第千六百二話 勝敗
なにが起きたのか――。
セツナは、気がつくとシドと対峙していた。
素の状態に戻ったシドは、どこかあきれたようでいて、嬉しそうな表情でこちらを見ていた。彼は、無傷だ。全身、どこにも、傷一つ負っている様子はない。もしかしなくとも、真躯の損傷は本体には影響しないのだろう。あるいは、傷を治す術があるのかもしれない。
一方、セツナは体中に無数の傷を負っている。オールラウンドの雷の雨を捌き切ることは不可能に近かったし、背中から直撃を受けている。しかし、致命傷にはならなかった。当たりどころが良かったのか、受け方が良かったのか、それとも、殺傷能力の低い雷撃だったのか。
手を見る。黒き矛は、変わらずそこにある。流れ込んでくる力がセツナを立たせている。
酷い疲労だった。矛を杖にしなければとても立っていられないようなほどの消耗。ここまで力を使い切ったのは、いつ以来だろうと考え込まなければならないほどであり、セツナは、いつのまにそこまで力を使ったのかと衝撃を受けていた。身に覚えがなかった。
「まさか、我が真躯オールランドに土をつけるとは、驚きですよ。セツナ伯」
感嘆するようなシドの発言に、セツナは顔を上げた。
「……土をつけた?」
「ええ。わたしの負けです。認めましょう」
「……勝った? 俺が?」
セツナは驚くほかなかった。勝った、という感覚がない。全身全霊の攻撃を叩き込んだのを最後に記憶がないからだ。あの攻撃で勝負が決したのか、それとも無意識に戦い続けたのか、それすらもわからない。ただ、戦いが終わったというのは事実らしく、ファリアやミリュウたちが安堵の顔をこちらにむけていることからもわかる。
それはいいのだが、どのように決着がついたのか思い出せないのは、セツナの中にもやもやとしたものを生んだ。
「はい」
「納得できないんですけど」
「あなたが納得できようとできまいと、わたしが負けたのは事実。セツナ伯。あなたは確かに真躯を用いたわたしを凌駕し、撃破したんですよ」
シドがセツナを納得させるために嘘をいってくるはずもないのだから、彼がいったことは事実なのだろう。それは理解する。彼は、セツナが決着の瞬間を覚えていないことなど知らないはずなのだ。嘘をつく意味がない。それはつまり、セツナがシドの真躯オールラウンドを撃破したということであり、セツナが確かに勝利したという証明なのだろうが。
セツナは食い下がった。
「でも、本気じゃあないですよね?」
「本気ではありましたよ」
シドは、つとめて穏やかに、そして紳士的に対応する。
「でも、全力を発揮することができたとは言い難い」
「……まあ、そうですね」
シドが中々認めようとしなかったのは、言い訳になることを嫌ったのかもしれない。正々堂々としたひとだと、セツナは改めて想った。これだからシドは嫌いになれない。
「しかし、以前のことを思えば、セツナ伯が強くなったことは疑いようのない事実でしょう。あのときと、オールラウンドの力そのものは変わっていないのですから」
シドは、驚きを込めて、いってくる。
「それにしても、この数ヶ月でこうも変わるものとは想いもよりませんでした。なにか秘訣でもあるんですか?」
「いや……単純にあのときはこっちが本気を出せなかっただけでさ」
「本気を? どういうことです」
シドが異様なまでに大げさに驚いたのは、まさかサントレアで十三騎士と戦っていたセツナが本気を出せていなかったとは思ってもいなかったからだろう。セツナは、当時、黒き矛の能力を使うことができなかったことを教えた。そして、黒き矛が目覚めたのは、ベノアを脱出した直後のことであり、だからこそシドの真躯に挑戦し、本当に強くなっているのかどうか確かめたかったのだということも、伝えた。
「なるほど。そういうことだったのですね」
「でも、ひとつ、確かなことがわかりました」
「なんでしょうか」
「いまのままでは、あなたたち十三騎士全員を相手に勝てる見込みがないってことですよ」
セツナが不敵に告げると、シドはきょとんとした。そして、ふっと笑う。
「あなたは、我々十三騎士全員を相手にするつもりだったんですか?」
「ええ」
セツナが当然のようにうなずくと、彼は、笑顔を消した。
「本来の力を引き出せないとはいえ、真躯を凌駕したその力。際限なく強くなるというのであれば、可能性はないとは言い切れません」
「どうでしょうね」
黒き矛が十三騎士全員の真躯を上回る力を持っていたとして、それを引き出せるようになったとして、十三体の真躯を同時に相手にして勝てるかというと、別問題だ。シドの真躯一体ですら凶悪極まり、その手数の多さたるや凄まじいというほかなかった。
(あんなのがあと十二体いて、そのうち一体があれか)
フェイルリングの真躯を思い出す。
一際巨大な真躯は、その質量からしてほかの真躯を比較にならなかった。内包する力の差も歴然たるものがあるのだろうし、シドの真躯に勝てたからといって、フェイルリングの真躯に勝てると想うほどセツナも愚かではない。ミヴューラの加護を最大限に受け、ベノアのひとびとの救いを求める声によって増強されたフェイルリングの真躯は、サントレアで対峙したシドの真躯とは比較にならない力を持っていたに違いないのだ。
ラグナをして逃げに徹させたのがフェイルリングだ。
いまのセツナでも、戦闘になるかどうか、危ういところだ。
「まあしかし、我々ベノアガルドは今日よりあなた方、ガンディアの同盟国です。セツナ伯。あなたが十三騎士と戦うことはありえないことでしょう」
「ええ。だから、あなたにお願いしたんですよ。今日を逃せば、このような機会は持てないでしょうから」
「……確かに」
シドが、静かに頷く。
セツナは、そんな彼に礼をいうべきだと想った。
「シド殿」
「はい」
「わたしの我儘に付き合ってくださり、ありがとうございました。心より、感謝を」
「いえ、わたしとしても、セツナ伯と黒き矛の力を知ることができたのは、有益でしたよ。ガンディアとの同盟は間違いではなかったことが判明したのですから」
シドは、にこやかに笑った。
彼の笑顔の屈託のなさには、セツナも惹かれるものを感じるほどだった。
「ご覧になられましたか? 御主人様の勝利ですよ、勝利!」
レムは、テリウスを振り返って、わざとらしくはしゃいでみせた。テリウス・ザン=ケイルーンは、同僚のシドが敗北したことに衝撃を受けているようだった。が、レムの呼びかけに気がついた彼は、少し考える風な顔をして。口を開いた。
「ああ。見たとも。見事な勝利だった」
「やはりわたくしの御主人様こそ最強……」
「まさかオールラウンドが敗れるとはな」
「オールラウンド?」
「ルーファウス卿の真躯の名称だ」
真躯とは、シド・ザン=ルーファウスが変化した姿のことを指している。十三騎士の人間離れしたその能力については、セツナから直々に説明があり、ガンディアの上層部では周知の事実になっていた。召喚武装に匹敵し、並の召喚武装以上の力を秘めた幻装、幻装よりも遥かに強力であり、黒き矛のセツナを軽く凌駕する真躯――それが救世神ミヴューラの加護を受けし十三騎士の力であり、セツナをして敵対するべきではないと進言させるに至ったものだ。
中でもベノアで対峙したというフェイルリング・ザン=クリュースの真躯は、ラグナがセツナに太刀打ちできないといわしめたほどのものであるといい、そのような力を持ったものたちと敵対するのは得策ではないというセツナの意見は、レオンガンドを始めとするガンディアの首脳陣に速やかに受け入れられたようだ。この度の交渉も、セツナの意見を元にしているに違いない。
レムが真躯なるものを見たのは今回が初めてのことだが、ファリアやミリュウが言葉を失ったように、彼女もまた驚きを持ってシドの変化、そして真躯の力を認識した。セツナが敗れたというのも嘘ではなかったということがわかったし、シドの真躯とは比べ物にならない力を秘めているというフェイルリングの真躯がいかほどのものか、想像するだけで総毛立った。政治に口出しをしないセツナがレオンガンドに進言した理由がわかるというものだ。
苛烈過ぎる戦いを目の当たりにしたいまならば、はっきりとわかる。
ラグナが命を賭したのは、そうしなければセツナを生かすことができないと判断したからであり、そう判断させるだけの力を十三騎士たちが見せつけたに違いなかった。だからこそ、セツナもガンディアとベノアガルドとの関係が悪化することを憂慮したのだろうし、ベノアガルドとの交渉役という望まざる役目にも文句ひとついわなかったのだ。
「元来、真躯に匹敵する人間などいるはずがない。真躯とは、我ら十三騎士が持ちうる最高の力だ。神の加護、その顕現といってもいい。ここサントレアでは、真躯本来の力を出し切ることは難しいが、だからといって普通の人間に負けることなど、ありえない。だが、負けた。驚くべきことだ」
「御主人様は、普通の人間ではございませんから」
「いや、人間だよ。彼は、間違いなく人間だ」
「あら」
「ん?」
「てっきり乗ってくださるかと想っていたのですが」
レムが冗談めかしていうと、彼は虚をつかれたかのような表情を見せた。そして、わざとらしく咳払いをして、話をすすめる。
「黒き矛の力というのは、やはりとんでもないもののようだ」
「それを扱う御主人様が凄いのでございます」
「それは認めているよ」
「あら、あっさり」
レムは、テリウスの中でセツナに対する評価が変化していることに気づいて、驚きを隠せなかった。王都潜入時のテリウスはセツナの有り様をすべて否定するほどの勢いだったし、自分たちこそがこの世を救うのだと息巻いていた。当時の彼ならば、黒き矛の使い手たるセツナを認めるような、そんな発言をするとは想えない。ベノア滞在中、彼とセツナの間でなにかがあったのだろうか。
興味が湧いたのは、セツナに関することだからだ。
「あんなものを平然と扱えるというのは、信じがたいことだがな」
「あんなもの……?」
「あんなものはあんなものだ。ただの人間が持てば心を壊されかねない」
彼の視線は、セツナに注がれていた。セツナの手には黒き矛が握られている。禍々しいばかりに凶悪な形状をした漆黒の矛。カオスブリンガー。その力は、以前にも増して破壊的になっている。
「持ったことがあるのでございますか?」
「一度、な」
彼はそういって、顔を背けた。表情を見られたくないとでもいうような素振りであり、彼女はそれ以上の追及は諦めた。テリウスがどうやらセツナのことを認めるような発言をしているだけで十分だと想ったし、これ以上の追及は藪蛇になりかねない。レムの言動がきっかけでセツナが再び嫌われるようなことはあるべきではない。
それに、セツナがこちらに戻ってきていた。
まっさきに駆け寄ったミリュウが人目も気にせず抱きつくのをシーラが激怒し、ファリアが呆れ、アスラが面白がり、エリナが宥めるといったいつもの光景の中、セツナの姿はいつにもまして雄々しく見えた。
胸が高鳴るのは気のせいではあるまい。
「そのせいで、セツナ伯のことが少しだけわかったのだ」
「逆流現象……でございますね」
「そのようだ」
「どのようなものなのでございます?」
「どんな……といわれてもな」
「くわしくお聞かせくださいませ」
レムが詰め寄ると、テリウスは少しばかり後退りした。レムは気にせず彼に迫る。彼は諦めたように頭を振る。なにを諦めることがあるのかとレムは想ったが、そのことは問わなかった。聞くべきは、逆流現象のことだ。ミリュウのように、セツナの記憶を見たとでもいうのだろう。
「ただ、セツナ伯の人生を見ただけのことさ」
「人生……」
「彼の人生を見て、少しだけ見直した。ただそれだけのことだ」
彼は、それ以降、口を噤んだ。レムは諦めきれずしつこく問い詰めたが、そこからは一切なにも教えてくれなかった。本人に直接聞けばいい、というもっともな反応には、レムも引き下がるしかなかった。確かにその通りだ。聞きたいこと、知りたいことは、本人に直接問いただせばいい。それで答えたくないことまで知ろうとするべきではない。
これから長い付き合いになる相手だ。
彼が死ぬまで寄り添う運命にある。
視線を戻す。
セツナを巡って女性陣が言い争いをする中、どさくさに紛れてエリナがセツナに抱きついた。するとミリュウがエリナを引き剥がそうとし、シーラが助勢する。ファリアが呆れ果てており、アスラはなにが面白いのか、腹を抱えて笑っている。セツナは途方に暮れた様子で、ついにシドに助けを求めたが、シドはどこ吹く風といった反応だ。
騎士団の救済は、痴話喧嘩には及ばないということのようだ。
レムは、テリウスに会釈をして、セツナに駆け寄り、隙をついて抱きついた。セツナは困惑し、ミリュウたちに顰蹙を買ったが、構わなかった。




