第千五百九十一話 不安を抱きながら
セツナがエリルアルムを妻に迎えることになるという話は、その日のうちに王都中に広がった。
同時にエリルアルム・ザナール・ラーズ=バレルウォルンという人物がどういう人間で、どういう略歴の持ち主なのかも取り沙汰され、王都市民の知ることとなった。
エトセア現国王ラムルダルカ・レイ=エトセアの第二子であり、第二王位継承者である彼女は、幼少の頃から武勇に秀で、十代の頃には部隊を率いて前線に出て活躍する、まさに武人というべき人物として知られているらしい。エトセアの国土拡大に大いに貢献しており、自前の戦力である銀蒼天馬騎士団を率いる様から騎士公の称号を授けられた。バレルウォルンの領伯に任じられたのもそのころであり、エトセアでは黒王子ナルガダルカ・レウス=エトセアと国を二分にするほどの人望があるという。
北西の大国エトセアの英雄ともいうべき人物像が広まると、エリルアルムとセツナの結婚を歓迎する声が聞かれるようになり、セツナの耳にもそういった声が届くようになった。おそらく、エリルアルムの人物像を流布したのは、ガンディア政府であり、情報部を総動員したに違いないというのがエイン=ラジャールの推測だった。
セツナはガンディアの英雄だ。ガンディア躍進の立役者であり、ガンディアに無くてはならない人材なのだ。そんな人物をどこの馬の骨ともわからぬ相手と結婚させるようでは、ガンディア政府の信頼が地に落ちるかもしれない、とエインはいうのだ。エリルアルムはエトセアの王女という立派な肩書があるものの、それだけでは納得しないものもいるかもしれない。だからガンディア政府は、彼女の人物像を吹聴し、ふたりの結婚の追い風としたのではないか。
「そこまでするんだ」
「クガ殿の話によれば、エリルアルム様とセツナ様の政略結婚は、ガンディアとの同盟関係を重視するだけでなく、エトセア国内を安定させるための方策だということですよ」
エインがセツナにそっと教えてくれたのは、八月八日の夜のことだった。
レオンガンドから直接、政略結婚の話を伝えられたあと、控室は大騒ぎになった。ミリュウは荒れ、シーラも荒れた、ファリアは落ち着いているように見えたが、内心、穏やかではなかったようだ。レムはファリアたちのことを気遣い、マリアも困惑気味だった。セツナの結婚を祝ってくれたのは、エリナくらいのものだ。
後に控室に姿を見せたルウファたちも、事の成り行きを知って大いに驚いていた。
当然だろう。
自分たちの結婚式のその日に、セツナの結婚が決まるなど、だれが想像できようか。
「エトセアの安定のための政略結婚ってことか」
ふたりはいま、《獅子の尾》隊舎にいた。
王宮内の一室でレオンガンドから政略結婚の話を聞いたセツナは、荒れるミリュウをなんとかして外に連れ出したのだが、そのときの騒ぎたるや、結婚式に参加したひとたちの注目を集めるほどのものだった。ミリュウが落ち着いたのは、つい一時間ほど前のことで、それまで荒れっぱなしだった。
エインが隊舎を尋ねてきたのは、そんな頃合いだった。政略結婚に関する補足のためだと、軍師はいった。
「状況としては、アバードと似ているようです」
「アバードと?」
「はい。ナルガダルカ王子派とエリムアルム王女派で、後継者争いが起きかけているのだとか。アバードと明確な違いがあるとすれば、ナルガダルカ王子自身かなりの切れ者で、優秀な人材だということ。エトセアの国土拡大は王子と王女、ふたりがいなければ成し遂げられなかったことなのだとクガさんがいっていました」
「うん? じゃあ、王子が王位を継げばいい話じゃないのか?」
セツナの疑問に、エインの目が冷ややかに光った。
「それだけで済むなら、そうしているでしょう。権力とは、ときにままならぬもの。様々な思惑が絡み合い、錯綜し、しがらみが意思を持った怪物となって暴れまわる。そうなれば本人の意思でも止めようがなくなる。アバードの内乱が起こったのは、シーラさんの意思ではないことはセツナ様もご存知でしょう」
「ああ」
苦い思いとともに肯定する。
シーラ派による内乱は、シーラが起こしたくて起きたものではなかった。シーラの意思とはまったく無縁の、周囲の人間たちの暴走といってよく、そればかりはシーラにはどうすることもできなかっただろう。シーラが王女を辞めようともシーラ派の連中は暴走しただろうし、内乱を止めるには、彼女がみずから命を断つ以外の道はなかったに違いない。その後の動乱も、そうだ。彼女の意思とは無関係に複雑化し、ガンディアの介入を招いた。
「クガ殿は、エトセアがそのような事態に陥ることをラムルダルカ王御自ら危惧され、エリルアルム様を他国に嫁がせることで解決されようとしていた、といっていましたから。ガンディアとしても、これを受けない訳にはいかない。エトセアの安定は、同盟の維持に不可欠です。同盟したはいいものの、肝心の同盟相手が内乱で崩壊しては意味がない」
「それは……わかる。でも、俺である必要がないだろ」
「相手からのご指名ですから」
「う……」
そういわれれば、反論のしようもない。
「もちろん、こちらとしてもセツナ様は切り札ですから、安易に応じたくはない。しかしながら、エリルアルム様の格を考えると、見合う人物がほかにはいないんですよね。リノンクレア様が男であったとしても、再婚相手ではエトセア側が嫌がるでしょうし。ジルヴェール殿は、ガンディア王家に連なるだけであって、エリルアルム様には不釣り合い。となれば、セツナ様以外にはいないんですよ」
エインの理路整然とした説明には、異論を挟む余地はなかった。
「ガンディアのため、陛下の夢のため、ここは受け入れてもらう他ありません」
「……陛下の夢のため、だもんな」
反芻してから、はっとする。自分の反応がまるで否定的なものに受け取られているのではないかと気になったのだ。
「いや、別にさ、嫌だなんて一言もいってないぞ。陛下が決められたことには従うさ。それが俺だからな」
言い訳をしたのは、エインからレオンガンドにセツナの反応が筒抜けになるだろうことを考慮してのことだ。レオンガンドに余計な疑いを持たれたくはなかった。レオンガンドのことだ。信頼してくれてはいるだろうが、こと政治に関することになると、発言も慎重に行わなければなるまい。
「ただ、さ――」
「わかりますよ。ファリアさんやミリュウさん、シーラさんにレムさんまで、セツナ様の周りには魅力的な方々がおられますし、皆さんがセツナ様に好意を寄せていることくらい、俺にだってわかりますから」
「ミリュウが特にな」
「どうされたんです?」
「荒れてるんだ」
つい一時間ほど前までのことを思い出して、息を吐く。
「俺がファリアと結婚するならともかく、見ず知らずの女と政略結婚だなんて信じられない、許せない、ってな」
「まあ、そうなりますよね。ミリュウさんなら」
「なだめようにも、どうにもならないんだ。最近、情緒不安定なところもあるからな」
「情緒不安定って……ミリュウさん、だいじょうぶなんですか?」
「だいじょうぶじゃないから、不安なんだろ」
セツナが精一杯なだめても泣き疲れるまで嵐のように荒れ狂っていたミリュウの様子には、不安が増大するばかりだった。感情を制御することができなくなってきているのではないか。リヴァイアの“知”の影響が、顕在化してきているのではないか。ミリュウから聞いた症状の断片から、そのようなことばかり考えてしまう。
本当に、情報の洪水に飲み込まれ、我を忘れた怪物に成り果ててしまうのではないか。
そうなったとき、自分は彼女の願いを聞き届けることができるのか。
できるわけがない。
できるわけがないからこそ、解決策が見つかるまではそうなってくれるなと願うしかない。
シーラやファリアは、そんなミリュウの暴走によって冷静さを取り戻したようだが、彼女たちも他人事ではなさそうな雰囲気を漂わせていた。
政略結婚の話は、サントレアでひとり殿軍を務めるよりもずっと大きな影響が彼の周囲にあった。それは戦時と平時の違い、というものなのかもしれない。戦時ならばどのような衝撃的なことが起きたとしても受け入れなければならず、飲み下さなければならないものだが、平時となると話は別だ。
衝撃は衝撃のまま残り続け、幾重にも反響しながら拡散する。
「俺にできることがあればいいんですが」
「聖皇の呪いを除去する手段でもあればいいんだがな……」
そもそも聖皇の呪いなどというものが、世界的に知られているわけもない。聖皇に呪われたものの記憶にのみ存在する情報であり、ミリュウから知らされなければ知ることもなかったようなことだ。それが本質的にどのようなものなのかもわかっていないのだ。
解決策など、本当にあるのかどうか。
殺すしかない、などとは考えたくもなかった。
「情報部、参謀局を動員して文献を当たってみますが、あまり期待はしないでくださいね。聖皇の呪いなんて、ミリュウさんとグリフの例以外、聞いたこともないんですから」
「ああ……ありがとう」
「いえいえ。セツナ様にはこちらからも無理をいっているんですから、これくらいは当然ですよ」
エインは、そういって目を伏せるようにした。彼としても、想うところがあるのだろう。彼は、自他ともに認めるセツナ信者であり、狂信的ですらある。そんな彼だからこそ、セツナのことを第一に考えてくれているのだ。それでも、ガンディアのためを思えば、政略結婚を推し進めるしかなく、セツナに無理強いすることを心苦しく想っているのだとしても、なんら不思議ではない。
「結婚……か」
セツナは、目の前に迫った現実に呆然とするほかなかった。これまで、何度となく考えさせられたことではある。一部では、アバードの王女シーラとセツナの結婚話が持ち上がったという噂があったり、レオンガンドやナーレスたちがセツナに早く結婚するようにと暗にいってくることもあった。セツナの立場としては、若いからといって結婚しないわけにはいかないのだ。領伯であり、国の要人といってもいい。家を持ち、血を繋いでいくのは責務といってもよかった。
いずれは、結婚しなければならない。
そんなことはわかっていたし、想像することもないではなかった。しかし、できるだけ考えまいとしていたし、目前の任務に追われる日々を過ごしてもいたのだ。
「ちなみに、ですが」
「ん?」
「セツナ様とエリルアルム様の御結婚は、いますぐというわけではないです」
「どういうことだ?」
セツナは、エインがいってきた言葉の意味が理解できず、きょとんとした。政略結婚とそれに付随する様々な問題のことで頭がいっぱいになっていた。
「何分、相手のあることですし、エリルアルム様は、エトセアの王女殿下でもあるわけでして、結婚式や結婚後のことについて色々と調整が必要なんですよね。そうですね……早くても半年後くらいにはなるでしょうね」
「半年先……か」
「つまり、婚約、ということですよ。今回のは」
エインが片目を瞑って笑いかけてきてくれたものの、今回ばかりはその笑顔も小憎たらしく思えて仕方がなかった。
「結局は、同じだろう?」
「ですが、まだ独身です」
「……それがどうしたってんだ」
「多少は、気分も違うかと思いまして」
「特には変わらねえよ」
「それは失礼をば」
エインの気遣いには素直に感謝するものの、いまはそういう気分になれず、セツナは、彼を睨んでしまったことを即座に後悔した。




