第千五百八十二話 イシクスへ
イシカの首都イシクスは、イシカ領の北端に近い場所に位置している。
イシカ領とシルビナ領の国境に横たわるイディル山脈によってシルビナからの侵攻はほとんどないこともあり、イシクスが戦火に巻き込まれることがあるとすれば、グランドールとの小競り合いが長引き、グランドールの戦力がイシカ領に攻め入ってきた場合のみであった。シルビナは、峻険な山を越えてまでイシカ領に攻め込んでは来なかったし、ザルワーンとの間にはバドラーンが入っている。そして、ザルワーンがガンディアに支配されてからはますます安全度が増した。イシカは、ガンディアとの関係をそういう意味でも大切にしていたのだ。
しかし、首都イシクスの防衛線とでもいうべきバドラーンは、戦いさえ起きないままイシカ征討軍の手に落ちた。
もはやイシクスは裸同然といってもいい状態であり、征討軍はそんな都市に肉薄しつつあった。
「イシクスの兵力は多く見積もっても三千が限度でしょう。それでも、イシカの国力を鑑みれば、動員しうる兵力の限界を超えていますからね。星弓兵団を手放したのは、間違いなく悪手ですよ」
「弓聖サランを暗殺任務なんかに使ったのもな」
「まったく。暗殺ならば、もっと適任がいたでしょうに」
エインが、イシカの選択を惜しむようにいった。彼はイシカの愚かな振る舞いを糾弾しつつも、もっと上手くやれる方法を考えてもいるらしい。軍師として、どのような選択を取れば良かったのかを考えるのもまた、仕事なのかもしれない。
イシクスを目前に控えた夜のことだった。
空は晴れ、月と星の光が頭上を彩り、野営地の各所で篝火が煌々を燃え上がっている。夏の夜。まったくもって寒くはなかった。無数の天幕が立ち並んでいるのだが、野営地を構築する際のエトセア軍の手際の良さは、セツナたちも開いた口が塞がらないほどだった。遠征に慣れきっている。数ヶ月もの長きに渡る遠征を行うことがあり、野営地の構築に熟練の腕を見せるほどになったのだ、とエリルアリムはいっていた。
エトセア突撃機動軍一万とセツナたち数名による野営地。その中心、本陣に当たる場所にセツナたちはいる。夜空の下、篝火を囲み、イシクスについての話をしていた。夜更けだ。エリナは既に眠っており、彼女の側にはレムが待機している。セツナの身の安全は、セツナ自身で守らなければならないということだ。警戒するべきは、エトセア軍の裏切りではなく、イシカ軍の夜襲でもなく、皇魔の襲撃くらいのものだった。そのため、エトセア軍は武装召喚師を交代で警戒に当たらせている。
「しかし、ガンディアの信頼を買うにはそうするしかなかったのだろう?」
そういって口を挟んできたのは、エリルアリムだ。イシクスも近いということで鎧を着込んだ彼女は、より一層勇壮に見えた。火明かりが彼女の美貌を夜の闇に浮かび上がらせている。
「まあ、そうですね。イシカが大した戦力を提供してくれなければ、多少なりとも疑ったかもしれません」
「多少か」
「まさかジゼルコートが同盟国にまで手を回しているとは想いませんでしたよ。いつの間にって感じでしたし」
「それだけジゼルコートなる人が有能だったということか」
「そう考えてくださると助かります。でなければ我々が無能だったということになりかねませんから」
「ふむ」
「わたしはともかく、ほかの方々を無能と思われるのは心外ですからね」
「しかしジゼルコートには勝ったのだろう。なら問題はあるまい。失態は、取り戻せる」
「それはそうですが」
エインは、エリルアリムの発言に気圧されるような反応を見せた。彼がそのような態度を見せるのは珍しく、セツナは少しばかり驚きを覚えた。アスタル=ラナディース相手でも強気な態度を崩さない彼が押されているのだ。単純に、エリルアリムが苦手なだけ、という可能性もあるが。
「イシクスの兵力だが、我々がイシクスに入ったときは少なく見積もっても二千はいた。武装召喚師もいたようだ。五名。イシカの国力に比べれば十分すぎるほどの数だな」
「アバード・ヴァルターで二名、ヒエルナで一名戦死していますからね。総勢八名。確かに十分過ぎるほどです」
ちなみにヴァルターでは、シーラたちがイシカの軍勢を撃退している。その際、エインが挙げた武装召喚師の撃破もシーラ率いる黒獣隊の戦果であり、戦利品として入手した召喚武装は、残念ながら激しく破損したため使い物にならないということだった。もし使用可能であれば、戦力は大きく向上しただろうが。
エリルアリムが笑いもせずに告げてくる。
「我が突撃戦闘軍は現在二十名の武装召喚師を抱えている」
「はは……並の小国家じゃ太刀打ちできませんね」
「イシカが強気になるわけだ」
セツナは途方もない国もあるものだと思わずにはいられなかった。
エトセアの国土は、ガンディアよりも狭いという。しかし、戦力的には拮抗しているのではないかと考えざるを得ない。エリルアリム率いる突撃戦闘軍は、エトセア軍の一部に過ぎないというのだ。彼女の兄であり第一王位継承者ナルガダルカ・レウス=エトセアは、エトセアのもうひとつの軍団、黒曜機動軍を率いているといい、その兵力も同様の一万なのだという。武装召喚師の数こそ不明ではあるが、仮に同数だとすれば、ガンディアに所属する武装召喚師の総数よりも多いのではないか。だとすれば、戦力の上ではエトセアのほうが強いのではないか。
無論、ガンディアにはセツナ軍、《獅子の尾》があるのだが、それにしても強すぎないか。
そこに“剣聖”トラン=カルギリウスとふたりの弟子が加わっていたというのだから、エトセアが瞬く間に国土を拡大したのもうなずけるというものだが、もちろん、エトセアが最初からそれだけの戦力を有していたはずもない。国土を広げるうちに戦力を拡充していったということだろう。
「まったく、我々の望みも聞かず戦力だけを頼みにするなど、思い違いにも程がある」
「閣下がガンディアとの同盟を急ぎ、イシカを見限ってくださったことには感謝するほかありませんよ。もしイシカが閣下率いる突撃戦闘軍の戦力を背景に我々との交渉を続けていた場合、業を煮やした我々がイシカに攻め込み、エトセアとの関係も悪化した可能性もありますし」
「そこなのだ」
エリルアリムが、強くいった。
「わたしがクガをガンディアに向かわせたのは、そうなる可能性が見えてきたからなのだ。我が主命は、ガンディアとの同盟の締結。そのためであればなにをしてもよいと陛下は仰られた。ガンディアとの同盟こそが至上命題だったのだ。イシカに利用され、ガンディアと敵対するようなことがあれば、陛下のご機嫌を損ねるだけでなく、わたしの立場さえも危うくなるところだった。一度敵対した国と同盟和議を結ぶのは、そう簡単なことではないからな」
「エトセアの戦力でイシカを滅ぼすくらい簡単そうだが」
「簡単だよ、セツナ殿。しかし、イシカは一応ガンディアの同盟国のままだった。レオンガンド陛下を裏切ったということを認めず、交渉を続けているという事実がある以上、そうであろう。ガンディアもイシカに交渉の余地を残していた。謀反の鎮圧後、即座にイシカを見限り、同盟を破棄したのであれば、我々はイシカを滅ぼしてでもガンディア領に向かったのだがな、さすがにガンディアの同盟国を滅ぼすのはまずいと判断した。たとえガンディアにとって不愉快な存在になりつつあっても、同盟国は同盟国だ。他所の国に滅ぼされ、感謝している場合ではなかろう」
「確かに」
セツナは静かに頷いた。
「ガンディアは、他の同盟国、従属国の手前、我々と対峙しなければならなくなる。それでは、我々は主命を果たせなくなるのだ。だからクガを介し、陛下にお願い申し上げるしかなかった」
「イシカを切れ、と」
「そこまで直接的なことはいわなかったというが、まあ、クガのことだ。いったやもしれぬ」
エリルアリムは、面白そうに笑った。外交官クガ・サヤン=シーダは、この場にはいない。外交官なのだ。軍議の場に顔を出すような役割はない。が、剃髪の青年の鋭いまなざしは、すぐに思い浮かんだ。エリルアリムの発言からは、彼のひととなりが少しばかり垣間見えた気がした。
「陛下とクガ殿の交渉内容はともかく、目下の問題は、イシクスです」
「軍師殿は、どのように攻略されるつもりだ。数の上でも、戦力の上でもこちらが圧倒している。ラドゥラを落としたであろう軍と合力すれば、さらに戦力は増加し、イシクスの軍勢はても足も出なくなるだろうな」
「これだけの戦力差があれば、策を練る必要もありませんよ。イシクスは北に山脈という堤があり、シルビナの侵攻に晒されることはまずありません。ここ百年、一度もなかったはずですし、これからもそうあるものではないでしょう」
「よく調べているが、それがどうした」
「イシクスを滅ぼしてもなんの問題もないということです」
「市民はどうなる」
「さて。運悪くイシクスが使い物にならなくなれば、別の都市にでも移住してもらう他ありませんね」
エインは、被害などまるで考えていないかのような口振りでいった。
「恨むなら、ガンディアに盾突き、愚かな夢を見たラインゴルド王を恨んでもらう他ありませんよ。我々ガンディアは、根気強く交渉し続けてきました。裏切られたという事実があるというのに、です。それでもなんとか折り合いをつけようとしてきたんですよ。イシカの協力には感謝していますし、イシカとの同盟が我がガンディアの力にもなりましたから。それでもイシカは、首を縦に振らなかった。目の前の現実も理解できない愚かな王には、死してその罪を贖ってもらう他ありません」
彼は、ガンディアを裏切った国々には容赦する必要がないと考えているようだった。情けをかける必要もないと断じているのだ。それはセツナも同感だった。同盟国として力を合わせていこうといった矢先、裏切り、レオンガンドのガンディアを窮地に追いやったのだ。セツナとしても許せるものではない。といって、セツナはエインほど過激な感情を持ち合わせてもいなかった。
彼のようにガンディアの敵は滅ぶべし、というようには想っていないからだ。
「イシカを滅ぼすということでいいのだな」
「ええ。メレドとの約束もあります。ここでイシカの存続を許せば、メレドとの約束を反故にしなければならなくなる。陛下を裏切り、信頼を踏みにじり続けたイシカと、陛下に力添えし続けてくれているメレド。重視するならどちらか、おわかりでしょう」
「同感だ。父王も、そうおっしゃるだろう」
「では、セツナ様にお任せいたしますね」
「え、俺?」
セツナは、突然話を振られ、きょとんとした。彼がなにをいっているのか理解できなかったのだ。そして、エリルアリムがなにかを期待しているかのような表情をしたことにも驚く。
「当然ですよ。セツナ様こそがガンディアの矛なのですから。セツナ様の思うまま、それこそ思う存分、やっちゃってください」
エインの笑顔とともに言い放たれた言葉がなにを意味するのか、彼自身、理解していたのかどうか。




