第千六百三十二話 夢の終わり(二十四)
「クオンなら、この状況を看過できないだろう。彼は心根の優しい人間だ。愚直なほどに優しく、他人が傷つくくらいなら自分が傷つくことを厭わない」
「それは知ってるよ」
アズマリアのクオン評は、彼女がクオンと接するうちに得たものだろうが、的を射ていた。
クオンは、そういう人間だ。そういう人間だから、セツナには眩しすぎたのだ。目が眩むほどに眩しく、近くにいるだけでその閃光に身も心も灼かれてしまう。自分には持ち得ないものを持ち、そのことを鼻にかけもせず、ただ真摯に、ただ心から優しく手を差し伸べる、そんな少年。自分本位に生きてこざるを得なかったセツナが反発を抱くのも無理はなかったのだが、そんな反発さえも彼は飲み込み、包み込もうとした。それが余計に、彼とセツナの心の溝を深くするものだとは、当時の彼は気づきもしなかったようだし、いまとなっては幼稚な反動だと笑ってしまう。
子供だったのだ。
子供だったから、太陽のように眩しい彼に対して反発し、反発しながらその庇護下で生きていかなければならない惨めさに膝を抱えた。
十三歳から十六歳までの日々。
遠い昔の出来事のように思える。
もはや手に届かない世界の出来事なのだから、そう想うのも無理はないのだろうが。
「でも、クオンは、ヴァシュタリアの人間だろう?」
「ヴァシュタリアに属したからといって、クオンがクオンであることをやめると想うか?」
「いや……」
セツナは、即座に頭を振った。
「そんなことは絶対にありえねえ。あいつの頑固さは折り紙付きだからな」
彼は、昔から、頑固で融通が効かないのだけが玉に瑕といわれていたほどだった。それ以外には非の打ち所がなく、だれもが彼を褒めそやした。成績も優秀、運動能力も極めて高く、容姿端麗、人格面でもなんの問題もない。そんな彼の唯一の欠点ともいえるものが、その優しさに対する頑固さだった。もちろん、それは美徳でもあり、多くの場合、彼の優しさや健気さを引き立てるだけの要素に過ぎないのだが、場合によっては彼自身を窮地に陥れることもあるのだ。
「彼がこの状況でなにもしていないとは考えられない」
「でもだからって、クオンになにができるっていうんだ」
「クオンはいまやヴァシュタリアの神子とひとつになったのだぞ」
そういわれて、ようやく思い出す。
クオンは、同一存在であったヴァシュタリアの神子ヴァーラと合一すると手紙に書いていた。それによってクオンはヴァーラとなるものだとばかり想っていたのだが、アズマリアの話を聞く限りでは、どうやらクオンの意識のままのようだ。ヴァーラが、クオンに主導権を渡したというのだろうか。
「ヴァシュタリアの頂点に君臨しているといっても過言ではない。聖皇復活を果たさんとする神の意思を捻じ曲げることはできなかったようだが、なにか、方策を練ってはいるだろう。無策ではいまい」
アズマリアの推測は、甚だ楽観的かつ期待をしすぎているように思えたが、セツナは異論を挟まなかった。クオンという人間については、少なくともアズマリアよりは詳しく知っているつもりだった。彼女がいうように心根の優しい彼が、この一見なんの意味もない戦いに対して、なんの行動も起こさないというのは不自然だった。彼女のいうように神の意思を抑えることができなかったのだとしても、なにかしら考えがあっての行動なのだと想うほかない。彼は、そういう人間だ。目の前で無意味に命が奪われていくのを見過ごせるような、そんな人間ではない。人類の敵たる皇魔殲滅を掲げ、無償で皇魔の巣を滅ぼすことを請け負うような人間なのだ。
この世界中を巻き込む未曾有の状況に対しても、なんとかしようとしていたとしてもなにひとつ不思議ではなかった。
「クオンにどうにかできるってのか」
「どうかな。わからん。が、少なくとも、なにもしないよりはずっと増しだろう。無論、わたしも彼に協力するつもりだ。この世界を聖皇と神々の好きにさせてはならん」
そう告げるアズマリアの顔は、真剣そのものだ。彼女は本気で、自分の言葉を信じているのだ。聖皇復活を阻止し、聖皇を滅ぼすことこそがこの世界の正義なのだと信じている。彼女が虚言を弄していないのは、その言葉に込められた熱量や表情から伺えるのだが、だからといって、すべてを信じていいのかはわからない。
「あんたのこと、信じていいのか?」
「それはどうだろうな。わたし自身、わたしのことをよくわかっていないのだ。なぜ、どうやってわたしが生まれたのかもな。ただ、わたしは聖皇の力を滅ぼすためだけに生まれたのは間違いない。そのために何百年も生きてきた。もし、聖皇の復活が数千年の未来だったなら、そのときまで生き続けただろう」
彼女は、自分の正義については疑念ひとつ抱いていないようだ。それはそうだろう。アズマリアは、この世界の理不尽を倒すべく生きてきた。それが聖皇であるということを思い出したのは、ごく最近のようではあるが、理不尽が聖皇だったという衝撃的な事実には混乱を禁じ得ずとも、納得出来ないものではない。聖皇がこの世界そのものを呪っているというのであれば、なおさらだ。
「信じるか信じないかは、おまえ次第だ」
アズマリアの発言を聞いて、セツナは静かに頷いた。
「……わかった。いまは、あんたを信じよう」
「そうか。ありがとう」
アズマリアが微笑むと、途端に美女であることを認識させられる。
セツナは危うく彼女に吸い寄せられるのを制して、アズマリアの目を見据えた。
「だが、その前にひとつ、いいか?」
「なんだ?」
アズマリアが少し落胆したのがその表情の変化からわかるが、なにを期待した結果の落胆なのかは、まったく想像もつかなかった。だからそのことについては触れず、話を勧めた。
「ファリアのことだ」
「ああ。あの娘のことか。どうした?」
「その体、ファリアの母さんのなんだろう?」
「返せ、ということか」
アズマリアは微妙な顔をしたのち、一瞬だけファリアの母親の姿になった。容姿の変化が自在にできるというのは、アズマリア自身が生まれ持った能力なのだろう。肉体を乗り継ぐという能力もそうだが、どう考えても人智を超越した能力と思わざるをえない。
「いいだろう。ちょうどいい体を見つけたのでな、どこかで解放する予定だった。しかし、いますぐにというわけにはいかない」
「どういうことだ?」
「まず、目的の体を手に入れなければどうにもならんのだよ。新たな体を手に入れ次第、この肉体を解放し、娘の元に届けよう。それでいいな?」
「……ああ」
その目的の体というものがどういうものなのか、聞く気にもなれなかった。聞いたところで納得できないかもしれないし、セツナが納得しようがしまいがアズマリアには関係のない話だ。その結果彼女の機嫌の損ね、ファリアの母親を解放する機会を失うのは、よくないことだ。
なぜファリアの母親を解放したいか、といえば、簡単なことだ。
今後セツナがアズマリアに協力することになれば、どうしても避けて通ることのできない問題だからだ。セツナがアズマリアに協力するとすれば、ファリアを無視できるわけもない。ファリアは、アズマリアに対し、深い因縁がある。父を殺され、母を奪われたのだ。彼女はその復讐のためにリョハンを離れ、リョハンの命令にさえ従わなかった。それほどの想いを無下にすることはできない。
だからといって、アズマリアをファリアに討たせることなどできるわけもない。できることがあるとすれば、ファリアの母親をアズマリアの肉体という役割から解放することくらいだ。それで納得しろ、などとはいえないが、アズマリアとの協力体制に理解を示してもらうきっかけにはできるだろう。
そう、考えてのことだったのだが。
「ではセツナ、わたしとともに来い」
「え?」
「おまえには、地獄に落ちてもらう」
「は?」
セツナは、彼女が突然言い出したことに、頭の中が真っ白になった。そして、すぐさま理解したときには、彼はアズマリアに詰め寄っていた。
「なにいってんだよ、冗談だろ?」
「冗談などではないよ。おまえには、黒き矛の力を引き出して貰わねばならん。黒き矛の力は、わたしの想像を遥かに上回るものだということはわかった。だが、いまのままでは、聖皇を滅ぼすことなどできん。返り討ちに遭うのが関の山だ」
「そんな……」
「だから、おまえには地獄へ行き、そこで黒き矛を極めてもらう」
涼しい顔で告げてくる魔人に、セツナは、再び距離を取った。眷属との合一を果たし、真の力を得た黒き矛だが、まだ完全に扱いきれていないのはセツナ自身理解していることだった。もっと、引き出せる余地があるのだ。もっと、もっと、強くなれる可能性を秘めている。それが引き出しきれるかどうかは完全に使い手の問題だと思えた。
それほどまでに黒き矛は強大なのだ。
現状、シドの真躯オールラウンドの不完全体を倒せるのだから、それだけでも常識的に考えれば過剰なほどの攻撃力を持っているといってもいい。しかし、神々を従え、世界そのものの法理を歪めるほどの力を持った聖皇を滅ぼすとなれば、正直物足りないというのもわからなくはなかった。
シドの真躯は倒せても、ベノアで対峙した際のフェイルリングの真躯とは五分の戦いもできまい。
「……地獄へ行けば、本当に強くなれるのか」
「なれるとも。おまえにその気があるならな」
「……地獄へ行くってことは、ここを離れるってことだよな」
「そうだ」
アズマリアが、当然のようにいう。
地獄。
死後の世界のことなのか、それとも、地獄という名の別世界なのか。いずれにしても、この現世とは異なるところであるのは間違いない。アズマリアがかつてセツナを地獄へ誘おうとしたとき、ゲートオブヴァーミリオンが見せたのは闇のような風景だった。本当に地獄なのかもしれない。
そこへ行けば、強くなれるのだという。
(強く)
なりたいとは、想う。だが。
「できねえよ」
頭を振る。握りしめた拳に爪が食い込む。
「なんだと」
「できるわけねえだろ。俺は、ガンディアのセツナだぞ。この国で今日まで生きてきたんだぞ。陛下のおかげで、俺はこうしていられるんだ」
数多の想い出が脳裏を過る。まるで走馬灯のように、駆け抜けていく。廃墟の如きカランでのレオンガンドとの出会いから、今日に至るまでの様々な出来事。バルサー平原の初陣。はじめての人殺しは、大量殺人だった。ログナー。ザルワーン。クルセルク。マルディア。様々な戦いがあり、出会い、別れがあった。辛いことも少なくはなかったが、幸せのほうが圧倒的に多かった。
それらは、ガンディアにいたからこそ手に入れられたものだ。
「勘違いするな。ガンディアのおかげなどではない。おまえは、おまえ自身と黒き矛の力で運命を切り開いてきたのだ。どこでだって生きてこられたさ。それは、おまえのこれまでの戦いを振り返ればわかることだ。おまえはどのような苦境だって、その不屈の闘志と黒き矛の力で乗り越えてきただろう」
アズマリアが、宥めるようにいってくるのがおかしかった。まるでセツナを励ましてくれているような口ぶりであり、彼女がセツナのことをずっと見てきたということの証明のようでもあった。でなければ、そんなに確信を持ってはいえまい。
「おまえは、ガンディアに縛られる必要などはない」
「縛られる? 違えよ」
吐き捨て、アズマリアを睨む。
「俺はこの国が好きなんだ。この状況で国を見捨てるなんざ、できるわけねえだろ」
「話にならんな。ガンディアは滅ぶのだぞ。おまえがどうしようが関係なく、三大勢力に蹂躙され、滅び去る。こればかりは致し方のないことだ。必要な犠牲を割り切るほかない」
「ふざけんな。そんな簡単に割り切れるかよ」
セツナが言い切ると、アズマリアは困り果てたように眉根を寄せた。
「なぜだ。なぜ、割り切れない。おまえはこれまで、数多のものを切り捨ててきたはずだ。必要な犠牲と切り払ってきたはずだ。力を持たざる敵を、黒き矛の圧倒的な力で殺してきただろう。それと同じだ。同じことだ。なんら変わらない」
「違う。違うんだよ、俺の中ではな」
「……おまえは」
「アズマリア。俺は、あんたの考えが間違っているとは想っちゃいない。あんたは正しいんだろう。この国は間もなく滅び去るんだろう。俺がいようがいまいが関係なく、為す術もなく滅び去るんだろうさ。でも、だからといってこの国を見捨てられるほど、俺は賢くできていないんだ」
賢く生きたいのであれば、見捨てればいい。アズマリアとともに地獄へ行けばいい。それが最良の選択肢なのは、火を見るより明らかだ。黒き矛のさらなる力を引き出せるかもしれない。復活した聖皇を滅ぼすだけの力を得られるかもしれない。この世界を根源的な災厄から救うには、それ以外の道はないのかもしれない。
だが、それでも、そのような生き方はセツナにはできない。
「どうするというんだ」
「戦うさ」
「無意味だ」
「それでもいい」
「なんのために」
「ガンディアを護るためだろ」
「いったはずだ。無駄だと」
「構わねえよ」
金色の目には、侮蔑や嘲笑といったものは浮かんでいない。ただ、残念がっているだけだ。それが、セツナには辛い。蔑視してくれたほうが、嘲笑ってくれたほうが、振り切れるだけ余程ましだ。
「もう、決めたんだ」
「そうか。わかった」
アズマリアは、ついに諦観を表情に浮かべた。
「おまえも相当な頑固者だな。クオンに負けず劣らずといったところだ」
「褒め言葉と受け取っておくぜ」
「褒めてはいないがな」
彼女は肩を竦めて、嘆息した。
「まあ、いいさ。思う存分戦えばいい。ただし、これだけはいっておくぞ」
「なんだよ」
「わたしやクオンの邪魔だけはしてくれるな」
彼女のその言葉に対し、セツナはなにもいわなかった。彼女は沈黙を肯定と受け取ったようだが、セツナは単純に約束できなかったから、黙り込んだだけだった。もし、クオンやアズマリアの行動がガンディアを滅ぼすものであれば、立ち向かわずにはいられないからだ。
どうなるかなど、いまわかることではないのだ。
アズマリアの背後、寝台の上に小さな異形の門が出現した。ゲートオブヴァーミリオン。門扉が開くと、門の向こう側ではなく、青空広がる草原が見えた。
「では、さらばだ」
アズマリアはゲートオブヴァーミリオンの中に姿を消すと、門扉が閉じ、門そのものが消失した。
セツナは、しばらく憮然と虚空を眺めていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「レム」
従僕の名を呼ぶと、寝台から大きな物音がして、寝台そのものがわずかに浮き上がった。そして、しばらくして、寝台の下からメイド服の死神が、後頭部をさすりながら這い出てくるのを目の当たりにする。
「そんなところにいたのかよ」
「ま、まさか御主人様に感づかれているとは……」
「そんなだから頭を打つんだよ」
「はひ……」
レムは、涙目になりながら、後頭部を撫でていた。
それは不老不滅の死神も、痛みを感じないわけではないという証明だったが。
セツナは、このときばかりは彼女のことを心配してやることもできず、憮然とした。




