第千五百七十二話 大監獄
セツナ軍は、なんの問題もなく国境を越えた。
イシカ側の国境付近にあった防衛拠点はどういうわけか無人であり、セツナたちは戦闘を起こすまでもなくイシカ国内への侵入を果たしている。
「おそらく、イルダたちでしょうな」
「ほかに考えられませんね」
サランの推測をエインが肯定する。
無人の拠点には、多数の矢が突き刺さったままになっており、それらをつぶさに確認したエインは、セツナに解説してくれた。
「ガンディア軍の襲来を誤認した防衛拠点の兵士たちは、拠点を放棄、逃走したのでしょう」
「迎撃もせず、か?」
「イシカとしては、ガンディア軍が侵攻してくる可能性については考慮していたはずです。いくらガンディア軍が休暇中とはいえ、ないとは言い切れないことくらい想定していたでしょうね。その上で挑発してきた」
「うん?」
「イシカは、ガンディア軍が自国に差し向けてきた軍勢を撃退する公算があるんですよ、おそらくね。この防衛拠点がこうも綺麗さっぱりもぬけの殻なのは、策の一種としか考えられない」
エインは、国境防衛拠点には戦闘した様子さえなければ、死体すらないことを訝しんだのだ。いくら襲来した敵戦力を多く、勝ち目が薄いとはいえ、一戦も交えずに拠点を放棄するとは考えにくい。おそらく、拠点を放棄するのは最初から織り込み済みのことであり、拠点を放棄した防衛部隊は、ガンディア軍を誘導するべく撤退したはずだと彼は見た。
「しかし、イルダさんたちは防衛部隊の追撃など行わなかったでしょう。イルダさんたちの目的は、大監獄。イシカが大監獄を戦場にするとは考えにくいですからね」
エインの見る限り、防衛部隊がガンディア軍を誘引するべく向かったのは、国境から北東方向にある都市バドラーンに違いないらしい。
「なんでそこまでわかるのよ」
「国境からそれほど遠くはないということがひとつ。イシカを制圧するのであれば攻略しておくべき重要拠点であるということがひとつ。そして、エトセア軍が滞在しているということが最大の理由ですよ」
エトセア軍は一万を超える大軍勢だといい、だからこそイシカはガンディアに対して強情でいられるのであり、挑発的な行動すら起こせた。エトセア軍が一万もの大軍を率いてイシカくんだりまでやってきたのは、それだけの大軍勢ならば、小国家群の中を突破することが簡単だからだ。道中の国々も、エトセアの大軍勢が戦闘を起こさず、通過してくれるだけというのであればなにもいわないのだ。むしろ、手を出して、手痛い反撃を食らうくらいならば、通過するのを傍観しているほうが何倍もましだ。
エトセアは、容赦しない国なのだ。
「さて、我々も大監獄に急ぎましょう。最悪、戦闘が既に終わっている可能性もあります」
「イルダたちのこと。そこまで無茶をするとは考えにくいのですが……」
「だとしても、出発から既に四日以上。食料が底を尽きてもおかしくない頃合いですよ」
エインの意見にサランも言葉を失った。
イルダたち星弓戦団は、勝手に飛び出している。それこそ準備もままならなかったに違いない。ザルワーン方面軍や龍宮衛士が彼女たちの暴走に力を貸してくれるわけもなく、自分たちでかき集められるだけの食料しか持って行けていないはずだった。
たとえ大監獄に攻撃を仕掛けるという無茶をしていなくとも、無事ではすまないかもしれない。
イシカ軍に見つかっている可能性も低くない。
セツナたちは防衛拠点をあとにして、南へ急いだ。
ヒエルナ大監獄は、イシカ領南東部、メレドとの国境近くに位置している。
巨大な監獄を中心とした防衛拠点でもあり、一見すると攻め難い要塞のような印象すらあった。天を衝くほどに巨大な塔が中央に聳え立ち、いくつもの塔がその周囲に乱立している。塔と塔は橋によって繋がっているらしく、上空から見下ろすことができれば、クモの巣状になっているに違いなかった。その塔こそが監獄であり、かつて、何百年もの昔、大量の政治犯を投獄するために建造されたというのだから恐ろしい。
「権力っていうのは、本当に恐ろしいものですね」
遠眼鏡を覗きながら、エインがぼそりといった。
セツナたちは、国境の防衛拠点を出発すると、イシカの警戒網を潜り抜けながらヒエルナ大監獄を目指した。道中、皇魔に遭遇したくらいで問題はなく、七月八日、セツナ軍はヒエルナ大監獄を西に見遣る森へと辿り着き、身を潜めた。
大監獄までの距離は数時間足らずといったところであり、これ以上接近すれば大監獄側の警戒網に引っかかるだろうということで、全軍、森の中に潜ませている。それもこれもエインの指示だ。
「セツナ派なんて作った奴がいうことかよ」
「ああ、うっかりです。あやうくガンディア最高峰の権力者を敵に回すところでしたね、こわいこわい」
「あのなあ」
セツナは、屈託のないエインの笑顔に怒る気も失せて頭を振った。
と、足音がした。
「黒獣隊、出撃準備は完了したぜ」
「こっちもだ。シドニア戦技隊、命令次第、出撃できる」
「星弓戦団も、万端準備整いました」
「ご苦労」
シーラ、エスク、サランそれぞれの報告に、セツナは手を上げて応えた。三人とも、いつでも出撃できるよう、武装している。セツナもだ。新式改と呼ばれる軽装の鎧を身につけている。極限まで軽量化が図られた鎧だが、それでも旧式の重装鎧並みの強度を誇るという。隊長格は皆、その新式改一式を身につけており、それだけで頼もしく見えた。
「で、どうするんだ?」
「まずはイルダさんたち先遣隊との合流を優先します」
「その先遣隊がどこにいるのか、わからねえから困ってるんじゃねえのかよ」
「ええ、いまさっきまで困っていたのですがね」
彼は、遠眼鏡を覗き込み、ヒエルナ大監獄を見遣った。セツナの目には、荒野に聳える大監獄の巨大な城壁が見えるだけであり、彼がなにを見ているのか、さっぱりわからない。
「ん?」
「いやはや、奇遇なこともあるものです」
「なんだよ」
「たったいま、大監獄に攻撃を仕掛けた軍勢があります」
「軍勢……」
「イルダたちですな」
「すぐにいかないと」
サランが身を乗り出し、シーラが慌てる。
「いえいえ、そう慌てないでくださいよ」
「あん?」
「大監獄に向かっているのはメレドの軍旗です」
「メレドが?」
セツナは、予想だにしない名前に驚いた。メレドという国そのものはよく知っている。ガンディアの同盟国であり、国王サリウス・レイ=メレドはなにかと噂の絶えない人物だ。男色家であり、美少年を侍らせているという事実は、広く知られている。
「なんでまた」
「メレドはガンディアの同盟国であり、ジゼルコートの謀反後も、陛下を裏切らず、最後まで我々に協力を惜しまなかった。そのことは皆さんもご存知ですね」
「ああ」
「メレドには、謀反が起きたあと、イシカへの牽制をお願いしていたのですよ。イシカが謀反によって混乱真っ只中のガンディアに本格的に攻め込んでこなかったのは、そのためです。イシカが全戦力をガンディアに投入すれば、メレド軍がイシカ領を飲み込んでしまいますからね。イシカとしては、そのような愚行はできなかった」
「アバードには攻め込んできたがな」
シーラが不服そうにいったのは、ヴァルターがイシカ軍によって攻め込まれたことに対してだ。ヴァルターは大乱時、数度に渡って戦場となっている。ジベル軍が攻め込んできたときもあれば、イシカ軍が攻め込んできたときもあるのだ。
エインは、遠眼鏡を手放すと、彼女に視線を向けた。
「いいましたよね。全戦力を投じることはできなかった、と。ヴァルターを制圧するための戦力くらいならば捻出できたんですよ。まあ、その戦力も黒獣隊と星弓戦団のおかげで手痛い損害を被ったようですが」
「そりゃあ、アバードの地を侵す奴らには容赦しねえって」
「おかげで、イシカは戦力を大きく失った。にもかかわらず、イシカが強気なのはエトセアという後ろ盾があるからですが、その強気は、メレドに対しても同様のようですね。南への警戒が薄くなっていたようで」
「要するにイシカが調子に乗ってくれたおかげで、メレドが攻め込む隙ができたんだな」
なんだかバカバカしくなって、セツナは空を仰いだ。木々の枝葉が織りなす天蓋の間、灰色の空が覗いている。七月八日午前。雨が降り出す気配があり、空気が湿り始めていた。
「そうです。メレドとしては、イシカを滅ぼし、その領土を手に入れることは悲願でもあったわけで、そこにガンディアからの要請があれば動きもするでしょうね」
「要請って軍師様が?」
「ええ、王都にいるもうひとりの軍師様が、動いてくれたようですね」
エインの微笑は、アレグリアへの全幅の信頼を表しているようだった。ナーレスの薫陶を受けたふたりの軍師は、以心伝心の間柄といっても過言ではないのだろう。
「でなければ、一応、同盟国であるイシカにメレドが攻め込むことなんてありえませんから」
メレドは、ガンディアとの同盟を重視している。そのことは、ジゼルコートの謀反に与せず、レオンガンドの味方を続けたことからも窺い知れる。また、イシカがジゼルコートにつき、レオンガンドの敵になったことは、メレドにとって喜ぶべきことだったのかもしれない、とエインはいった。メレドは、北進を考えている。国土を北へと伸ばし、ヴァシュタリア共同体と国交を結ぶことこそ、メレドの悲願なのだという。メレドは、ヴァシュタラ教を国教と定めた国なのだ。ヴァシュタラ教に帰依したものは、北を目指す。北の地、ヴァシュタリア共同体勢力圏こそ、信徒の魂の場所だからだ。
ガンディアは、そういうメレドの願望を利用し、イシカへの牽制に使った。そして、そのままイシカ制圧の手駒へと昇華させたのがアレグリアなのだ。
「まずは、メレド軍と合流しましょう。先遣隊を探すのを協力してもらうんですよ」
「なるほどな」
とはいったものの、イルダたちを探し出す必要はなかった。
なぜならば、イルダたち星弓戦団先遣隊は、メレド軍によって保護されていたからだ。




