第百五十七話 剛弓
「東方に敵軍あり!」
バハンダールの外周をぐるりと囲む城壁上を走り抜けてきたのは、東側城壁の伝令だった。伝令は、第一龍鱗軍の中でも選りすぐりの健脚揃いであり、足の早さも去ることながら、持久力も驚くほどのものであり、戦場を走り回らせるのに適任だった。
各方角の城壁上には、選びぬかれた伝令以外にも、数十名の弓兵を待機させてある。中でも弓の名手は東側に集めていた。カレギアのいる南側には、ベイロンがいる。彼は並外れた体格に見合った剛弓の使い手であり、通常の弓に倍する射程の敵を射抜くことができた。
もちろん、敵軍の気配のない北側には配置していない。西側には、念の為に弓兵を並べてはいたが、恐らく南側に合流させることになるだろう。ナグラシアからなら、わざわざ西に回りこませたりはしないだろう。北は尚更だ。バハンダールの北のルベンから援軍が来れば、挟撃される格好になるのだ。そんな無茶な戦術をアスタルが取るとは思えない。
「攻撃準備。射程に入り次第射掛けよ。矢は腐るほどある。気にせず射ち込め」
「はっ」
伝令に命じたものの、カレギアがいうまでもなく東側の隊長が的確に判断してくれるはずだ。それでも命じなければならないのは、伝令が目の前まで来たからに過ぎない。
「腕がなりますなあ」
「期待しているぞ、ベイロン」
「お任せあれ。敵将を射抜いて進ぜましょう」
などと恭しく言うと、ベイロンは、傅いていた部下に弓の準備を命令した。自慢の剛弓は、彼専用の大弓であり、余程の猛者でも扱いきれぬ代物だった。
東側に敵軍が見えたということは、こちらにも見える頃合いだろう。進軍してくるなら同時でなければ意味が無い。各個撃破されるだけだ。もっとも、この不落のバハンダールには、同時攻撃も意味を成さないのだが。
丘の周りを取り囲む湿原が足に絡みつき、バハンダールへの進軍速度を著しく低下させる。そこへ、丘の上から矢の雨が降り注ぎ、敵兵を一網打尽にするだけでなく、進軍意欲をも減退させるのだ。
カレギアは、自分が散々やられたことを別の敵にやろうとしていることに多少の愉快さを覚えていた。右眼を失ったのも、この日のためだとすれば悪くはない。
「来たな」
快晴の空の下、遠方にこちらへと進行する敵軍が見えてきた。群青の軍勢。軍服も甲冑も青く、それがログナー方面軍の特色なのだとは、カレギアの耳に入っていた。彼は情報の入りにくいバハンダールにあって、情報収集を欠かさなかった。情報こそが勝敗を決める。ナーレスの言は、カレギアの指針となっていた。
敵軍が、輸送形態から進軍形態に変わっているのが一目でわかる。馬車に積み込まれていた歩兵たちが湿原地帯に展開し、泥濘に足を取られながら少しずつ迫ってくる。騎馬の進みも遅い。馬車は街道を進むしかないが、狭い道だ。馬車の列だけで遠方まで続いた。とはいえ、馬車が前に出過ぎても的になるだけであり、ある程度のところで停車したようだった。
歩兵や騎馬兵の進軍は止まらない。しかし、弓の射程まではまだまだ届かない。湿原地帯の中程まできてくれないと、ベイロンの剛弓すら届かないのだ。
「さて……本命はどっちだ」
カレギアが気にしたのは、東と南のどちらにアスタルがいるのか、ということだ。飛翔将軍の軍勢こそ本隊だろう。本隊を潰せば、別働隊は撤退するはずだ。
もっとも、東側に主力を集中させていようと、南側が本命であろうと、バハンダールの有利は揺るがない。難攻不落の城塞都市を陥落させるのは、容易なことではない。
「どちらであれ、あっしの弓が将を射抜けば、士気も下がりましょう」
「その通りだな」
ベイロンの頼もしげな言葉に、カレギアは頬を緩めた。ひとよりも長く太い腕を持ち、優れた視力を誇るベイロンに弓を仕込んだのは正解だった。長く太い腕は、剛弓の弦を引くのに必要であり、通常の弓の倍する射程を誇る剛弓で敵を射抜くには、並外れた視力が必要なのだ。まさに彼に適任であり、カレギアの右腕たるベイロンの剛弓は、いつしか第一龍鱗軍の代名詞となった。とはいえ、彼が剛弓をまともに扱えるようになったのはここ一、二年のことであり、内乱の制圧くらいにしか活用できていなかった。
ようやく、敵軍との実戦である。
彼の剛弓が日の目を見るときが来たのだ。
このバハンダール防衛戦で、ベイロン=クーンの名は一躍ザルワーン全土に轟くことだろう。それはカレギアにとっても喜ばしいことであり、長年彼の下で文句もいわず働き続けてきたベイロンへの恩返しとなるはずだ。彼の才能は世に評され、賞賛されるに値するのだ。
「あとどれほどかかると思う?」
「まだ、遠すぎますな」
ベイロンの目は、カレギアよりも余程精確であり、精密だ。カレギアは口を挟まず、彼の判断に任せた。
カレギアの狭い視界には、広い湿原の中をゆっくりと前進する軍勢が映っている。街道を中心に左右に展開した陣形は、弓の的を絞らせないためだろうか。こちらは適当に射っているだけで敵兵に当たるのだ。その程度の小細工ではどうにもならない。
ガンディア軍は、まだ盾兵を展開していない。弓の射程に近づくまでは進軍速度を緩めたくないという考えなのだろう。盾を構えたままでは移動速度が低下するのは当然だ。が、それは失策だろう。カレギアは目を細め、敵将のために哀れさを覚えた。
ガンディア軍はベイロンの存在を知らない。ベイロンの剛弓の射程は通常の倍といっていいのだ。ガンディア軍が盾兵による防御陣形を構築する前に、ベイロンによる殺戮が始まるだろう。一方的な虐殺といっていい。ベイロンの剛弓に射抜かれてから防御陣を築いたところで、そのときには何人、いや何十人もの兵士が死んでいるだろう。
そして、接近するたびにベイロンの矢による被害は恐ろしくなる。敵軍の後列が剛弓の射程に入れば、彼の一人舞台が始まるのだ。もっとも、そのころには弓兵たちによる射殺劇も始まっているはずであり、圧倒的な勝利を目前にしている頃合いといっていい。
カレギアは、黙して待っていればいい。敵軍の矢が城壁上のカレギアに届くことはない。届く距離に到達するまでに、ベイロンや弓兵たちの餌食になっているのだ。
瞑目する。瞼の裏には、頭上を覆う矢の雨が浮かんだ。逃げようにも、前後左右には味方がひしめいていた。泥濘のせいで上手く動けないというのもある。悲鳴が聞こえ、怒号も飛んだ。ザルワーン軍の歴史的大敗は、そういう絶望的状況の中で生まれた。彼は血と泥を啜るようにして湿原から逃れ、生き延びることができた。
右眼は、彼が生き延びるための代償だったのだと思えば、安いものだった。あの敗戦を生き残ることができたから、今日の自分がいるのだ。バハンダールの長期攻囲に参加し、ログナー攻略戦にも参戦できた。そして三年前、翼将に任命された。任地は、奇しくもバハンダールであり、妙な縁を感じずにはいられなかった。命からがら逃げ延びた不落の城塞都市。ここの凶悪さを身を以て知るカレギアにしてみれば、最高の任地だといえた。
もっとも、彼が守将となってからというもの、バハンダールは真価を発揮してはいない。メレドが奪還のための軍勢を差し向けてくることもなかったし、当時ログナーは属国だった。弓兵の訓練と、矢の大量生産がバハンダールの日課になった。時折、内乱の鎮圧に部隊を差し向けることもあった。ここ数年、ザルワーンの政情が不安だったのは、ミレルバスによる改革への不満や不審からなのだろう。
カレギアにしてみれば、ミレルバスほどの国主はいない。卑賤の身であっても、家系や一族の公園がなくても、才能と実力さえあればどこまでも引き上げてくれるのが、ミレルバスの素晴らしいところだ。現に軍の最高位たる神将の座には、セロス=オードが任じられている。セロスは、身分もない一兵士のころ、ミレルバスに見出され、才能を愛されたのだ。セロスの出世こそ、ザルワーンの軍人にとっては希望であり、目標であった。
カレギアは瞼を開いた。群青の空の下、青々とした湿原が広がり、その上に群青の軍勢が展開している。
圧倒的な勝利が目の前だった。このままいけば、カレギアはただ突っ立っているだけで勝利を手にすることができるだろう。完全な勝利。それこそカレギアの求めるものだ。ナーレスの高みに近づくには、この程度ではまだまだ足りないだろうが、一歩でも近づき、獄中の彼に師事を認めさせたかった。
この勝利で翼将カレギア=エステフの名声が高まる、ということはあるまい。不落の城塞都市に陣取った、当然の勝利なのだ。名が上がるとすればベイロンであり、弓の名手として彼の名は後世にも残るだろう。
カレギアは、それでいいと考えている。自分のような不甲斐のない将にここまでついてきてくれたのだ。彼はそろそろ、報いられるべきなのだ。
「さあて、と」
ベイロンが、部下から剛弓を取り上げ、矢を要求した。剛弓の矢も、特製のものだ。彼の弓のためだけに用意された矢は、鉄の鎧すら貫通するだろう。特別製の矢も、この三年間で作り貯めてある。敵軍に恐怖を与え、撤退させるには十分すぎるほどの数が、カレギアとベイロンの背後に積み上げられている。
遥か前方、横列陣形の敵軍は、まだ盾を構えてはいないように見える。通常の弓ならばまったく届かない距離だが。
「我が翼将殿に勝利を!」
ベイロンは、剛弓の弦を引いた。