第千六百三話 虚空
セツナは、その夜、確かな満足感の中にいた。
エインの活躍もあって交渉が上手く纏まり、想像以上の成果を得ることができたのも大きいが、なにより、黒き矛の力が覚醒以前とは比べ物にならないほどのものになっていることが、シドとの戦闘でよく理解できたからだ。
シド・ザン=ルーファウスの真躯オールラウンド。
まさに雷神と形容するに相応しい威容と圧倒的な力を兼ね備えたそれとの再戦は、セツナに自信をもたらす結果となった。苦戦を強いられ、負傷こそしたものの、得られたものはとてつもなく大きい。今後、このような機会が持てる可能性が極めて低くなった以上、打診したのは正解というほかない。もし今日ここでシドの真躯と再戦していなければ、セツナは、黒き矛の力に確信を持てないまま、戦い続けなければならなかっただろう。
たとえ真の力を発揮した戦鬼グリフを一方的に倒すことができたとしても、《時の悪魔》を武装するマクスウェル=アルキエルを一蹴することができたのだとしても、黒き矛の全力を用いて真躯に敗れ去ったという事実を払拭することはできない。シドの真躯に敗れ、フェイルリングの真躯から逃げることしかできなかったという敗北の記憶は、セツナが今後ガンディアの英雄であり続けるためにはどうしても払拭しなければならないものだった。
しかし、そのような機会が訪れる可能性は極めて低い。ありえないことかもしれない。ガンディアがベノアガルドとの関係を改善する方向で動いていた以上、セツナが十三騎士と剣を交えることなど、あるはずもなかった。
運が良かった。
ベノアガルドとの交渉役に選ばれ、セツナみずから出向くことになるというのは想定外だったし、あまり気分のいいことではなかったが、好機かもしれない、とも想った。ベノアガルドが交渉役に任ずるのは、十三騎士に決まっている。そして、そういう交渉力に長けた人材は、騎士団幹部の中でも限られているだろう。セツナが見る限り、シドかルヴェリス、カーライン辺りが交渉役には適任で、それ以外の十三騎士は交渉には向かないように思えた。
シドがベノアガルドの代表ならば――と、ずっと考えていたわけではないが、そうひらめいたことがあったのは事実だ。
打診しても断られれば、終わりだ。しかし、シドならば、応じてくれるだろうという期待もあった。シドは、どうやらセツナに甘い。なぜ、そこまでセツナのことを評価してくれているのかわからないが、とにかく彼はセツナを高評価し、ベノアにおいても色々と手を回していてくれたようだ。セツナがベノアでの生活に不自由しなかったのは、ひとつにはルヴェリスのおかげもあるが、もうひとつにはシドが尽力してくれたからだった。
そんなシドならば、本気の戦いをするというセツナの願いも聞き入れてくれるのではないか。
思惑は当たった。
しかも彼は、真躯まで披露してくれた。
願ったり叶ったりとはこのことだろう。
そしてセツナは、シドの真躯との戦いの果て、黒き矛の真の力、その一端を理解するとともに、シドに敗北した記憶を払拭することに成功した。
無論、救世神ミヴューラの加護は、神卓に近ければ近いほど強くなるという事実を忘れてはならないし、ベノアとサントレアではとんでもなく距離が離れているということも知っておかなくてはならない。しかし、たとえそうだとしても、セツナがシドに敗れ去ったのはサントレアの戦場であり、その戦場で今度は勝利することができたのだから、素直に喜ぶべきだろう。
シドが認め、テリウスが賞賛してくれたのだ。
黒き矛は、あの当時とは段違いの力を発揮するようになった事実を認め、理解するべきだ。
それもこれも、グリフという不滅の存在との激闘のおかげなのは疑いようもないことであり、セツナは、彼がベノア脱出直後に襲い掛かってきたことさえ、アズマリアの思惑通りだったのではないか、と思わずにはいられなかった。
アズマリアは、セツナが黒き矛の使い手として成長することを心待ちにしているようであり、そのためならばどのような手段を用いても不思議ではない。彼女がラグナをセツナに寄越したのも、セツナを守るためにほかならない。ラグナの魔法と命を使って。
そんなことを考えながら、夜空を見上げていた。
マルディア軍施設の宿舎、その三階から伸びる渡り廊下に彼はいる。夜中。皆が寝静まった頃合いだ。セツナは、眠れなかった。興奮しているのかもしれない。真躯との戦闘と、勝利の余韻もあるだろう。その体内に燻る熱気を冷ますため、というほどのことではないものの、彼は平穏な夜を満喫していた。
「セェツゥナァ……」
背後から伸し掛かるかのように抱きついてきた何者かに対し、セツナは普通にびっくりした。
「うお」
「探したわよぉ」
そういいながら右肩の上に顎を乗せてきたのは、ミリュウだ。赤い髪が月明かりの下、幻想的に見えた。
「探すのはいいけど、驚かせるなよ」
「やあん、別に驚かせるつもりはなかったの。ごめんね」
「いや、まあ、おこってないけどさ」
セツナが慌てたのは、彼女が涙ぐんでいることに気がついたからだ。彼女の精神状態は安定しないままだった。なにが彼女を不安がらせているのか、どうやればその不安を取り除けるのか。じっくりと考えなくてはならないことだ。彼女の精神状態が不安定なままでは、セツナも心配にならざるをえない。
「うう……」
「どうした? なにかあったのか?」
セツナは、ミリュウを向き合うと、彼女の両肩に手を置いた。寝間着であるところをみると、寝床を抜け出してきたようだった。眠れなくて、セツナを探したとか、そういうことかもしれない。
「心配したの」
「心配? なにを」
「セツナのことに決まってるでしょ」
「俺のこと?」
「うん」
こくりとうなずくと、彼女は顔を俯けたまま、表情を見せてくれなかった。ミリュウが心配するようなことといえば、ひとつしか思いつかない。
「……ルーファウス卿との戦闘のことか?」
「うん」
「信じられなかった?」
「……違うよ。そういうことじゃなくて」
「じゃあ、どういうことなんだよ?」
セツナは、ミリュウがなにを伝えたがっているのかわからず、疑問を浮かべるほかなかった。セツナのことを疑っていなかったというのなら、なにが心配だったというのか。
「セツナがどこか遠いところにいってしまいそうで」
「遠いところ? 俺が」
「うん」
顔を俯けたままの彼女に対し、セツナは、笑顔を向けた。見ていなくとも、伝わらなくとも、構わない。
「どこにもいかないよ」
「うん。知ってる。信じてる。ずっと一緒にいてくれるって」
「ああ」
「たとえ結婚しても、あたしたちを見捨てたりはしないもんね」
「当たり前だろ」
即答する。結婚は、王命だ。政治的判断に過ぎない。エリルアルムのことが好きだとか、ミリュウたちが嫌いになったとか、そういうこととはまったく関係のないことだ。ガンディアとエトセアの国家間の話に過ぎず、そこにはセツナとエリルアルムの感情が入り込む余地はない。そして、そうである以上、ミリュウたちへの想いが変わるということも、ない。
ミリュウが、顔を上げた。笑顔だった。目にたまった涙が、その笑顔によって頬を流れ、きらりと輝く。
「うん。やっぱりセツナだ」
「なにいってんだか」
セツナは、指でミリュウの涙を拭ってやると、そういって笑った。
「良かった。セツナのままで」
「だから……どうし――」
どうしたのか、と問おうとしたとき、ふと、脳裏に閃光が瞬いた。網膜に突き刺さったのは、月光。頭上を仰ぎながら、数多に浮かぶ星々を見やり、頭を振る。なにか、とても重大なことを忘れていて、それが思い出せそうな、そんな感覚がある。
雷光が見えた。
記憶の断片――。
黒き矛の切っ先がオールラウンドの手のひらを突き破り、腕を破壊する。爆散する装甲とともに雷光が散乱し、視界を激しく狂わせる。そこへ殺到する数多の雷撃のことごとくを黒き矛で捌き切り、跳ね返し、弾き飛ばして血路を開く。オールラウンドの巨躯まで後数歩の距離。しかし、直線的な動きでは敵を捉えることはおろか、致命的な一撃を叩き込むことなどできない。左へ飛ぶ。視線の先、オールラウンドが移動している。予測通り。振り上げてきた腕を矛の一撃で切り落とし、落ちる腕を蹴って再度跳躍する。真躯の光背が閃光を発した。目眩ましと同時に四方八方から雷光が迫りくるのがわかる。が、止まらない。気がつくと、吼えていた。そして、閃光の中を突っ切り、黒き矛の穂先が真躯の頭蓋を貫く瞬間を目の当たりにした。雷光の嵐が襲い掛かってくることはなかった。咆哮とともに放った全力攻撃が消し飛ばしたのだ。
そしてさらに穂先がオールラウンドの頭部に突き刺さった瞬間、またしても吼え、すべての力を解き放っていた。
力の奔流が全身と矛から拡散し、オールラウンドを頭部から破壊していく。とめどない力の奔流。衝動。暴走といってもいい。自分でも信じられないくらいの力が体の奥底、魂の深奥から溢れ、破壊の力となって発散していく。それは黒き矛の力。黒き矛を介して、セツナの精神力が破壊の力そのものとなって拡散していくのだ。真躯オールラウンドの装甲を粉々に破壊し、巨躯を見るも無残な姿へと変えていく。
理不尽なまでの暴圧。
そんなものを見れば、ミリュウが心配になるのも無理がないのではないか。
そういえば、ファリアやシーラも、どこか心配そうな顔をしていたことを思い出す。
シドがあきれていたのは、セツナと黒き矛の暴走があまりにもひどすぎたからだったということが、記憶の復活によって明らかになると同時に、彼が無事で良かったと胸を撫で下ろした。真躯への攻撃がシド本人にも及ぶようであれば、彼は死んでいたかもしれない。
そうではない、ということを事前に聞いていたからこそ、セツナは全力を出し切ることを躊躇わなかったのだが、その結果、記憶が欠落するとは想像もできなかった。だが、力を制御できなかったということではない。制御できなければもっと酷い結果に終わっていたはずだ。それこそ、ガンディアとベノアガルドの同盟関係が壊れるようなことになっていただろう。しかし、そうはならなかった。真躯の破壊を確認して、それ以上の攻撃をすることはなかったのだ。間違いなく、力を制御できていた。それなのに記憶が飛んでいたのは、どういうことか。
考えれば考えるほど、わからなくなる。
けれどセツナは、ミリュウを見つめ、口を開く。
「俺は、俺だよ」
「うん」
「変わらない。どこにもいかない。側にいるさ」
「うん……」
「なにも心配いらない」
そういって抱き寄せると、ミリュウも抗わなかった。むしろセツナに体を預け、すべてを任せるようにしてきた。
「うん。わかってる。わかってるよ……」
「だいじょうぶ」
自分でいいながら、なにがだいじょうぶなのかと自問し、答えを見いだせないまま、彼は時が流れていくのを感じた。




