげでわかる。さっきの生き残りだ。馬はやり過ごしたのだろう。
「射てえっ!」
部隊長らしき兵士の号令に、弓兵が一斉に矢を放つ。数十本の矢が、前進をやめないセツナへと殺到する。セツナはおもむろにカオスブリンガーを振るった。何本かを破壊し、剣圧で残りの矢も吹き飛ばす。敵兵の目が驚いていたが、構わず進む。落下跡を飛び越え、盾兵の目の前へ。
「第二射! 射て!」
号令は聞こえたが、盾兵の奥の弓兵は矢を番えている最中であり、第二射はすぐには来ない。
セツナは、目の前の盾兵が後退りするのを目撃して、突っ込んだ。盾兵が思わず道を開く。黒き矛の雷名が恐怖を喚起し、恐怖が身を竦ませる。セツナにとっては都合のいいことではあったが、兵士たちには哀れみを禁じ得ない。が、セツナは情けをかけるつもりもなかった。開かれた道を進み、いまにも弓を引き絞ろうとしていた兵士をふたり、切り倒す。血飛沫を上げながら崩れ落ちる兵士たちの間を抜けて、さらに先へ。
「追え! 追うんだ!」
部隊長の命令を背に受けながら、セツナは進軍する。
ひたすら前へ。南へ。城壁を目指すのだ。
後方から、無数の殺気が飛来する。左に飛ぶと、十数本の矢が通り抜けていった。そして、轟く馬蹄が近づいてくる。
南側城壁はまだ遠い。
ベイロン=クーンは、四十本目の矢を受け取ると、静かに息を吐いた。呼吸を整え、精神を統一させる。額から流れ落ちた汗が、眼窩に入り込んでくる。が、気にもならない。彼の意識は、遥か前方の敵陣にしか向けられていなかった。
それでも、受け取った矢を番えるのに時間を要した。疲労が蓄積しているのだ。
戦闘開始からこっち、剛弓に矢を番えては放ち、放っては矢を番えている。敵の数は多く、たったひとりで相手にするには休んでいる暇などないのだ。無論、カレギアの目的は敵軍の意気を挫くことにあり、ベイロンが敵軍を壊滅させることではない。剛弓用の矢をそこまで用意できるはずもないのだ。
鉄の鎧も射抜く特別製の矢は、全部で二百本。既に三十九本が湿原の敵陣に飛んでいった。外れたのは一本だけ。それも叩き落とされたようだが、人間業ではない。敵軍にも怪物がいるということだ。
二百本、使い切ることはないだろう。剛弓だけでは、二百本の矢を使い切る前に腕が壊れてしまう。それに、そのころには敵軍は通常の弓の射程範囲に到達しているに違いなかった。
将を、射抜かねばならない。
ベイロンの長身に見合うだけの巨大さを誇る剛弓は、大人が数人集まっても扱えない代物だ。剛弓、とは言い得て妙なものである。弓自体が剛のものであり、並大抵の人間には扱うことすら許さない。だからベイロンは選ばれた人間なのだ、とカレギアは大真面目にいっていたが、ベイロンは恥ずかしいだけだった。
長い腕と膂力だけが取り柄の人間だった。頭はからっきしで、上司の機嫌取りすらろくにできなかった。雑兵のまま生涯を終えることになりそうだ、と彼はなんとなく察し、それもしかたがないと思ってもいた。そんなときだった。部隊長になったばかりのカレギアと出逢ったのだ。彼は、自身の部下となってくれる兵士を探しており、ベイロンは自分の頭となってくれるような上官を探していた。
利害が一致した。
最初は、ただそれだけの関係だった。
「ふむ……」
ベイロンは、全身の筋肉が強張りすぎていることに気づいたが、無視した。いまはまだ、休めない。湿原の敵軍は全身を諦めておらず、多少の犠牲を払ってでも城壁に取り付こうという気概が見える。死者は放置し、重傷者は馬車へ連れて行く。軽傷者は手当をしただけで前線に戻り、盾兵の後ろに隠れた。
整然としたものだった。あれだけ剛弓の餌食となり、死んでいったものがいるにもかかわらず、彼らの行軍速度は落ちるどころか上がってきているように見えた。湿原での進み方がわかってきた、ということなのだろうか。そんな話は聞いたこともないが、可能性としてはないとは言い切れない。
ベイロンは、矢を番え、敵陣に意識を集中した。
後方は、カレギアに任せておけばいい。