第千六百十二話 夢の終わり(四)
「御主人様……っ!?」
レムが練武の間に飛び込んできたのは、セツナが神と対峙してすぐのことだった。無尽蔵に近い体力を誇るレムは、疲労の様子さえ見せていない。が、驚いてはいた。その反応から、彼女の目にも神の姿が見えていることがわかる。
「レム。見えるんだな?」
「はっ……はい……」
うなずきながら、それがなんであるか理解できず、不可解な表情をしていた。
《それは視えるだろう。汝に視えるということは、だれの目にも視えるということ。なればこそ、このような場所を選んだ。この状況下で、騒ぎを起こしたくはないだろう?》
神は告げると、腕を一本、掲げた。すると、突如として練武の間の扉が閉じ、わずかに入り込んでいた外光さえ消えて失せた。闇の中、照らすのは神より発せられる光だけだ。
「お気遣い、どうも」
《そういきりたつものでもないだろう。我は汝の敵ではないのだからな》
「味方でも、ねえだろ!」
《どうだろう》
神は、皮肉に笑う。
《我は汝の手によりあの地の楔より解き放たれ、自由を得た。オリアス=リヴァイアとの契約による楔だ。我はオリアスによる送還がなされるまで、あの地に縛り続けられるさだめであった。だが、汝が現れ、我らを解き放ってくれた。感謝しているのだ》
「どうだか」
「御主人様……あれはいったい……」
「前にも話しただろ。クルセルク……リネンダールに現れた鬼の中にいた、神様だよ」
「あれが……神」
レムは、驚きのあまり声を上擦らせた。予想は、していたはずだ。シドの真躯も見ているし、この世に神が実在するということも理解しているはずなのだ。そういうことから考えれば、目の前にいるひとに似たひとならざるものの正体は、自ずと想像がつく。皇魔とは根本からして違うのだ。皇魔の中にも人間に酷似した種もいる。リュウフブス、リュウディースといった皇魔の外見は、極めて人間に似ていた。だが、皇魔は人間が嫌悪感を抱く存在であり、その気配だけで肌が泡立ち、神経を逆なでにされた。
《そう、呼ばれている。ひとは、ひとの子らは、我らのことをそう呼ぶな。神、と》
「神……」
「あれが本当に神なのかどうかはわからねえが、とんでもない力を持っているのは間違いない。リネン平原やゼノキス要塞を壊滅させたのは、あいつだ」
セツナの脳裏には、闇夜を引き裂く光芒が浮かんだ。直線状に存在するあらゆるものを有無を言わさず消し飛ばした力。神の力。召喚武装は言うに及ばず、いまの黒き矛でもっても再現不可能だろう。真躯でさえ、同じことはできないかもしれない。それほどの力を、目の前の神は持っている。
《懐かしい話だ》
「そんなことを話に来たわけじゃあねえよな」
《ふふ……ただ、汝の顔を見に来ただけよ》
神は、ただ、嗤っていた。震えるほどの神々しさの中で、皮肉げに微笑んでいた。その笑みがセツナの感情を激しく掻き立てるのだが、彼は懸命に堪え続けた。立ち向かってもなんの意味もないことくらい、わかっているからだ。
神の加護を得た真躯は破壊できた。
だがそれは、神の加護を得た人間の力だからだ。神そのものとは、違う。神は、そのものずばり、次元の違う存在だった。ひと目見て、わかる。その体から溢れ出る光が、神の大いなる力の現れだ。勝てるわけがない、と対峙するものの心に植え付けるような力の波動。
「俺の顔を……?」
《夢の終わりを目前にして、絶望に暮れる汝の顔……もう少しよく見せてくれないか》
「だれが絶望してるって!?」
《なんだ。まだ、諦めておらぬのか》
「俺は、諦めねえよ」
セツナは、神を睨みつけながら、告げた。
「たとえ世界中が敵に回ったってな」
《それはただの強がりだろう。セツナ。汝は、そこまで強くはない》
「強くないからなんだってんだ!」
《強くないから、負ける。心折れ、諦め、絶望し、奈落に飲まれる。故に我は汝を救わんとした。だが、汝はそれを拒んだ。我による救いを。唯一、この絶望から逃れ得る術を》
神は、四本の腕を操り、セツナを煽るが如き仕草をした。光り輝く四本の腕が虚空を泳ぐ様は、神々しくもどこか艶美であった。
《拒絶した》
神は、続ける。
《まったく、愚かなことだ。くだらぬ。その結果、汝は、おのが夢の終わりを見届けねばならぬ羽目になった。つらかろう。苦しかろう。だが、それが汝が選んだ道だ。絶望に至る、破滅の階梯。我が救いを受け入れておれば、このような苦しみを味わう必要などなかったというに》
「救いだと」
《救いだよ。死ねば、苦しむことなどなかった》
「ふざけんな!」
「御主人様!」
無意識に飛び出した直後、レムの悲鳴にも似た呼び声を振り切り、呪文を紡ぐ。
「武装召喚!」
《無駄だ》
神の嘲笑も黙殺し、光とともに出現した矛を握りしめ、さらに加速する。練武の間の中心へと躍りかかり、思い切り振りかぶった矛を神に向かって振り下ろし、叩きつける。だが。
《それでは、我を斬ることなどできぬ》
黒き矛は空を切るかのようにして神の体を通過した。手応えなどあろうはずもなく、切っ先が練武の間の床に突き刺さる。神の嘲笑だけが聞こえた。
《貫くことも、打ち砕くこともな。それでは、届かぬ》
「……くそっ」
神の体を透過したまま吐き捨て、横に移動する。少し距離を取り、神を睨む。真横から見た神は、なんとも奇妙な姿だった。美しい少年と少女が背中合わせにひとつになっているような姿なのだから、そうも感じるだろう。少女の上半身にはしっかりと胸があり、顔立ちも女性らしかった。そのまなざしは、少年に比べれば遥かに優しい。
《ひとが神を滅ぼせるわけがない。神は、ひとの願いが生んだものだ。ひとの願い、祈り、望み――そういったものが我らを生み、我らはそれに応えるべく示現する。故に我らに滅びはない。故に我らの力は無窮。故に我らは不変》
神がこちらを向いた。
《もし、神を滅ぼすものがあるとすれば、それは“魔”なるもののみ》
「“魔”……」
脳裏に閃くのは、魔王の杖という言葉だ。最初に聞いたのは、確か、この神の言葉だったはずだ。魔王の杖。初めて聞いたときは、その言葉がなにを意味するのか、まったくわからなかったものだ。いまでも、黒き矛を示す言葉であるという以外の意味はわからないが。
《“魔”もまた、祈りなれば。神を呪う、祈りなれば》
「……なんでそんなこと、教えんだよ」
《最後まで抗うのだろう? 最後まで、その生命が尽き果てるまで、魂が燃え尽きるまで、足掻き続けるのだろう。それが汝なのだろう》
「ああ」
矛を握りしめ、誓う。
「そうだよ。それが俺だ。大勢力がなんだ。そんなことで、諦めてたまるかってんだ」
《諦めよ、などとはいうまい》
神は、こちらを見ていた。嘲笑は消え失せ、慈しみに満ちた表情になっている。
《だが、汝の意気が覆せるほど、状況は甘くはないぞ》
「んなもん、いわれなくてもわかってるっての」
《本当に理解しているか? ディール、ザイオン、ヴァシュタリア――この大地を支配する三大勢力が目指しているのは、この地だ》
「え……?」
《ヴァシュタラの神々も、ザイオン、ディールの神も、この地を欲さんとしている。この地を手に入れたものが勝利者たれると信じているのだろう》
神が発した言葉の意味が理解できないわけではなかった。しかし、理解すれば理解するほど、謎は深まった。この地とはつまり、ガンディアなのは間違いない。だが、なぜ、なんのためにガンディアを手に入れようとするのか。ガンディアは、何の変哲もない国だ。なにがあるわけでもない。そんな国を、国土を手に入れてどうなるというのか。
《しかし、奇妙なものだ。地を手に入れるだけならば、ひとを使い、軍を起こす必要などあるまい。神みずから足を運べばよい。我のようにな。なにか理由があるのだろうか。あるのだろうな。この世界に召喚されたばかりの我にはわからぬ、なんらかの理由が》
神は、ひとり納得するようにいった。無論、セツナには納得のできないことばかりだ。
「この地を目指してるってのは、本当なのか?」
《ああ。真実だよ》
神は、慈愛に満ちた顔で、告げてくるのだ。
《三大勢力は、このガンディアの地を手に入れるべく、動いている》
神の発言は、セツナにとって衝撃的というほかなかった。




