第千五百九十四話 滅びへの道(二)
大気が唸っている。
轟々と音を立て、渦を巻き、天に昇る。
滲んだような青空を膨大な量の雲が浮かび、それらが奇妙な螺旋を描いていた。まるで天に渦が巻いているような空模様は、幻想的であるとともにある種の恐怖を感じずにはいられなかった。空が警告を発しているような、そんな気がしたからだ。
そんなこと、あるわけがない。
ニュウ=ディーは頭を振り、不安を振り払おうとする。
しかし、胸の奥から湧き上がってきた不安をかき消すのは簡単なことではなかった。自分の肩を抱くようにして、落ち着かせようと試みる。不安。理由がないわけではない。理由があるからこそ、打ち消すことができないのだ。
リョハンが女神を失い、半年以上の時が流れていた。
護山会議と四大天侍による統治運営は、想った以上に上手くいっていた。混乱も最小限で収まり、二月もすれば、戦女神の不在による不安の声は聞かれなくなっていた。護山会議が護峰侍団の増員と巡察の増加を決め、四大天侍が徹底的に巡回するようになったこともあるだろうし、護山会議の運営がまともだからだろう。戦女神の不在を補うべく、だれもが必死だった。だれもが必死にリョハンの常態を維持しようとしていた。
だれもがリョハンを愛していた。
それは、いい。
そのことは不安とは無関係だ。
戦女神ファリア=バルディッシュが天寿を全うし、リョハンの精神的支柱が失われたことは、彼女にとっても大きな出来事だった。わかっていたことだし、覚悟していたことでもあるのだが、それでもとてつもなく悲しかった。心に大きな穴が空いたような感覚は、しばらく彼女の思考を異常なものにしたほどだった。それは彼女をよく知るひとほど混乱させるものであり、彼女自身、自分がなにものなのかを見失いかけていた。
それほどまでにファリア=バルディッシュの存在は大きかった。
戦女神は、彼女が物心ついたときには既にリョハンのすべてだったのだ。リョハンという天地を支える柱。リョハンという狭い世界のまさに女神そのものだった。
戦女神に後継者は立てられなかった。
それがファリア=バルディッシュの意思であり、護山会議の決定だったからだ。
ファリア=バルディッシュは、いった。
これからは人の世だ、と。
女神に縋る時代は終わったのだ、と。
彼女が自分を取り戻せたのは、ファリア=バルディッシュの言葉を思い出すのとともに四大天侍としての自覚があったからだ。
それから半年余り、彼女は四大天侍のひとりとして出来る限りのことをしてきたつもりだ。女神という支柱を失い、不安を抱くリョハンの人々の心を安んじるため、強い四大天侍を演じ続けてきた。リョハン最高峰の武装召喚師としての実力を余すところなく見せつけることで、不安を一掃してきたつもりだ。実際、効果はあっただろう。
四大天侍の頑張りが、リョハンの住民の心から不安を消し去るのに一役も二役も買ったのは間違いない。
それは護山会議も認めるところだ。
その点は、安心しても良かった。
女神の不在を補っていけるという自信にもなった。
これからは、自分たちがリョハンを支えるのだ、と四大天侍の同僚たちで確認しあいもした。励ましあい、誓いあった。
不安など、どこにもなかった。
明るい未来が待っていると信じていた。
それなのに、彼女はいま、どうしようもない不安の中にいた。
螺旋を描く空を征くものたちがある。大陸有数の峻険たるリョフ山の遥か上空を飛翔するのは、猛禽類などではない。万物の霊長ともいわれ、この大陸に生息する生物の中で最強の種族ともいわれるものたち。ドラゴンだ。中でも飛竜種、ワイバーンと呼ばれる種類のドラゴンたちがリョハンの遥か頭上を飛ぶ様が、ここ数日、確認されるようになっていた。
そんなこと、この数十年なかったことだ。
少なくとも武装召喚師による警戒態勢が敷かれるようになってからは記録されておらず、異常事態といってもよかった。
「やっぱり、南下しているね」
マリク=マジクが、いった。
四大天侍のひとりであり、彼女の同僚である少年は、召喚武装エレメンタルセブンを展開していた。色とりどり様々な形状の剣が七本、彼の周囲を旋回している。彼は、控えめにいって天才といっていい武装召喚師だ。彼のような若さで、彼ほどに武装召喚術を使いこなせるものはいなかったし、七つの召喚武装を同時に召喚するなど、人間業ではない。ファリア=バルディッシュですら不可能だという事実は、彼がいかに規格外の存在であるか
「ドラゴンの大移動か。めずらしいことがこうも立て続けに起きるとはね」
「四月にも、あったわよね」
「あれは女皇の眷属だった。緑衣の女皇ラグナシア=エルム・ドラースの眷属が、女皇の呼び声に応えたんだ。きっとセツナに窮地でも訪れたんだろう」
ラグナシア=エルム・ドラース。ファリア・ベルファリア=アスラリアが好意を抱く少年であり、ガンディアの英雄と呼ばれる人物セツナ=カミヤが側に置いているという小飛竜の名前だ。彼女は、ファリアとマリクの話でしか知らないし、マリクもそのときは、その小飛竜が竜王と呼ばれる存在だということは明かさなかったが。
「セツナ君、無事だといいのだけれど」
「無事だと想う」
「うん」
うなずくほか、ない。
小国家群の情報がリョハンに届くのは極めて遅い。リョハンに届くガンディアの情報というのは、半年ほど遅れていることが多かった。最近聞いた話では、ガンディアがマルディアの救援に動いたというものだ。それと四月の飛竜の動きがどう関係しているのか、まったく想像がつかない。
「今回のは、狂王の眷属だよ」
「狂王……」
「ラムレス=サイファ・ドラース。聞いたことはあるよね。クオン=カミヤの配下になったドラゴンの話」
「ええ」
知らないわけがなかった。
ラムレス=サイファ・ドラースは、その狂暴ぶりからヴァシュタリア共同体の勢力圏でもっとも恐れられたドラゴンだった。何万の皇魔を滅ぼし、眷属であるドラゴンたちすらも屠ったという伝説は、彼をして竜神といわしめるほどのものだった。その竜神がヴァシュタラ教会神殿騎士団長クオン=カミヤの下についたというのは、有名かつ衝撃的な話だ。
それは、ヴァシュタリア勢力圏内におけるクオン=カミヤの名声を高めるとともに教会の権威をさらに圧倒的なものとした。ドラゴンをも教化させた、という話として伝わっているからだ。事実がどうあれ、クオンの下についたというのであれば、そう考えるのが自然だろう。教会に従うクオンに従うということは、そういうことだ。
「狂王の眷属が勝手に動くとは考えにくい。狂王に逆らえば、また滅ぼされるだけだからね」
「その狂王も、勝手に動くわけないわよね? クオンの下についているっていうんなら」
「うん。クオンの意志――つまり、ヴァシュタリアの意志が働いているとみていい」
クオンがヴァシュタラの神子として教会に君臨しているという話が、リョハンにまで伝わってきている。つまり、クオンの意志とはヴァシュタリアの意志だということだ。
「ヴァシュタリアが動いているってこと……」
「それも、とてつもなく大きな動きだよ。狂王の眷属を動かすくらいなんだ。それがなにを意味するのかわからないヴァシュタリアじゃないだろうし」
「なにを意味するっていうの?」
ニュウは、マリク=マジクの言動に不安を覚えていた。彼は、まるで何もかも知っているような口振りでいうのだ。彼は、子供ではない。立派な大人だ。年齢的には子供といって差し支えなくとも、その立場、役割は大人のそれと変わらない。四大天侍のひとりとしての責任を果たすことに懸命になっている。それが彼だ。しかし、実際の年齢はまだ十代後半に差し掛かったばかりであり、そんな彼がニュウも知らないようなことをその目で見てその耳で聞いてきたかのようにいうのは、不可解だった。だが、彼が嘘や冗談でそんなことをいう人間ではないことくらい、ニュウは知っている。彼は、いつだって本音で生きている。だから敵を作りやすいし、嫌われやすくもある。一方、ニュウのように一度惚れてしまうと、とことん好きになってしまうという面もあるのだが。
そんな彼への想いが、彼女の胸の裡で震えていた。漠然とした不安が次第に大きくなっていくのがわかる。そして、それを止めることができないということも理解している。
マリクは、ニュウを見てなどいない。ずっと遠く――どこか遥か彼方を見渡しているようだった。
「眷属が動くということは、その王も動くということ。その王の行動次第によっては、別の王も動かざるを得なくなる」
「ラグナシアの眷属のときは、そんなこといわなかったじゃない」
「ラグナシアが動かした眷属が少数だったからだよ。あれだけなら、大したことにはならない。少なくとも、他の王が動く必要性が出てくるほどのことじゃない」
「狂王の眷属はその比じゃないってこと?」
「そういうこと。今日だけでラグナシアの眷属の数を超えているもの。今日までと合わせれば軽く十倍はいるんじゃないかな」
「そんなに……?」
「それだけ動かせば、もう一柱の竜王が黙ってはいないだろう。銀衣の霊王ラングウィン=シルフェ・ドラースがね」
「黙ってはいないって……どうなるの?」
「ラングウィンは、温厚なドラゴンだ。自由奔放なラグナシア、破壊主義者のラムレスに比べると、人間に対しては優しい。けれど、同じ三界の竜王が暴れだしたとなれば、それを沈静させるために武力行使も厭わないのがラングウィンなんだ。ラングウィンまで動き出せば、ヴァシュタリアはただではすまなくなるだろうね」
「それなのに、動かした……」
「つまり、ヴァシュタリアは、ラングウィンをも懐柔してしまったのかもしれない」
「そんなことありえるの?」
ニュウは、マリクの推測に驚くしかなかったし、信じたくなかった。
「ありえないことじゃない。狂王を支配下に置いたんだ。ラングウィンとなんらかの取引を交わした可能性は十分にある」
でなければヴァシュタリアがラムレスの眷属を総動員することなど考えにくい、と彼は付け足した。三界の竜王と呼ばれるドラゴンの中で、最大の勢力を誇るのがラングウィンなのだという。ラングウィンは、その温厚さと慈悲深さから数え切れないほどの眷属を抱えており、それら眷属は、ラングウィンのためならば命を捨てることも厭わないほどに忠誠心が高いらしい。なぜマリクがそんなことを知っているのか、というニュウの問には、彼は答えてくれなかった。はぐらかそうともしない。
彼は、嘘をつくのが苦手なのだ。特に、好意を抱く相手には。だから、いわない。いえば、本当のことをいってしまうから。
ニュウには、マリクのそういう思考法がわかるから、不安が増幅するのだ。彼がなにを隠していて、なにを話したがらないのか。彼が秘密にしていることがわかるとき。それは、彼との別離を意味するのではないか。
ニュウにとってマリクは、いまや掛け替えのない存在になっている。
「狂王の眷属は、南下している。おそらくは小国家群に向かっているんだろうね」
「小国家群に……」
反芻して、呆然とする。
「この数百年、大陸は沈黙に包まれていた。三大勢力による均衡が保たれ、一見すると、平穏に満ちた世界が構築されていた。でもそれは、いずれかの勢力が動き出せば途端に崩壊する危うさの上に成り立っていたもの。恒久的に続くと約束されたものでもなかった。三大勢力の間で条約が結ばれていたわけもないしね」
「でも、この数百年、どの国も動かなかったわ」
「だからって、永遠に動かないとは限らないだろう?」
「……それは、そうだけど」
「戦力が整ったんだろう。他の勢力を出し抜き、小国家群を制圧するに足る戦力が」
マリクの目がニュウを見た。その瞳に自分が映り込んでいることが確認できたことに、ほっとする。
「そして、リョハンをも制圧するための戦力が」
「リョハンを?」
「それはそうだろう。小国家群を制圧する気でいるのに、リョハンだけを放置し続けるわけがない。ヴァシュタリアだって、知っているさ。ファリアが死んで、リョハンの根幹がぼろぼろだっていうことくらい。実際、付け入る隙はいくらでもある」
「マリク……」
「いまヴァシュタリアから攻撃を受けてみなよ。リョハンなんてあっという間に落ちるさ。どれだけ君らが頑張っても、リョハンのひとたちは我先にと下山するに決まっている。戦いに巻き込まれて命を落とすなんてだれだって嫌だろう。ファリアがいなくなったんだ。だれもが魂の寄る辺とした女神がね」
マリクがまくし立ててきた言葉に対し、彼女は返す言葉を持たなかった。彼が辛辣な言葉を紡ぎながらも、自分自身をも傷つけていることを知っているからだ。みずからへの嘲笑とも侮蔑とも取れる声音が含まれていた。
「別に君や護山会議の頑張りを否定するわけじゃない。ぼくだって、できることはしてきたつもりだ。それでも、限界がある。ぼくらには、女神の代わりは務まらない。仕方のないことだ。積み上げてきたものが違う。ファリアは、何十年も女神をやっていたんだ。その女神が死んでしまった。代わりはいない。ぼくらには、ファリアほどの実績も信頼もない。これから積み上げていかなくちゃならないんだ。積み上げきるまで、ヴァシュタリアが待ってくれるわけもない。ヴァシュタリアにとってリョハンほど邪魔なものはない。小国家群侵攻のついでに滅ぼすつもりさ」
「そんな……」
ニュウが驚いていると、彼はさらに衝撃的なことを告げてきた。
「実際、ラムレスの眷属のうち、数百がリョハンの周辺に待機しているんだ。ヴァシュタリアが攻撃命令を下せば、いつでも攻撃できるように、だろうね」
「嘘でしょ……!?」
「こんな嘘をついてどうなるのさ。君を傷つけることなんて、ぼくがするとでも?」
「……ううん」
「でしょ。本当のことだよ。本当に、ヴァシュタリアはリョハンを滅ぼすつもりなんだ。その上で小国家群のいくらかを制圧する気でいる。大陸最大の勢力となり、覇を唱える気でいるのかもしれない。あるいは、五百年前をやり直す気か」
「五百年前?」
「でも、だいじょうぶ」
不意に手を握られて、はっとする。マリクの手が、ニュウの手を握りしめていた。強く、優しく。綺麗な手だった。よく意味もなく眺めては弄び、彼に苦笑されたことを思い出す。
握り返す。
ただそれだけのことで、さっきまで胸のうちに渦巻いていた不安が吹き飛んだ。
「ぼくが、そんなことはさせないさ。ファリアと約束したんだ。ぼくがこのリョハンを守るって。リョハンに生きるすべてのひとたちを護ってみせるって、誓ったんだ」
「マリク?」
「ファリアにもらったもの、返すときがきたんだよ。ニュウ」
彼が彼女の手を離した。
「そのためにぼくは再び、肉体を捨てよう。君に触れることもできなくなるのは悲しいけれど、そうしなければ君を守ることもできないから」
「なにを……」
いっているのか。
彼女が問おうとしたとき、少年の目は金色に輝き、光が彼女の網膜を塗り潰した。
なにが起きたのかわからないまま、彼女は大切なひとを失ったことだけを理解して、涙した。




