第百六十話 射程範囲
やがて、グラード隊は、湿原の中ほどまで到達した。
湿原に踏み入ってどれほどの時間が経過したのか。相変わらず日は高いが、少しずつ傾いているのはわかる。雲が流れ、青空に白が混じり始めた。無論、ルウファたちの姿など見えるはずもない。既にバハンダール上空に到達している頃合いだ。投下する機を伺っているのだ。
セツナを投下するのは、東側部隊と南側部隊がある程度の距離まで近づいてからでなければならない。でなければ、投下の混乱に乗じた接近など不可能といっていい。投下したかどうかは、バハンダールの反応を見て判断するよりほかはなく。城壁の様子が見える距離まで近づく必要があった。それは、敵の矢が届く距離と言っても差し支えない。
黒き矛の投下による混乱は、一時でも弓兵の動きを止めるだろう。自軍拠点に異変があれば、外の敵にだけ注意を向けるというわけにはいかない。それに、外の敵は湿原に足を取られているという前提がある。バハンダール外の敵に対しては余裕がある以上、内部の異変に注意を向けるに違いない。
その機にバハンダールへと急接近を試みるのだ。
(やっぱり、馬鹿げているわ……)
バハンダールの攻略自体が馬鹿げた難易度なのだということは、エインの説明でもわかっていたことだ。ザルワーンが長年突破できなかった自然の要害。長期攻囲によって立ち枯れさせるのがもっとも冴えたやり方なのだろうが、こちらにそんな余裕が無いのはファリアにだってわかっている。そして、正面突破はもっとも被害が増えるやり方であり、この部隊にセツナがいたとしても、被害を抑えることはできない。彼は矛なのだ。攻撃を司り、防御を司る盾とは違う。
西進軍に《白き盾》のクオン=カミヤがいれば、また別の作戦が立てられたに違いない。彼の無敵の盾さえあれば、バハンダールの矢の雨など、なんの障害にもならない。が、《白き盾》は、もっとも苛烈な戦場を駆け抜ける中央軍に組み込まれていた。中央軍の損耗を抑える上で、《白き盾》の活躍は不可欠なのだ。
ありもしない可能性ばかり考えていても埒が明くものでもない。
ファリアは頭を振ると、雑念を捨て、目の前の戦場に意識を集中した。呪文を口にする。囁くように、歌うように。召喚武装を異世界から呼び寄せるための術式を、ゆっくりと構築していく。距離はまだ遠い。だが、射程に入ってから召喚していてはあまりに遅い。かといって、湿原突入前に召喚するのは、精神的負担が大きくなりすぎるのだ。
湿原は、まだ続く。
ぬかるんだ地面に足を取られて転ばないように慎重に、かつある程度の速度を保ちながら進むというのは中々に神経をすり減らす作業だ。その上、ファリアは呪文を紡がなくてはならない。複雑かつ冗長な呪文は、武装召喚術が広まりきらない原因のひとつだろう。一言一句間違えてはいけない。間違えれば、また最初からやり直しだ。
呪文の詠唱は、世界への干渉なのだ。このイルス・ヴァレと名付けられた世界に干渉し、異世界との扉を開くために見えざる手を伸ばしているようなものだろう。呪文による術式の構築は、異世界への扉を開くための見えざる手を構成しているのであり、術式を完成させる結語は、見えざる手で扉を開くのと同義。すべてが完璧にこなせてこその武装召喚師であり、セツナのように呪文の結語だけで武器を召喚するなど、通常は考えられないことだった。
しかし、セツナは異世界人だ。この世界の常識とは違うところに立っている。自分たちとおなじ感覚で見てはいけないのだろう。といって、彼に対する態度を変えるのは違う。セツナはセツナであり、それはこれからも変わらないはずだ。
「武装召喚」
呪文の結語とともに、術式が完成した。見えざる手が異世界の扉を開き、ファリアの口ずさんだ呪文が意味する召喚武装を目の前に運んでくる。光が網膜を塗り潰し、手の中に重量が生まれる。オーロラストーム。翼を広げた怪鳥のような、という形容詞で語られる大型の弓。それはもはや弓ではないのだが、形状は武器の中では弓に一番近かった。
召喚時、周りの兵士たちが驚いたようだったが、気にもならない。これが彼女の役目であり、能力だ。この技術を駆使することこそ、ファリアに求められているのだ。
弓を抱えながら前進する。バハンダールが射程に入るまで、まだまだ進まなければならない。オーロラストームを手にしたことによる感覚の鋭敏化は、ファリアの視覚を研ぎ澄まし、非召喚時よりも極めて広い視野と高い視力をもたらしている。
武装召喚師が強いといえる点のひとつが、それだった。
召喚武装の装備による、身体機能の強化である。召喚武装はただそれだけで強力な武器なのだが、手にしたものの身体能力を引き上げ、さまざまな感覚を鋭敏にするという力も持っている。召喚武装によって特に強化される感覚は異なる場合が多く、オーロラストームは、特に視覚を強化した。弓という武器の特徴を活かすためのものかもしれないが、よくはわからない。
ともかく、ファリアは、拡張された視覚によって、湿原の向こう側に聳える丘陵を見、門が閉ざされていることも把握した。籠城の構えだが、援軍を期待してのものではない。打って出る必要がない、とでも言いたげだった。実際、その通りなのだろう。近づいてくる敵を順番に射殺していくだけのことだ。バハンダール側が圧倒的に有利だった。
それでも、なんとか勝機を見出そうとしたのが、エインの作戦だ。
セツナ投下作戦を成功させるには、グラード軍はもっと前進しなければならなかった。それはグラード自身もわかっているのだろう。進軍速度が、少し上がった。もちろん、無理に速度を上げても転倒するものが続出するだけで意味がない。
グラードは、その微妙なさじ加減を心得ているようだった。
前進。
敵軍の射程まではまだまだありそうだ――ファリアがそう思ったのも束の間、彼女の聴覚は、大気を劈くような音が急速に迫ってくるのを捉えた。
前方で悲鳴が上がり、泥が宙を舞った。だれかが転倒した。いや、それだけではない。どよめきがあった。グラードが動いている。ファリアは兵士たちをかき分けて前列に急いた。
「盾兵構え!」
グラードの号令に、大盾兵が前列に展開しようとする。が、再び飛来音がファリアの耳に突き刺さり、大盾を構えようとした兵士の右腕が吹っ飛んだ。兵士は激痛のあまり叫びながら、泥の中に崩れた。
「な、なんだ!?」
「射程範囲だと!」
「どういうことだ!? まだ、そんな距離じゃないはずだぞ!」
兵士たちが口々と喚く中、ファリアは、足元の地面に突き刺さった矢を見ていた。普通の矢の大きさではない。そして、その矢は腕に刺さるのではなく、腕を吹き飛ばしたのだ。凄まじい威力であり、とても通常兵器とは思えない。召喚武装。脳裏に過った考えは、しかし、即座に否定するしかなかった。召喚武装の弓で通常の矢を放つ、などという話は聞いたこともなかった。
矢を放ってきた相手は武装召喚師ではない。
「盾兵展開急げ!」
グラードが怒号を発すると、兵士たちは口を噤んだが、激痛にうなされる声は響いていた。またしても大気を引き裂く音が聞こえたが、ファリアは今度こそ、飛来してくる矢を確認した。金属音。見ると、グラードが鎧われた右拳で弾いたのがわかった。彼の馬の足元に、矢が落ちる。グラードは、なにごともなかったかのように部下たちに下知を飛ばしていた。
矢の軌跡を辿ると遥か前方、ハンダール城壁上に至るのだが、距離を考えれば、通常の弓ではとても届かないはずであり、やはり普通の弓を使っていないことは確かだ。強力な弓――しかも、大の大人がふたりや三人掛かりでやっと使えるような代物でなければ、この距離を飛ばし、この威力を発揮させることはできない。
(それをひとりで扱っているとしたら、化け物だけど……)
そんなことはありえないと断定して、ファリアは前列に向かった。グラードに手で制されるが、お構いなしに進む。大盾を掲げる兵士の影に隠れるように布陣し、オーロラストームを構える。矢が届く距離ではない。いや、正確には違う。オーロラストームの力の使い方次第では、ここからバハンダールの城壁まで到達させることも可能だ。ただし、精度は格段に落ち、威力もほとんどなくなるが。
ファリアは考えなおした。当たらなくとも、牽制程度にはなるかもしれない。雷光の矢だ。それは、武装召喚師の存在を認識させるということになるはずだ。
「届きますか?」
グラードは、すぐ隣に立っていた。的にならないよう、馬を降りている。馬への狙撃を嫌ったのかもしれない。
「まず間違いなく当たりません。ただ、武装召喚師の存在は敵軍への牽制になるのではないかと」
「ふむ……」
本当のことを告げると、グラードは少し思案したようだった。前列後方で悲鳴が上がる。また、狙撃された。数人で運用しているわりには命中精度が高すぎるのだが、ファリアは深く考えないことにした。いまは、敵の実態を妄想している場合ではない。
「では、上空に向けて射てばどうです?」
「上空に?……なるほど、やってみます」
ファリアは一瞬なにをいっているのかと思ったが、すぐさまグラードの考えを理解した。
この状況を打開するには、敵軍にとって最悪の状況を作ればいい。