第千六百三十五話 夢の終わり(二十七)
ルクス=ヴェインとベネディクト=フィットラインがバルサー要塞でささやかながらも結婚式を上げたのは、ザルワーン方面がヴァシュタリア軍によって制圧され、ログナー方面が攻撃に曝されはじめた時期だった。
《蒼き風》、《紅き羽》というガンディアを代表するふたつの傭兵団の団員たちは、《紅き羽》の団長と《蒼き風》の突撃隊長の結婚ということで、沸きに沸いた。特に《紅き羽》の団員たちは、ベネディクトの長年の想いが結実したことに歓喜し、咽び泣くものも続出するほどだった。一方、《蒼き風》の団員からは、ルクスが結婚したことに驚嘆し、彼の人間らしい一面が見られたことを喜んだ。
バルサー要塞に常駐するガンディア方面軍第四・第五軍団それぞれの軍団長もまた、ふたりの結婚式に参加したものの、ガンディア軍の兵卒たちからは、呑気に結婚式をあげるなど情勢を理解していない、とか、これだから傭兵はどうかしている、などといった声が聞かれた。
無論、そんなことはいわれるまでもなく理解している。
情勢は最悪。絶望的といっていい。北方から雪崩込んでくるヴァシュタリア軍は、もはやガンディアの戦力では対抗しきれないことは確実だ。いや、北方だけではない。東西南北、ありとあらゆる方角から三大勢力の軍勢が迫りつつある。逃げ場はない。
逃れようと思えば、逃れられる。
シグルド=フォリアーがいっていたように民間人になりすませばいい。それだけで、破滅的な戦いを回避することはできよう。しかし、ルクスたちはあえてその選択をしなかった。バルサー要塞にて、北から迫る軍勢と戦うという選択にすべてを賭けた。それはバルサー要塞のガンディア軍人たちも同じようだ。だからこそ、ルクスとベネディクトの結婚が気に食わない、という連中もいるのだろう。
そういう軍人たちの感情もわかっていたが、ルクスは、ベネディクトのために式を強行した。無論、シグルドやジン、ファリューらが後押ししてくれたからだが。
ベネディクトの想いに応え、結婚すると約束したはいいものの、形にしなければ、事実にしなければ、ただの口約束に終わってしまう。それでは、ベネディクトが可哀想だ。
ルクスは、ここのところ、自分が他人を思いやれるという驚くべき事実に気づいた。他人の心などどうでもいいと考えていた自分が、他人の心の有り様に気遣っているという事態に驚きを隠せない。だが、それが決して悪くないものだとわかると、積極的に思いやるようになった。
どうすれば、ベネディクトに幸せを感じさせてあげられるか。そればかりを考えた。ベネディクトは、いまのままで十分幸せだ、という。しかし、それではルクスが納得できない。
『式でも挙げとくか?』
シグルドの提案に、飛びついた。
この状況下で結婚式を挙げるなど、気が狂っているといわざるをえない。だが、いまだからこそ、挙げなくてはならないとも想った。いま挙げなくては、ベネディクトはベネディクト個人として死ぬことになる。
せめて、ルクスの妻ベネディクトとして死なせてやりたかった。
彼女の想いに応えるとは、そういうことだろう。
花嫁衣装などはない。用意できるような状況でもない。
ルクスもベネディクトも、互いに戦闘用の格好になって、結婚式に臨んだ。そのほうが戦場に生きてい死ぬ傭兵の結婚式らしい、とベネディクトは涙さえ浮かべながら喜んだ。ルクスは、そんな彼女の笑顔を見ることができただけで、幸せだった。
それから数日あまり、甘ったるい新婚生活が続いている。
シグルドは、ルクスとベネディクトのあまりの熱烈っぷりに苦笑を禁じ得ないらしく、
『おまえにそういう一面があるなんて、知らなかったぜ』
などと、ルクスの新たな一面の発見に驚いていた。
もっとも、そういった自分の一面に驚いているのは、ルクス自身なのだが。
ルクスは、他人を思いやり、愛する資格が自分にはないものだと仮定し、決めつけて生きてきた。それがルクス=ヴェインという人間の在り方であり、すべてであると思いこんでいたのだ。それには、生まれも強く影響しているだろうし、はじめて好きになったひとの死に様もあるのだろう。ひとを好きになることを禁じていた。
その禁忌を一度開放すると、途端に人が変わったようになってしまった。
ベネディクトとの日々は、ルクスをして自分を見失うほどのものだったのだ。
だが、それが悪くないと感じるほどには、ルクスもベネディクトの影響を受け始めている。そして、それでいいと思えた。
ガンディアは滅亡を避けられまい。
三大勢力が目前に迫っているのだ。
バルサー要塞に飛び込んでくる情報は、悲惨なものばかりだ。三大勢力のガンディア本土への接近に関するものばかりであり、近隣諸国の都市や要塞が陥落したといったものが多い。ジベル、ラクシャ、ワラル――ガンディアの近隣諸国がつぎつぎと滅ぼされている。それはつまり、ガンディアの命数もまた、尽きようとしているということにほかならない。
帝国軍がミオン方面に侵攻しているという情報も聞こえている。
北からはヴァシュタリア軍、東からは帝国軍、西からはディール軍が迫っているのだ。
バルサー要塞のルクスたちも他人事などではない。
バルサー要塞から目と鼻の先のログナー方面が既に戦場となっている。レコンダールやマイラムが落ちたという話もある。ルクスは、弟子であるセツナの領地エンジュールのことが気にかかったが、それも、ベネディクトとの結婚による影響かもしれない。以前ならば、セツナのことも、その領地がどうなろうと知ったことではなかっただろう。
結婚して、考え方が変わったのだ。
いままで見えなかったものが見えるようになった。
『最近のおまえ、なんだか優しすぎて気持ち悪ぃ』
『ルクス、君は変わりましたね。もちろん、いい風に』
『隊長、らしくないっすね』
『変な感じですな』
周りの人間からは言いたい放題いわれるものの、そんな自分も悪くないと想っていた。そう想うことこそが変化、なのだろう。
以前の自分ならば、このような変化さえ受け入れられなかったかもしれない。
「ルクス……わたし、幸せよ」
ベネディクトは、そういって一日中、片時もルクスの側から離れない。鍛錬のときもそうだ。ベネディクトは、猛者だ。ルクスの鍛錬に耐えられるだけの身体能力を持っている。ベネディクトが鍛錬の相手になってくれることは、ルクスにとってはむしろ好都合だった。おかげで鍛錬が捗り、さらなる高みを目指しうる。ふたりの鍛錬は日増しに激しくなり、ついてこれるものがほとんどいなくなっていた。
そういう意味でも、ベネディクトが配偶者でよかったのだ。
(これが、幸せっていうものなんだろうな)
ルクスは、ベネディクトの太腿を枕にしながら、ぼんやりと、そんなことを想うのだ。ベネディクトは、ルクスの髪を撫でながら、それだけで楽しそうに笑っている。なにが楽しいのかはわからないが、それでいいと想う。
自分の人生を振り返ってみれば、このような時間はほとんどなかったことがわかる。
ブライト=ヴェインのただひとりの息子として生まれた。母は、名も顔も知らない。物心付いたときには、いなかった。死んだのか、それとも別れたのか、父はなにもいわなかった。
「父は、苛烈なひとだった」
「ルクスのお父さん?」
「うん」
「めずらしいね。ルクスが自分語りなんて」
「……ベネディクトには、伝えておきたくて」
「嬉しいな」
ベネディクトのそんな言葉が、ルクスの乾いた心への救いとなる。
シグルドやジンとは違う。ふたりも特別な存在だが、ベネディクトとは、違うのだ。
「ブライト=ヴェイン。それが俺の父の名前。ヴェインの一族は、悪魔の一族とも呼ばれていた。ヴァシュタラ教会にとっての悪魔。つまり異端者であり、異教徒だったんだろう。ドラゴン崇拝者ではなかったから、父や一族がなにを信仰していたのかは知らないけれど」
「ルクスには、伝えられなかったのね?」
「うん。俺は、なにも知らないまま、ただ、鍛えられた」
物心がついたときには、剣の使い方、戦い方を教えられていた。いかにして敵を斃し、いかにして自分が生き残るのか。そんなことばかりを教えられる日々。父がなにをしている人間なのか、なぜ教会の追手から逃げなければならないのか、なぜ、追われているのか――そういうことは一切教えてくれなかった。戦い方ばかりが上手くなった。才能があったのだろう。父は、ルクスの上達振りを褒め称えた。父から褒められるということほど、子供心に嬉しいことはない。褒められたい一心で、鍛錬を乗り越えていった。
父は、武装召喚師だった。
どうやらリョハン独立戦争時、父の父――つまりルクスにとっての祖父が、リョハン側として参戦していたらしいということを知る。父はリョハンで生まれ、武装召喚術を学んだらしい。しかし、教えるほどの腕前ではなかったため、ルクスに伝承されることはなかった。
ただ、父の召喚武装グレイブストーンだけは、ルクスのものとなった。
「どうして?」
「死んだからだよ」
ルクスは、父の死に様を思い出しながら、告げた。
「召喚したまま死んだから、グレイブストーンは残った。俺はグレイブストーンを父の形見としたんだ」
使うつもりはなかった。
だが、使わざるを得ない状況に追い込まれれば、使うしかない。そして、いつしかグレイブストーンこそルクスの得物となった。
シグルド=フォリアー、ジン=クレールに逢ったのもちょうどそのころだった。
「それ以来、シグルドとジンは俺にとっての父親代わりみたいなものでさ」
「それは……なんとなくわかるかな」
「そう?」
「だって、ルクスったら本当にシグルドとジンのことを慕っているんだもの」
「そりゃあそうさ」
ルクスは、笑うほかなかった。
シグルドとジンには、ブライトにはなかった父性があった。
そう。
シグルトとジンがいたからこそ、ルクスは今日まで生きてこられたのだ。
ルクスは、ベネディクトの手を握り締めた。彼女の傷だらけの手は、女性らしい手とはいえない。しかし、その数多の戦いを潜り抜けてきた証こそ、ルクスの妻に相応しいものといえる。
「どうしたの?」
ベネディクトがきょとんとしたのは、ルクスがあまりに強く握り締めたからかもしれない。
「俺、やっぱりシグルドとジンのために死ぬよ」
ベネディクトのためではなく、ふたりのために。
告げる必要のない本音を伝えたのは、そうしなければ、ベネディクトに失礼だと想ったからだ。彼女の想いを踏みにじることになるかもしれない。それでも、本当の気持ちを伝えておきたかった。
「それでいいよ」
「ごめん」
「あやまらないでよ。わたしは、そんなルクスが好きなんだもの」
見上げると、彼女はこちらを覗き込んで、はにかんでいた。
「……ベネディクト」
「なあに?」
「君でよかった」
「え?」
「ありがとう」
ルクスは、心からの感謝の言葉と愛情を彼女に伝えた。
ヴァシュタリア軍がログナー方面の制圧を完了させたのは、それから数日後のことだった。
バルサー要塞のガンディア軍、傭兵たちは、およそ二十万を超える大軍と対峙することとなった。




