第百五十八話 湿原を進め
西進軍がバハンダールを目前にして二軍に別れたのは、十五日未明のことだ。
右眼将軍アスタル=ラナディース率いる第二・第三軍団はバハンダールの東側へ向かい、グラード=クライドの第一軍団(通称グラード隊)は南側に展開するために軍を急がせた。
日が高くなるころ、バハンダールの丘を囲む湿原地帯が見えてきた。まばゆいばかりの青空の下、広大な湿原が横たわっている。空の鏡となった無数の水たまりと、青々とした草叢。地面はぬかるみ、足を踏み入れことすら躊躇うほどだ。いかにも進軍が困難な地形であり、エイン=ラジャールのいっていた自然の要害というのも頷ける。
バハンダールから南へと伸びる街道は横幅が狭く、頼りのない代物だった。歩兵ならば三列、騎馬兵ならば二列になって進めるだろうが、その程度の数で先行し、バハンダールにまで到達したところで太刀打ち出来ないのは目に見えている。かといって、全軍で街道を進むのも、敵軍の的になるだけであり、意味が無い。湿原に陣形を敷き、歩調を合わせて進軍するしかない。
街道には、馬車を走らせることになった。といっても、輸送に用いたすべての馬車と進軍をともにするわけではない。戦闘力のない馬車は後方に待機させており、いつでも戦場から離脱できるように準備させている。バハンダールは陥落させるつもりではあったが、予想外の事態とはいつでも起こるものなのだ。戦闘が継続できなくなれば、撤退するよりほかはない。その場合、中央隊と合流することになるのだろうが。
湿原を走る馬も、足がぬかるみに捕まることが多々あり、転倒するものが続出した。騎馬での進軍を諦める部隊も多く、結局、歩兵中心の布陣となったのは仕方のないことだろう。
バハンダールまでは遥かに遠く、丘の上に聳え立つ城塞都市の輪郭すら定かではない。それほどに広大な湿原を踏破しなければ、城壁に攻撃することすらかなわない。護るには最適であり、攻めるには困難を極める。まさに難攻不落の城塞都市であり、その名に恥じぬ代物だろう。
ファリア=ベルファリアは、そんな湿原をグラード隊と共に進軍していた。彼女は馬から落下して泥まみれになるのを嫌い、最初から下馬している。汚れるのは構わないのだが、戦闘行動に支障をきたすのは歓迎できなかった。ただでさえ走り回るのも困難な地形なのだ。より動き難くなっては、戦闘もままならなくなる。
軍団長のグラードは、馬上の人だった。彼の巧みな馬術は、湿原の泥濘にはまって転倒するようなことはなさそうだったが、かといってバハンダールに急速接近できるというわけでもなさそうだ。速度を出せば、転倒するのは火を見るより明らかだ。
グラード隊は、湿原の足場の悪さと格闘しながらも、バハンダールに急いでいた。《獅子の尾》隊長による奇襲作戦が始まる前に、弓の射程ぎりぎりのところまで接近しなければならない。届くかどうかは、バハンダールの敵兵の行動でわかるはずだ。
エイン軍団長提案の奇襲作戦は、前代未聞ではあっただろう。
バハンダールにセツナ・ゼノン=カミヤを投下し、都市内を一時的に混乱させ、その隙に急接近するというものだ。上手くいけば、不落の城塞都市を比較的楽に制圧できるだろうが、そう簡単にことが運ぶのかは疑問の残るところだ。第一、セツナの投下による混乱がどこまで持続するものかわかったものではない。そして、その混乱が城壁上に展開しているであろう弓兵にまで波及するものかどうか。最悪、弓兵による湿原への射撃の雨は止まないかもしれない。その場合、東側の軍も、南側の軍も接近を諦めるか、多大な犠牲を払いながらでも突貫するしかない。
もっとも、セツナの投下は、なにも敵軍の混乱だけを目的としているわけではない。そのためだけに西進軍の最大攻撃力を敵軍の真っ只中に放り込むわけもないのだ。
黒き矛に期待することといえば、戦果しかない。
全軍が城塞に取り付くまでにセツナが敵軍を殲滅しても構わないし、むしろそうしてくれたほうがありがたい、というのはアスタル将軍のつぶやきだった。それだと手柄はセツナの独り占めになるが、西進軍は一兵も損じることなくバハンダールを手に入れることができるのだ。指揮官としては、部下に手柄を与えたくもあるのだろうが、それよりもバハンダール攻略の損害を減らすほうが優先されるのだろう。
軍議で提示されたとき、ファリアは呆気に取られたが、ほかにいい方法がないというのも間違いなさそうだったので、なにもいわなかった。彼女の頭でも、脳裏に描いたバハンダールへの接近方法など思い浮かばない。高高度から投下されることになったセツナには心底同情したが、彼のいままでの戦績を考えると、それくらいは容易くできそうだと思えるのが恐ろしい。
彼の召喚武装カオスブリンガーの力は、長年武装召喚師をやってきたはずのファリアでも恐ろしいと感じるほどのものだ。圧倒的な破壊力は敵軍を壊滅させ、秘められた様々な力はときに空間をも超えた。凄まじいまでに凶悪で、苛烈なまでに純粋な力。そこには悪意も敵意もなく、ただ純然と破壊と混沌を撒き散らすのだ。
黒き矛カオスブリンガー。
その召喚者は、いま、馬車の中で出番を待っている。あまりに早く出過ぎると、各部隊が配置に付く前に彼の力がつき、思わぬところで作戦が開始してしまいかねない。かといって、バハンダールの敵軍から見える位置から飛び立っては意味がない。警戒され、エインが望むような混乱は起きないかもしれない。それではこの前代未聞の奇襲作戦が台無しになる。
セツナを高空に運ぶ役割のルウファは、既にシルフィードフェザーを召喚し、飛び立つ頃合いを見計らっているはずだ。彼の翼なら、地上の人間が視認できない高度まで飛ぶことができる。
ファリアはグラード隊の中列後方に位置し、グラードの馬を前方に見ながら湿原を進んでいた。オーロラストームはまだ召喚していない。オーロラストームの射程は普通の弓よりも遥かに長く、超長距離の敵を狙撃することも可能ではあったが、湿原から丘の上の城壁に潜む敵兵を射抜くのは簡単なことではない。敵軍の矢が届く距離ならばぎりぎり狙えるかもしれないが、それでも難しくはあった。
街道を進む前方の馬車の荷台から、ルウファとセツナがひょっこりと姿を表した。ふたりは荷台から飛び降りると、即座にファリアを見つけ、手を振ってきた。後続の馬車を停止させてまですることではないと思いつつ、ファリアが手を振り返すと、ルウファの纏う純白のマントがふたつに裂け、一対の翼へと変化した。天使の翼のようなそれを目一杯に広げたルウファの体が空中に浮き上がる。ルウファは、セツナの手を掴むと、待機の状況を確認するかのようにゆっくりと空に上がっていく。翼が羽ばたき、きらめく風が舞い踊る。
セツナは、ルウファに振り落とされないようにしっかりと掴まったようだが、ファリアの目に最後に写った姿は不格好以外のなにものでもなかった。かといって、ルウファに抱き抱えられるセツナの姿は想像したくもない。
《獅子の尾》の隊長と副長の姿は、あっという間にファリアの視界から消えた。青空の中、影すら見当たらなくなる。これならば、敵軍に感知されることはないだろう。が、その高度から投下して、セツナは無事でいられるのだろうか。いくら黒き矛が強力無比とはいえ、落下の衝撃に耐えることができるのか。普通に考えれば即死だろう。どう足掻いても、死ぬしかない。
だが、黒き矛なら、カオスブリンガーなら、それくらいのことは平然と成し遂げそうなのもまた事実だ。エイン=ラジャールが自信を持つのも理解できる。
ファリアだって、セツナのことは自慢の隊長だと思っている。部隊の隊長としては心許ないと想っていたのだが、彼は部下想いで、ファリアたちのことを常に気にかけてくれていたようだった。雷雨の夜のことを思い出すと、頬が緩みそうになる。戦場。そんなことを考えている場合ではないのだが、直近のセツナとの思い出といえばそれなのだから仕方がない。
雷雨のせいなのか夏らしくない冷気に襲われたあの夜、セツナはルウファとファリアのためだけに毛布を借りてきてくれたのだ。彼自身は必要ないと言い張り、最後まで頑なだった。ファリアもそれ以上はなにもいえなかったのだが、彼の隣で仮眠していると、寒さに負けたのか毛布に潜り込んできたのだ。無意識なのだろう。ファリアはセツナの寝顔を見つめながら、再び仮眠に入ったものだった。
「上手くいくと思いますか?」
「え?」
突然話しかけられて、ファリアは生返事を浮かべてしまった。夢想から現実に戻った時、グラードが馬ごとファリアの隣に移動してきていた。思い出に浸りすぎて、足音にも気づかなかったのだろう。いつものように真紅の甲冑を纏う武人は、ファリアの反応にこそ戸惑ったようだったが。
ファリアは、慌てず騒がず取り乱さず、グラードの問いかけを思い出し、静かに告げた。
「上手くやってもらわないと困ります」
でなければ《獅子の尾》の名が泣く、というのは冗談にせよ、上手くやってもらわないと困るのは事実だ。セツナが着地に失敗して怪我でもしたら大変なことだし、一歩間違えれば死ぬのだ。彼が死んだら、ファリアはどうすればいいのだろう。
(泣けばいいのかしら)
それとも、こんな馬鹿げた作戦を立案したエインを恨むのか。採用したアスタルを怒るのか。ほかに案が思いつかなかった自分を呪うのか。それらすべてを含めて笑うのか――想像するだけで、気が滅入ってくる。こんなことで死ぬようなセツナではないと信じてはいても、黒き矛の実力に裏打ちされた作戦だと理解してはいても、不安は拭い去れない。
失敗はしない。それはわかりきっている。間違いなく投下は成功し、彼は着地するのだ。そして、バハンダールを阿鼻叫喚の地獄に変えてしまうはずだ。黒き矛とはいつだってそうだった。無茶をして、無理を通し、強引に捻じ伏せる。それがガンディアの黒き矛であり、セツナなのだ。
だからこそ、彼の身を案じてしまうのだが。
「それもそうですな」
グラードは呵呵と笑うと、一礼の後、前線に向かっていった。
ファリアは、ドルカのような軟派な人間よりも、グラードのような人物のほうが好感を持てた。無論、ドルガ=フォームのあれが表面的なものなのだろうということは、推測できる。だが、だからといって、毎回毎回辱めを受けているようなものであり、ファリアには到底受け入れられないのだ。副官のニナを口説いていればいい、と思う。
もっとも、ニナを口説いたところで、彼女に怒られるだけなのは間違いなかった。