第千六百八話 黄昏(四)
「ガンディアは小国家群統一がため、エトセアと同盟を結んだ。同じく、我らベノアガルドとも同盟を結んだ。ガンディアは、武力による制圧のみに頼るのではなく、同盟や従属による勢力の拡大も視野に入れているということだ」
そう発言するのは、何度目になるかわからない。
フェイルリング・ザン=クリュースは、副団長オズフェルト・ザン=ウォードを見つめ、机の上の地図に視線を落とした。古い小国家群の勢力図。中央付近にガンディアがあり、ベノアガルドは北端のアルマドール、その西隣に位置する。
「ガンディアの近隣諸国はどのほとんどがその勢力下にあるといってもいい。エトセア、ベノアガルドと同盟を結んだということが知れれば、ガンディアの小国家群統一は加速の一途を辿るだろう」
「その際、我々はガンディアに協力し、武勇を示すのですね」
「そうだ。ベノアガルドの騎士団とはいかなるものかを世に示し、救いの声を挙げさせるのだ。そして、救済を示現し、我らが神の力を更に高めよう」
「来るべき滅びを防ぐため」
「うむ」
彼は、重々しくうなずいた。
すべては、そのためだ。そのためだけでしかない。この世を破滅から回避すること。それがすべてであり、それ以外のなにものも彼らには不要だった。名声も栄光も地位も賞賛も、なにもかも。この世を破滅的な結末から救うことができるのであれば、それだけでよかった。まずは破局を回避しなければ、どのようなことも意味をなさなくなる。どれだけ地位を積み上げ、名声を高め、栄光を重ね、賞賛を集めようと、破滅してしまえば無駄になる。
すべてを無駄にしないためには、どうすればいいか。
破滅を回避することだ。
そうしなければならない。
ただ、だからといって破局回避後の世界を考えないわけにもいかない。
破局を回避することに成功した場合、世界は何事もなく続いていくだろう。騎士団の奮闘はひとの記憶に残らないかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
考えるべきは、破局を回避することだけに意識を集中させる国が存続し続けることができるかどうか、ということだ。破局を回避するためだけにすべてを費やしてきたような国が、その後の世界で平穏を謳歌できるものだろうか。
もちろん、政治を疎かにしてきたつもりはないし、そんな馬鹿げたことはありえないのだが、それでも、と考える。救済、救世のために全力を投ずるということは、ほかがおろそかになるのは当然のことだ。そして、世界を滅びから逃れさせるためには、それ相応の覚悟、代償が必要なのは火を見るより明らかだ。
回避後のベノアガルドについて、考えなくてはならない。
その結論のひとつが、統一勢力に任せるということ。
ガンディアの小国家群統一がガンディア一国による統一に拘らないということは、統一成立後も国家の主権が失われることはないということだが、フェイルリングは、ベノアガルドの将来をガンディアに託してもいいのではないか、と考え始めていた。ガンディアの政治や統治に関する情報を集めてみたところ、悪い評判は聞かなかった。ガンディア本土のみならず、ログナー、ザルワーン、クルセルクといった地方から従属国に至るまで、ガンディアの統治に関して悪く想っているものは決して多くはない。気になるのは謀反が起きたことだが、その謀反が失敗に終わり、謀反人が尽く討たれたということが事実ならば、将来的な不安はなくなる。ガンディア政府も、今後二度と謀反など起きないよう、気を引き締め直すだろう。
そんな国であれば、十三騎士がいなくなったあとのベノアガルドを任せるのも、悪くはない。
滅びを防ぐだけ防いで、結果、ベノアガルドが無政府状態になり、滅びるのは忍びない。
元はといえば、ベノアガルドを腐敗から立ち直らせるべく立ち上がったのが最初なのだ。すべての始まり。世界を救うことに注力し、自分の国のことを顧みないなど、ありえないことだ。
そのとき、団長執務室の扉が開いた。
「報告!」
飛び込んできたのは、正騎士のひとりであり、彼は血相を変えていた。なにか驚くべき情報を持っていることは、その表情、態度から一目瞭然だった。
「ヴァシュタリアの軍勢と思しき大軍がベノア国境に接近中! 国境の防衛部隊ではとても抑えきれそうになく、至急、迎撃準備に入られたし、とのことです!」
「なんだと」
フェイルリングは、そうもらすのがやっとだった。衝撃のあまり、頭の中が真っ白になる。ここまでの衝撃を受けたのは、ミヴューラとの邂逅以来かもしれない。
「まさか、ヴァシュタリアが小国家群制圧に乗り出したというのでしょうか?」
「ありえぬ。ありえぬことだ」
彼は、オズフェルトの疑問にも頭を振った。数百年に渡って沈黙と続けてきた大勢力が、なんの前触れもなく動き出すなど、到底信じがたいことだった。ヴァシュタリア共同体はその勢力圏の確定以来数百年、小国家群に手を出したことはなかった。ヴァシュタラ教を広めるために巡礼教師が小国家群を放浪するといったことはよくあり、教会に帰依するもの、ヴァシュタラ教を国教と定める国もあったくらいだが、侵攻の意図を潜めたものではなかった。ザイオン、ディールといった二勢力と同じく、小国家群への勢力拡大には興味すら見せなかったのだ。それもそうだろう。
ヴァシュタリア、ディール、ザイオンの勢力範囲は、小国家群そのものを内包しかねないほどに広大であり、それだけの勢力圏を安定させ、維持させるだけでも大変なことだ。それ以上の勢力圏の拡張などしている場合ではない。ましてや、動き出せばそれだけで均衡が崩れるかもしれないのだ。均衡の崩壊によって、せっかく作り上げた秩序を破壊するなど、だれが望むものか。
だが、飛び込んできた報告が嘘とも思えなかった。
(いや……ありうるのか?)
フェイルリングの脳裏に閃くものがあった。
ミヴューラが見せた破滅の光景、その瞬間が網膜に輝いたのだ。
「神卓の間ヘ行く。ウォード卿は、出撃準備を始め給え」
「出撃ですか」
「ヴァシュタリアの侵攻が事実ならば、迎え撃たねばならん」
フェイルリングは、オズフェルトの眼を見た。理知的な副団長の眼には、動揺はない。
「我らはこの世界を救う。それがすべてだ」
告げて、彼は執務室を後にした。
ミヴューラに会ってなにがわかるものでもないが、会うべきだった。
もしかすると、もしかするかもしれない。
このヴァシュタリアの動きこそがこの世に破滅を導くものとなるのではないか。
フェイルリングの胸のうちに広がる波紋は、その可能性を考慮するものだった。
「ミヴューラよ。ヴァシュタリアが動いたという報せが入った」
フェイルリングは、神卓の間に入るなり、急ぎ足で神卓に歩み寄った。神卓に触れ、呼びかける。
《……ヴァシュタリアが?》
神卓に光の波紋が奔ったかと想うと、光輝く物体が顕現する。人間によく似た姿をしたひとならざるもの。人間のようでいて、決して人間ではないと思わせる、神々しい光を放つ存在。その存在を目の当たりにするだけで、その場に跪きたくなる。畏怖や敬意といった感情が、自然と沸き起こる。それこそ、相手が神であるなによりの証左だろう。
救世神ミヴューラ。
ベノアガルドの正義の拠り所は、金色に輝く双眸で、フェイルリングを見つめていた。
《ヴァシュタリア……》
そして、考え込むように、腕を組んだ。神でありながら人間らしい挙措動作を行うのは、人間に感化されていることの証明なのだ、とミヴューラはいっていた。つまり、フェイルリングの振る舞いがミヴューラの振る舞いに影響を与えているということのようだ。フェイルリングもまた、そんなミヴューラに影響を受けていることを否定はできなかった。ミヴューラの厳粛たる態度こそ、いまのフェイルリングを構築しているといっても過言ではない。
《……おまえの想像は正しいかもしれない》
「では?」
《ヴァシュタリアの侵攻。それに伴う小国家群の混乱こそ、この世界を破滅へと導く流れなのやもしれぬ》
ミヴューラの声が、幾重にも響き、フェイルリングの心に触れる。
《ヴァシュタリアは、この数百年、小国家群に興味を示すことさえなかった。それはなぜか。至高神ヴァシュタラを名乗る神々にとって小国家群は不要な存在だったからだ》
神は、語る。神の有り様を。神とはなんたるかを。
《神とは、信仰を力とする。我が救いの声を力に変えるように。祈りや願いによって大いなる力を示現するように。それが神の本質。ひとびとの声が、神の力となる。ヴァシュタラは、ヴァシュタリアと命名した支配地域より得られる信仰だけで、生きていくには十分な力が得られたのだ。故に、小国家群にまでその魔手を伸ばさなかった。その結果、均衡が築かれた。ザイオンもディールも、ヴァシュタリアの沈黙に戸惑いながらも喜んだであろう。ヴァシュタリアが沈黙してくれたおかげで、自分たちも無駄に領土を広げる必要がなくなったのだから》
それが三大勢力の真実ならば、驚くべきことだった。これまで、フェイルリングはそんな話を聞いたこともなかった。ミヴューラは、このような話、する必要もないと考えていたのだろう。実際、大陸の歴史など、救いにはなんの役にも立たない。
《その均衡が崩れた。ヴァシュタラにとってこれ以上の領土は不要と考えれば、侵攻の目的は領土拡大以外にあるということ。それがなんであるかはわからないが、ひとつだけ、いえることがある》
「ひとつだけ?」
《神は元来、この世界のものではないということだ》
「それは……」
誰もが知っていることだ、と彼は言おうとして、口を噤んだ。ミヴューラが理解していないわけがない。
皇神と呼ばれる。聖皇の神々という意味であり、この世界における神とは、多くの場合、皇神を指す。皇神以前に神はおらず、つまり、イルス・ヴァレには神など存在しなかったのだ。聖皇の召喚によってはじめて、神という概念がこの世界に生まれたのだろう。それまでは、ドラゴンが神のような存在だったらしいことは、ドラゴン信仰の根強さから窺い知れる。
《我を始め、このイルス・ヴァレに偏在する神々は、ひとりの人間の手によって召喚された。聖皇ミエンディア・レイグナス=ワーグラーン。彼の者によって召喚された神々は、当然、契約を結んだ。彼の者に与えられた役割を果たした後、元の世界に送り還してもらうという約束を》
ミヴューラの語りは、ミヴューラもまた、聖皇によって召喚された神だからこそ、真実味がます。
《だが、聖皇は逝った。そうなると、どうなる。神々は取り残された。本来在るべき世界に還ることも許されないまま、取り残され続けた》
「神々の力を持ってしても、帰れないと?」
《契約だ。契約は、すべてに優先する。いうただろう。神の力の源は祈りである、と。同じなのだ。祈りも、約束も、同じ言葉の力だ。律。言葉が呪文を紡ぎ、呪文が律を紡ぐ。律こそがこの世の根幹。掟だ。そして契約という律が生き続けている限り、いかに神といえど、この世界から離れることはできぬ》
ミヴューラが、大きく溜息でも浮かべるかのように、続ける。
《だが、故にこそ神々は還りたいのだ。本来あるべき世界へ。本来の信仰者たちが待つ、懐かしき世界へ。痛々しいほどにそう想っている。ヴァシュタリアの神々も、ザイオンの神も、ディールの神も、そして我も――》
ミヴューラのそれは、本心なのだろう。
ここは、本来、ミヴューラや神々にとって寄る辺なき異世界なのだ。どのように厚遇されようと、どれだけの力を得ようと、侵攻を集めようと、生まれ育った世界に還りたいと熱望するのは、自然だろう。
「しかし、話を聞く限り、それは無理なのだろう?」
《そうだ。召喚者たるミエンディアが死んだ以上、召喚物である神々が元の世界に還ることなどできない。それは、神々とて理解しているはずだ。だからこそ、多くの神々はこの地に根を張ろうとした。ザイオンやディール、ヴァシュタリアといった地に――いや》
ミヴューラが、はたと気づいたように顔を上げた。
《元より、このときを待っていたのやもしれぬ。小国家群に神々の願いを叶えるなにかがあるのやもしれぬ。だからこそ、数百年に渡る沈黙を破り、動き出したのではないか》
そしてそれはつまるところ、ヴァシュタリアとは交渉の余地などないということであり、また、そのなにかこそが、この世に破局をもたらすものなのかもしれない、という結論に達した。
《この世を滅ぼせば、神々を縛る軛を破壊することもできよう》
ミヴューラの導き出した結論に、フェイルリングは戦慄した。




