第千五百九十二話 彼女の告白
「そういえば、もうひとつ、聞いていますか?」
「今度はなんだ?」
「セツナ様が交渉のための使者に選ばれたという話」
「俺が?」
セツナは、きょとんとした。
「ベノアガルドから直々の御指名だそうです」
「ベノアガルドと……交渉」
「小国家群統一を目指す上で最大の障害となるのがベノアガルドだということは、セツナ様もよくご存知でしょう? 陛下は、セツナ様の報告を元に、ベノアガルドと友好的な関係を結ぶべきだと判断されたんですよ」
「……それは、理解できる」
ベノアガルドの騎士団――中でも十三騎士は、人間とは比べ物にならない力を秘めている。神の加護を得ているのだ。その力は黒き矛でもっても打ち破れず、セツナは容易く敗れ去った。フェイルリング・ザン=クリュースの真躯は、セツナを打ち破ったシドの真躯の比ではなく、騎士団が本気を出せば、ガンディアなどひとたまりもないかもしれないのだ。
もっとも、十三騎士にも欠点はある。救世神ミヴューラの影響下にない地域では力を発揮できないようなのだ。真躯はおろか、あの不可思議な力を駆使することもできないかもしれない。つまるとこと、ベノアガルドがガンディア全土を滅ぼすことはいまのところ不可能に近いということであり、その点では安心していいということだ。
もちろん、ミヴューラの影響が広がれば、その限りではない。
騎士団の名声が高まれば高まるほど、その影響範囲は広がっていくという。
騎士団の目的は、ミヴューラの影響範囲を拡大することだ。それによってミヴューラの力を高め、来るべき破滅を防ぐ――それが騎士団の行動理念である、救済に繋がっている。私利私欲とは無縁の救済行動こそ、騎士団の名声を高める最大最高の行いだと彼らは信じているのだ。
そんなベノアガルドだからこそ、小国家群統一の最大の障害となる可能性がある。
騎士団は利害を無視して行動する。
ガンディアに攻め込まれた国からの救いの声に応じ、敵対する可能性は決して低くはないのだ。そうなれば、ガンディアは地獄のような戦いを強いられることになる。いまのセツナと黒き矛ですらまともに戦えるのかどうかわからないような連中なのだ。
そんな国と敵対関係を続けるよりは、味方につけるほうが遥かに賢い。
「それで、俺か」
エインは、ベノアガルドが指名した、といった。ベノアガルド側がなぜ自分を指名したのか、少しわかる気がする。因縁がある。それを解消しなければ、交渉には応じられないということではなかろうか。
「セツナ様の心中、お察しいたしますが」
彼は、ベノアでラグナを失ったことをいっているのだろうが。
「……陛下の夢のためだ。行くさ」
セツナは、そういって、話を終わらせた。
ラグナが死んだのは、騎士団だけのせいではない。
セツナの弱さ、愚かさが最大の要因なのだ。
そして、ラグナに生かされた命、決して無駄にすることはできない。
そのためには、ベノアガルドとの交渉にだって赴くしかない。
「軍師様は帰ったみたいね」
ファリアが話しかけてきたのは、エインが去り、隊舎に静けさが戻ってからのことだ。
隊舎の屋上。満天の星空が頭上に広がり、夏の夜風が生ぬるい空気を運んでいる。屋上から落ちないようにと設けられた柵に上体を預けるようにして、彼は夜の群臣街を眺めていた。街路に立ち並ぶ魔晶灯の光が夜の町並みを浮かび上がらせ、巡回中の警備隊員の姿が見えたりした。出歩いているひとの姿などあるはずもない。夜中だ。
「うん」
うなずいて、振り返る。
ファリアは、ゆっくりとこちらに近づいてきていた。月明かりが彼女の全身を闇の中に浮かび上がらせていて、とても綺麗だった。幻想的とさえ、いっていい。
「結婚の……話?」
「うん」
「応じるの、よね?」
「……うん」
うなずくしかなかった。
応じるしかないのだ。断る理由も、意味もない。王命なのだ。拒否権などあろうはずもない。そしてそれがレオンガンドの夢の一助となるのなら、喜んで応じるほかなかった。
「そう、よね……」
「陛下直々の命令だから」
「わかってる」
ファリアはセツナの隣に辿り着くと、さっきまでセツナがしていたように柵に上体を預けた。天を仰ぎ、溜息を浮かべるように、いってくる。
「君も、大変よね」
「ん?」
「本当、大変な人生……」
「……ああ」
「見知らぬ世界に紛れ込んで、生きるために必死に戦って、戦って、戦い続けて……得られるものもたくさんあっただろうけれど、結婚まで決められて。だいじょうぶ?」
「……だいじょうぶだよ。俺は」
「それなら、いいのだけれど……」
そうはいったものの、納得していないような、そんな口振りだったことがセツナには気がかりだった。政略結婚が突きつけられて以来、セツナの周囲には微妙な空気が流れている。ファリアだけではない。荒れ放題に荒れたミリュウを筆頭に、シーラとの間にも変な空気が横たわり、セツナはどうすればいいのかわからなかった。
だから、というわけではないが、話題を切り出す。
「ミリュウの様子は、どうだ?」
「ちゃんと眠っているわよ。エリナが心配していたけれど、たぶん、だいじょうぶでしょう。明日になったらどうなるかわからないけど、いまだけは」
「……そっか」
明日、目が醒めればまた荒れるかもしれない。
最近のミリュウは、精神状態が安定しているようには思えないのだ。普段は、そう心配する必要はない。しかし、なにか事件が起こると、途端に彼女の精神の均衡が崩れ、でたらめになった。
「ミリュウがあそこまで荒れるなんてね」
「……うん」
「でも、わからないではないのよ。ミリュウの気持ち。わたしだって、動揺を抑えるのに必死だったし」
ファリアからの突然の告白に、セツナは驚き、彼女を見た。ファリアは、夜の街に視線を移していた。遠くを見る目は、なにを見ているのか。
「ファリアも?」
「そりゃあそうでしょ。だって、君が結婚しなければならなくなるだなんて、考えたこともなかったもの。まさか政略結婚だなんて、さ」
ため息混じりの言葉が、胸に刺さる。
「仕方ないわよね。大国のお姫様と釣り合いの取れる相手なんて、そういるものじゃないし。相手がセツナを指名しているというのなら、それに従うしかないだろうし……でも、結構、辛いかも」
「辛い?」
「うん。辛い……かな」
ファリアがそのような弱音を吐くのはめずらしいことであり、セツナの心にのしかかる。
「なんだか、君が遠くにいってしまう気がして」
「……俺は、ここにいるよ」
「わかってる。わかってるわ。そんなこと。君はどこにもいかない。側に居てくれる。たとえ結婚しても、いままでと変わらないでいてくれるに決まっている。だって、君だもの。君は、優しいものね」
「ファリア……」
「でも、それでもさ……ううん、なんていったらいいのかしら」
ファリアが言葉の選択に迷うのもまた、めずらしいことであり、セツナには彼女が混乱している様子が伝わってくるようだった。混乱もするだろう。降ってわいたような話だ。そしてそれは、決定事項であり、回避する方法がない。
「ごめんね。心の整理がつかなくて」
「……いや、気にしてないよ」
「本当、ごめん」
「ううん」
そう応えるしかなくて、セツナは自分を情けなく想った。もっと甲斐性のある人間なら、気の利いた言葉のひとつくらいかけられるのだろうが、残念ながら、自分にはそういう才能はない。
「結婚……早くとも半年先になるって」
「半年も?」
「エトセアと調整することがあるんだと」
「調整……ねえ。だったら、半年で済みそうにもないけど」
エトセアは、小国家群北西端に位置する国だ。調整のために使者が行き来するだけでも大変な時間がかかるのは当然であり、それが一度で済まないとなれば半年どころか一年以上の時間がかかったとしてもなんら不思議ではなかった。それはたとえエトセアが領土広げたとしても、ガンディアがエトセア方面に勢力を伸ばしたとしても同じことだ。エトセアとガンディア、それぞれの首都の位置が近づくわけではない。
「それまでは独身だから気楽だろうって、エインがさ」
「どう?」
「あんまり、変わらないと想う」
「でしょうね。でも、ミリュウは安心するんじゃないかな」
「そうかな」
「彼女が荒れたのは、セツナが他人に取られると想ったからでしょうし、それが先延ばしになるってことがわかるだけでも違うと想うわ」
ファリアのいうとおりになるのかどうかはともかく、少しくらいは落ち着くかもしれないとは思える。
「でも、婚約するってことよね?」
「そうなると想う」
「……そう、よね」
ファリアの囁きがセツナの耳に強く響くのは、静寂が横たわっているからだ。夜中。沈黙に近い静けさが群臣街を包み込んでいる。彼女が柵から体を離す様を見て、セツナもそれに習った。
「わたし、気づいてたのよね」
「ん……?」
ファリアは、空を仰いでいた。満天の星々がキラキラと輝き、膨大な星明かりが降り注ぐ。透き通った光は、大気が汚染されていないことの証明なのだろうし、その美しさは筆舌に尽くしがたい。星々の光を浴びるファリアの姿もまた、同じように綺麗で、幻想的ですらある。
「自分の気持ち。ずっと、わかってた。見てみないふりをしてきたわけでもないわ。ただ、大切にしていただけなのよ」
「ファリア?」
彼女の、緑柱玉のように美しい瞳がセツナを見ていた。意を決したように、いってくる。
「君が、好き」
どきり、とする間もなかった。
ファリアがセツナの胸に飛び込んできたからだ。
「君が好きなのよ。君のことが。どうしようもなく好きなの。ずっと前から、好きだったのよ。君は気づいてなかったかもしれないけど、ずっと想ってた。だから、君が結婚するって決まってから、苦しくて、切なくて、辛くて……」
「ファリア……」
怒涛のような告白に感情が追いつかないまま、彼は、彼女を抱きしめた。ファリアの体温を感じ、感情を受け止め、想いを抱く。ようやく理解したときには、自分の心音が聞こえるのではないかと想うほどの感情の昂りがあった。それは歓喜だ。嬉しいというほかなかった。これほどの喜びは、そうあるものではないだろう。生きていて良かったと心の底から思えるくらいのものだ。
そのうえで、セツナはファリアに向かって、告げた。
「知っていたよ。気づいてた」
「えっ……」
「そりゃあ、そうだろう? ファリアってとてもわかりやすいからさ。俺に好意を寄せてくれていることくらい、わかるさ。俺、こう見えても結構敏感なんだぜ」
「……セツナ」
ファリアが、顔を上げる。潤んだ目が月の光を跳ね返し、きらきらと輝いていた。紅潮した顔は、思いを告げるために勇気が必要だったことを伝えてくる。それはそうだろう。彼女ほど自分を律することを強いられた女性が、理性を打ち破るのは簡単なことではない。
だから、というわけではない。
「俺も、好きだよ」
セツナも己の想いを伝えることで、彼女の想いに応えた。
夏の夜、生暖かい風の中で、抱きしめ合ったふたりは、ただ唇を重ねた。




