第千六百十六話 夢の終わり(八)
「なんだかとんでもないことになってるな」
シグルド=フォリアーが世間話でもするかのようにいったのは、ここのところ連日のように飛び込んでくる情報に関することだろう。ベネディクト=フィットラインが相槌を打つ。
「三大勢力が動き出したとかって話?」
「本当なのかねえ」
「確かめようがないわ」
「そりゃそうだ」
シグルドが肩を竦めた。
彼らはバルサー要塞の中庭に、いる。
《蒼き風》と《紅き羽》合同訓練の休憩中のことだった。団長、副長を始め、幹部も団員も勢揃いしていた。ルクスも無論、その中にいる。部下たちとの訓練で汗を流したばかりで、風が肌寒かった。
ザイオン帝国を始めとする三大勢力が小国家群に向けて進軍を開始したという報せがつぎつぎと飛び込んてくるようになったのは、つい最近のことだ。
バルサー要塞を傭兵局に任されてしばらくしてからのことで、傭兵局長シグルド=フォリアーの天下もわずかばかりかと嘆いたりていた。無論、冗談に過ぎない。が、シグルドがバルサー要塞を任された歓喜の舞を踊るようにしていたのは事実だ。バルサー要塞は、ガンディア本土における最重要拠点だった。いまでこそ北の守りの意味は薄いものの、ログナー、ザルワーンが敵国として存在していた時期にはバルサー要塞ほど重要な拠点もなく、シグルドにはその印象が強いのだろう。そんな要塞を傭兵局に任されたのだ。彼が喜ぶのも無理のない話だったし、そんなシグルドの様子を見ているとルクスまで嬉しくなったものだ。
そんな歓喜愉悦の日々が終りを迎えたのは、唐突だった。
突如として飛び込んできた聖王国侵攻の報せ。それに続く帝国侵攻、ヴァシュタリア侵攻といった立て続けの悲報には、バルサー要塞そのものが重い空気に包まれた。三大勢力進軍の報せは、同時に三大勢力が聞く耳を持たないという情報ももたらすものだったからだ。交渉に応じず、降伏を聞き入れず、ただ戦端を開き、蹂躙する。三大勢力すべてがそのような戦いを繰り広げているというのだ。
小国家群に属する国々は、滅亡の一途を辿るのだろうし、ガンディアとて、例外ではない。
「しっかしまあ、本当ならどうすっかねえ」
「どうするって、なにを?」
「身の振り方、だよ」
「ああ、そういうこと。あんたって薄情ね」
「薄情もなにも、傭兵なんざ、そんなもんだろ」
シグルドがベネディクトの冷ややかなまなざしに肩を竦めた。
「傭兵は、金によって支配されるものだ。金がすべて。それ以外のなにものも傭兵を支配することなんざできねえのさ」
「そりゃそうだけど」
「それにな。三大勢力が小国家群を巡って戦争を始めたら、どうしようもねえだろ。ガンディアの戦力でどうこうできるわけもねえ。国土を保つなんざ無理だし、四つ目の大勢力なんざ不可能この上なし」
シグルドの分析は、冷静極まりなかった。彼は、ガンディア出身であり、ガンディアに肩入れしているからこそこの国と契約を結んだことは、《蒼き風》幹部ならば知らないものはいない。
「傭兵稼業もここまで、かもなあ」
「シグルド……」
「なんだよ、ジン」
「いや、なんでもありませんよ。わたしは団長の意向に従うのみです」
「俺もー」
「じゃあ、わたしもー」
「なんでだよ。てめえは《紅き羽》の団長だろうが。団長なら団長らしく、団員たちの将来を考えてやりやがれってんだ」
「ぶふー」
「んだよ」
「あんたに説教されるなんて想わなかったわ」
「いつものことだろが」
「そうだったかしらー」
(なんだかんだで、お似合いなんだよなー)
ルクスは、シグルドとベネディクトのやり取りを見やりながら、そんな風に考えていた。
(ふたりがくっつけばいいのに)
それも、いつも思うことではある。
ベネディクトがルクスに好意を寄せてくれていることは、知っている。ベネディクトが好意を隠さないのだ。だれのも目にも明らかだったし、鈍感なルクスにもわかるくらいに一目瞭然だ。なぜ彼女がそこまで自分に好意を寄せてくれているのかまではわからない。どれだけ邪険にしても、どれだけその気がないということを伝えても、彼女の態度は変わらなかった。それどころか、ルクスが突き放せば突き放すほど、ベネディクトの愛情表現は熱を帯び、加速した。やがてルクスが根負けしてしまうくらいには強烈で、鮮烈だった。
目を細めてしまうほどに眩しい。
「俺たちゃ傭兵だ。契約金以上の働きをする必要は、ねえ。義理や情で命が買えるわけもねえ。そんなもののために命を失っちゃあなんの意味もねえからな。笑い話にもなりゃしねえ」
シグルドは、冷徹に、告げる。
「三大勢力さえ動かなきゃ、ガンディアは、陛下の夢を叶えることも不可能じゃなかったんだろうが、動き出した以上、どうしようもねえ。英雄様が三大勢力を撃退できるかっつうと、そんなことあるわけもねえしな。そうだろ、ルクス」
「セツナは人間だからね」
「そうだろう、そうだろう。怪物じみた活躍や逸話を残していたって、セツナ様は人間なんだ。人間には限界がある。化物のようには戦えない」
皇魔が凶悪なのは、その無尽蔵に近い体力のせいだ。人間などより遥かに多い体力、生命力は、脅威というほかない。召喚武装を手にしてようやくまともに戦える怪物たち。セツナが皇魔ならば、皇魔ほどの体力があれば、ある程度は押し返せるのかもしれないが、そんなことはありえない。セツナは人間であり、その体力はルクス以下だ。
「潮時なんだろう」
「潮時……ねえ」
「なんだ、ルクス」
「いや、団長らしくないかなって、想っただけだよ」
「俺らしくない? はっ」
彼は、笑った。
「俺をどんな奴だと想ってんだが」
「故郷想いの大馬鹿野郎ですわ」
「てめえ、言うに事欠いてそれかよ」
「違います?」
「……ま、違わねえわな」
腕を組んで、認める。
「俺の一存でガンディアと契約し、留まり続けた。ガンディア以上に金を出してくれる国はいくつもあったし、条件がいい国もあった。それでも俺は、故郷という理由だけでこの国を契約先に選んだ。団長の意向に従うしかないてめえらにゃあ悪いことをしたと想ってる」
「ですが、その団長の意向のおかげで、わたしたちは栄華にありつけたのもまた、事実。アザークやラクシャと契約を結んでいれば、いまごろどこかで野垂れ死んでいたとしてもおかしくはありません」
「副長の言うとおり」
「そういってくれるのは、嬉しいがな。俺の我儘でてめえらの人生を決めちまったのも事実だ」
「とはいっても、団長の考えが嫌なら退団してるでしょうし、実際、そうやって抜けていった連中も少なくはありません。いまこうして《蒼き風》に残っているのは、皆、団長を支持する連中ばかり」
「そうそう。自信持っていいよ」
「なんなんだその言い方はよお」
シグルドは、たまらず吹き出した。そんなシグルドの笑顔がルクスにはたまらない。そういう笑顔を久しく見ていなかった。だから、彼はわざと馬鹿馬鹿しいまでの態度を取ったのだ。
「でもま、そういうことだ。《蒼き風》は解散する。あとは、好きにすればいい。三大勢力との戦いは、一方的なものになる。少なくとも、ガンディアが太刀打ちできるような相手じゃねえ。生き延びれるわけもねえ。生き延びるには、戦わないことだ。戦闘に参加せず、ガンディア領土から抜け出すことができれば、あるいは……」
「大勢力といえど、民間人を巻き込むようなことはないでしょうから、都市に身を潜めておけば、やり過ごすことくらいはできそうですが」
「それもいいさ。いずれにせよ、傭兵集団《蒼き風》としての旅はここで終わりだ」
旅、と彼はいった。《蒼き風》としての旅。ルクスは、胸の中に大きな穴が開くのを感じた。《蒼き風》の旅は、ルクスにとっての半生そのものだった。
グレイブストーン本来の主である父親を失い、アルマドールの女に拾われたところを《蒼き風》結成直後のシグルド、ジンと出会った。それが、始まり。そこから続く長い長い旅が、いま、終わる。終わりを迎えようとしている。なんともいえない寂しさが心を震わせる。
シグルドの決意を止めることは、できない。
「皆、好きに生きろ。金はたんまり稼げたろ。あとは、悔いのない人生を送ってくれ」
シグルドが団員たちに向かって言い放つと、団員たちは口々に反論した。
「団長!」
「そんなこといわれても、ですな」
「そうですよ、団長」
「俺たちゃ、団長に従って生きてきたんですぜ。いまさら」
「ぐだぐだうるせーんだよ!」
シグルドが声を荒げたのは、そうでもしなければ自分を誤魔化せないからに違いなかった。
「てめえらはひとりの人間だろうが。自分の人生ぐらい、自分で決めやがれ!」
シグルドが怒鳴り散らすと、団員たちは言葉を失った。これ以上はなにもいえない。なにかいえば、さらに怒りを買うだけだということを身にしみて理解しているのだ。だからといって、納得できる表情を浮かべるものは一人としていない。だれもがシグルドと戦いたいと考えている。団長がシグルド=フォリアーだからこそ、《蒼き風》に入ったものばかりなのだ。
「で、あなたは、どうするんです?」
「そうそう。気になる」
「俺か?」
ジンとルクスに問われ、シグルドは考えるような表情をした。
「俺ァ、ここに残る」
「やはり」
「やっぱりねえ」
「んだよ、だれも驚かねえのかよ」
「いやはや、どれだけの付き合いだと想っているんですか。あなたの考えていることくらい、わからないわけありませんよ」
ジンが、眼鏡の奥の瞳を光らせながらいった。ジンとシグルドは、《蒼き風》の中で一番長い付き合いだ。それが少しばかりルクスには羨ましい。
「そりゃあそうか」
「俺もね」
「おう」
シグルドの大きな手がルクスの頭に乗せられる。いつものように。
そのいつもの行動がルクスにはこの上なく嬉しい。
「色々考えたさ。ガンディアを離れ、どこかに身を潜めて生きていくのも悪くないんじゃないかってな。でもまあ、そりゃあ俺には無理だ。俺はガンディア人だからな。それに、陛下には恩がある。義理がある。人間、恩義を返さずにはいられんよ」
「それ、さっきといってること違うんだけど」
「そりゃあ傭兵の話だろ。傭兵は、金だけがすべてだ。金だけが傭兵を縛り付ける鎖なんだよ。恩も義理もねえ。情けもな。そんなものに縛られる傭兵なんざ、くそみてえなもんだ。が、俺はたったいま、傭兵をやめた。ひとりの人間に戻ったんだよ」
シグルドは、妙にすっきりとした表情で、こちらを見ていた。憑き物が落ちたような、そんな顔。
「人間、シグルド=フォリアーに戻ったのなら、恩義に生きるべきだ。俺はそう想う。そのためにこの生命が燃え尽き、身が滅びたとしても、悔いは残らねえ。想うままに生きたんだからな」
「シグルド……」
ジンは、シグルドの本心が聞けたことが嬉しかったのか、表情を緩めた。
「そういうことであれば、わたしも、人間ジン=クレールとして、あなたの恩義に報いねばなりませんね」
「俺も、人間ルクス=ヴェインとして、ね」
ルクスがいうと、団員たちからも声が上がった。
「俺も!」
「わしもでさあ!」
「あっしも!」
そんな声がつぎつぎと続いた。
結局、だれひとりとしてその場を離れようとはしなかった。《蒼き風》から、ひとりの脱退者も出なかったのだ。《蒼き風》は《蒼き風》のまま、存続することが決まった。ただし、金で雇われた傭兵団ではない。ただの戦闘集団として、だ。
そんな結果を見てだろう、シグルドは、呆れ果てたような顔をした。
「……ったく、揃いも揃って馬鹿ばかりだな」
「団長が団長ですから」
「なんだよ、それじゃあまるで俺が悪いみてえじゃねえかよう」
シグルドがふてくされたが、そんな様子を見て、ルクスは笑みを浮かべた。
すると、さっきまで話を聞いているだけだったベネディクトが口を開く。
「わたしたちも、残るわよ」
「本気か? 死ぬぞ」
シグルドが冷ややかな目を向けると、ベネディクトは、腰に手を当て、胸を張った。
「そんな脅しに屈するほど、やわじゃないわよ」
数多の死線をくぐり抜けてきた女傭兵の勇姿は、いつにもまして美しい。
「それに、ルクスを置いて出ていくなんてできるわけないでしょ。ルクスと一緒に戦わせくれたガンディアへの恩義もあるし」
「結局ルクスかよ」
「悪い?」
「いんや」
シグルドは呆れてものも言えない、とでもいいたげな顔をしながらも、彼女の覚悟を茶化したりはしなかった。むしろ、どこか嬉しそうですらある。シグルドにとってベネディクトは、戦友ではあるのだろうが、恋愛対象にはならないのだろう。
「ルクスは、どう?」
不意にベネディクトに尋ねられ、ルクスは怪訝な顔をした。
「どうって?」
「わたし、一緒に戦っても、いいかな……」
「別に問題ないけど、どうして?」
どうして、いまさらそんなことを聞くのか。
ベネディクトらしくないしおらしさだった。
「だって、あなたの覚悟に水を指すようなことになったりしたら、嫌だし。あなたには、好きなように生きて、好きなように死んでほしいから」
ベネディクトのその一言がルクスの胸に刺さった。彼女は、諦めている。ルクスに好意を寄せ、ルクスと結婚することが夢だと公言してはばからない彼女が、ルクスの死に様に言及するというのは、そういうことだろう。ルクスは胸が痛んだ。
だれもが、死ぬ。
三大勢力という激流に飲まれれば、生き延びれるわけもない。多くは、死ぬ。当然、自分も死ぬ。彼女も例外なく死ぬだろう。そんな死の運命を前にして、すべてを諦めなければならない彼女の心中は如何許か。
そのときはじめて、ルクスは他人の心を想ったのだ。
「ベネディクト」
「やっぱり……迷惑?」
彼女は、表情を曇らせた。迷惑なことなどあろうはずもないというのに、考えすぎなところのあるベネディクトは、そんな愚かな結論を導き出してしまうのだろう。
ルクスは、彼女の手を取った。はっとするベネディクトに向かって、いう。
「結婚しよう」
思わず口に出た言葉に、ルクス自身驚きながらも、目の前の女性の顔があざやかなまでの驚きに満ちるのを見て、納得した。
「結婚……?」
「うん」
うなずくと、ベネディクトの表情が輝いた。
「本当に……わたしで、いいの?」
「ベネディクトだから、いいのさ」
「嘘……夢みたい……夢じゃないよね?」
「夢なんかじゃないよ」
「嬉しい……嬉しいよう……!」
ルクスは、抱きついてきた彼女の体を優しく抱擁しながら、これでいいのだ、と想った。ガンディアの一員として戦うのであれば、生き延びれるわけがない。大勢力を相手に戦おうというのだ。死ぬ覚悟が必要だ。シグルドも、ジンも、だれもが死を覚悟し、決意している。ベネディクトも、きっとそうだろう。
ルクスも同じだ。
迫りくる大勢力を相手に戦い抜いて、死ぬ。それだけの人生。彼女の想いに応えるのも、悪くはない。
「やっと、身を固める決意をしたか」
「やれやれですね」
「姉上……」
感極まった声を上げたのは、ベネディクトの実弟ファリューだ。似ても似つかぬ巨漢を震わせながら咽び泣く様は、彼がいかに姉想いの弟だったのかがわかるというものだった。




