第千六百十四話 夢の終わり(六)
「あれが帝国軍か」
大陸暦五百三年十月十九日。
ガンディアの左眼将軍デイオン・ラーズ=クルセールは、遠眼鏡を覗き込み、遥か遠方に展開する未曾有の大軍勢を確認した。
ガンディア領クルセルク方面ノックス・ターレブ。
クルセルク方面クルセール領伯にしてガンディアの左眼将軍という要職につくデイオンは、ザイオン帝国の小国家群侵攻を耳に入れるなり、王都ガンディオンに連絡し、伺いを立てながらも独自に動いていた。具体的には、クルセルク方面軍を纏め上げ、クルセルク方面東部の守りを固めたのだ。
クルセルク方面軍は、ガンディア軍の中でもザルワーン方面軍を凌ぐ規模を誇るとともに、デイオンの意思のもとに統一された組織でもあった。彼の一声で迅速に動いた。その反応は小気味いい程であり、ナーレスの言に従い、クルセルク方面の掌握に尽力したのは決して無駄ではなかったと思えた。
全部で八軍団を誇るクルセルク方面軍。その総兵数は一万二千に及び、武装召喚師も各軍団にひとりずつ配備されている。ガンディア軍において、《獅子の尾》、セツナ軍を除けば最強の方面軍といっても過言ではないだろう。この戦力の充実ぶりは、デイオンの働きによるところが大きい。彼は、クルセルク方面軍の戦力を充実させるために奔走し、武装召喚師の登用も積極的に行ったのだ。それにより、クルセルク方面軍は、ガンディア軍の中でもっとも新しい方面軍でありながら、もっとも戦力の整った方面軍になりえたのだ。
デイオンがクルセルク方面軍の戦力充実に拘ったのは、人望を集めるために必要不可欠なことだったからだ。言葉だけではひとはついてこない。はっきりとした実績を見せつけなければ、心から納得させることはできないのだ。果たしてクルセルク方面軍は、いまやデイオンの支配下にあるといってもよく、クルセルク方面軍の軍団長や兵卒たちは、レオンガンドよりもデイオンに忠誠を誓っているのではないかというような様子を見せるまでになっていた。臣下としてそれでいいのか、と想う反面、デイオン自身がレオンガンドに絶対的忠誠を誓っている限り問題はないだろうし、彼の後を継いだ大軍団長セラス=ベアトリクスは、デイオンの意を汲んでくれている。彼女が大軍団長を務めている限り、クルセルク方面軍がガンディア王家をないがしろにすることはあるまい。
大軍団長セラス=ベアトリクス率いるクルセルク方面軍がデイオンの号令に応じ、クルセルク方面の防備を固めている間にも、ザイオン帝国の侵攻に関する情報がつぎつぎと飛び込んできていた。
ザイオン帝国領を発した軍勢は、小国家群東端の国々に同時に攻撃を仕掛けたという。北東端のレグラーナ、シャザーン、セドキア、マシュガ、ハースリット、カルバールといった、国境が帝国領に隣接した国々だ。カルバール、バラディエ、クオラーンといった小国家群南東部の国々も、同時攻撃を受けているのかもしれない。そこまでの情報は入ってこなかったが、帝国が同時侵攻に拘っているのであれば、その可能性は高い。それも極めて。
帝国の小国家群侵攻の目的は、不明だった。
帝国は、数百年に渡る沈黙を破り、動き出したのだ。小国家群に領土を求めて行動を起こしたとは、想い難い。なにか理由があって、と考えるのが妥当だろう。だが、単純に領土拡大を目的としている可能性も捨てきれなかった。
帝国は、セドキアの交渉に応じなかったという。
セドキアは、小国だ。ログナーを併呑する以前のガンディアよりも小さく、近隣国と友好関係を結ぶことでこの乱世を生き抜いているような国だった。当然、持ちうる戦力も大したものではない。帝国軍に立ち向かえるわけがないのだ。故に、帝国軍がセドキア領土に乗り込んできたとき、すぐさま交渉の使者を立てた。だが、帝国軍は素気無く突き返し、セドキアの都市や軍事拠点を攻め立てた。あっという間に滅ぼし、セドキア王家は根絶やしにされた。
かくしてセドキアは、帝国領土と成り果てたという。
そういう話が飛び込んできている。
「単純に、帝国領の統治が安定したから領土拡大に乗り出したという可能性もありますが」
セラス=ベアトリクスは、沈痛な面持ちで、いった。彼女の推測が正しければ、ガンディアが生き延びる道はないのだ。彼女がそんな表情をするのもわからないではない。
実際、セドキアを滅ぼした帝国軍の陣容を知れば、デイオンも生きた心地がしなくならざるをえない。十万以上の大軍がセドキアを攻め立てた、という。十万。セドキアの兵力など、一万にも満たないだろう。多く見積もっても、五千から六千といったところだ。クルセルク方面軍よりも遥かに少ない。勝てるわけがなかった。濁流に飲み込まれるが如く滅ぼされたのだ。
帝国によって滅ぼされた国は、セドキアだけではない。
シャザーン、レグラーナも軽々と滅ぼされ、帝国領となったという。その二国は、セドキアよりは持ったというが、それは単純に国土面積がセドキアよりも広かったという程度の話にすぎない。戦力差は莫大。圧倒的なのだ。策を弄しても、武装召喚師を駆使しても、意味をなさない。
メレド領東リジウルが、為す術もなく帝国軍によって滅ぼされたという報せがデイオンの元に飛び込んできたとき、彼は、覚悟を迫られた。
東リジウルは、ガンディア領となったばかりの西リジウルとともにクルセルク方面に隣接した地域だ。その地域が帝国の手に落ちたということは、帝国軍がクルセルク方面に雪崩込んでくるということだ。西リジウルで堰き止められるわけもない。西リジウルは、支配者の交代によるゴタゴタの最中だ。まともに戦えるわけもない上、そもそも、西リジウルにまともな戦力があるはずもない。方面軍さえ、結成されていない。元イシカの軍をそのまま使っているだけだった。
やがて、西リジウルのひとびとがクルセルク方面に逃げ込んできた。帝国軍が西リジウルまでも攻め滅ぼさんとしたからだ。帝国軍に容赦などなかった。情けなどなかった。ただ苛烈に、当然のように戦端を広げていく。
そうして、帝国軍がガンディア領クルセルク方面に姿を見せたのが、十月十九日のことであり、左眼将軍は決断を迫られていた。
帝国軍と戦うか、降伏するか、後退するか。
降伏は、論外だ。
帝国軍は、セドキアやシャザーンの降伏さえ聞き入れなかった。聞き入れず、ただいたずらに戦いを繰り広げ、破壊と殺戮を行った。そんなものにどんな意味があるのかはわからない。まるで蹂躙を楽しんでいるのではないかという戦いの数々。悲鳴。慟哭。デイオンの元に届く戦地から情報は、いかにも悲劇的で絶望的なものばかりであり、帝国軍が鬼や悪魔に思えるようなものだった。ただし、帝国軍が残虐非道かというとそういうことはない。
少なくとも、帝国軍の戦いに一般市民が巻き込まれたという話はあっても、残忍極まりない行いとしたという記録はなかった。
だからどう、ということもないが。
「将軍、どうなされますか」
「どうもこうもあるまい」
セラスの質問に、彼は頭を振った。
まずは、交渉の使者を立て、時間を稼ぐことだ。
レオンガンドの指示を仰ぐにも、時間がかかる。クルセルク方面とガンディア本土は、あまりにも離れている。無論、デイオンには、左眼将軍としての権限がある。有事の際は、国王の指示を仰ぐまでもなく、左眼将軍の考えのままに軍を動かしても構うまい。たとえそれがレオンガンドやガンディア政府の意向とは異なるものであったとしても、だ。
問題となるのは、時間が稼げるかどうかなのだ。
帝国軍が、ガンディアとの交渉に応じてくれる可能性は低い。これまで、多くの国々の交渉に応じなかったのだ。ガンディアだけ特別な対応をするだろうか。
(するまい)
デイオンは、諦めるでもなく、認めた。
帝国軍がガンディアとの交渉に応じる道理がない。帝国軍の目的が何であれ、進路上の国々を滅ぼし、その領土のみを支配下に組み込むことを意図としているのであれば、ガンディア領土も飲み込もうとするだろう。
ガンディアだけを残す意味が、帝国にはない。
それにガンディアに配慮するのであれば、西リジウルも滅びを免れたはずだ。だが、西リジウルは滅ぼされた。東リジウル同様、呆気なくだ。
そして実際、デイオンの差し出した使者が帝国軍の指揮官に遭うことも叶わなかった。
十月二十日。
帝国軍によるクルセルク方面への攻撃が始まった。
クルセルク方面軍一万二千に対し、帝国軍は当初、東リジウルを制した五万の軍勢を繰り出した。クルセルク方面軍はターレブを本拠として防衛線を構築していたが、物量に押され、戦線を下げざるを得なくなる。圧倒的な戦力差。武装召喚師の数においても、圧倒された。一万二千という大軍勢も、帝国軍五万に比べれば少なすぎるといっても過言ではなかった。
「なんという数だ……!」
デイオンは、撤退戦の最中、雲霞の如く押し寄せる黒鎧の軍集団に瞠目せざるを得なかった。
その日のうちにターレブを放棄したデイオン軍は、ネヴィアまで引くと、さらにノックスからクルセルクまで引き下がった。
ノックスに入り込んできた帝国軍は、そのときには十万にまで膨れ上がっていた。




