第千五百七十話 残火延焼(一)
ヒエルナ大監獄は、現在のイシカ領南東部に位置し、地理的にいえば龍府からは決して遠くはなかった。
馬を飛ばせば三日もかからずに到達できるということもあり、セツナたちは、一日で軍勢を整えると、翌七月四日、龍府を出発した。
現在の、というのは、数年前まではイシカ領南東というよりは東部といったほうがいい場所に位置していたからだ。メレドとイシカが領土を喰らい合った結果、かつてのイシカ領南東部はメレド領になり、メレド領北西部はイシカ領になっている。それによって、ヒエルナ大監獄はイシカ領南東部に位置するようになったのだ。
セツナ軍が動員した兵力は、七百名にも満たない少数だったが、戦力として考えた場合、これ以上強力な軍隊はガンディアにも存在しないだろうと軍師エイン=ラジャールにいわしめるほどのものとなっている。
まず、主戦力が、ガンディアの最高戦力とでもいうべき《獅子の尾》の武装召喚師たちだという時点で、凄まじい。《獅子の尾》隊長セツナは当然のこと、隊長補佐ファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリア、ミリュウ・ゼノン=リヴァイア、アスラ=ビューネルの三名も、セツナ軍の一員として参加している。この三名は、七月三日のうちにカミヤ領伯家の家臣となっており、届け出が出されたその日のうちに軍師によって認可が出されていた。
軍師エインは、セツナ軍の強化に余年がなく、どんな手段を講じても構わないという強い意思があった。セツナ軍の強化こそがガンディアの戦力を強化することに繋がると彼は信じ切っているのだ。セツナ軍というガンディア軍とは別に自由意志で行動することのできる軍隊があるということは、軍師エインの戦略構想上、とてつもなく重要なことらしい。
『今回のように、軍のほとんどが休暇中のときに動かせる軍隊があるというのは、それだけでとんでもない利点なんですよ。それがセツナ様たちなら尚更です』
長期休暇中だろうと関係なく動き回れる強力な軍隊がいるというだけで、敵対国への牽制にもなるのだ、と彼はいった。
もっとも、牽制となるためには、まずセツナ軍が実績を上げなければならず、そのためにもイシカの問題を早々に片付ける必要があるともいっていたが。
《獅子の尾》以外にも、強力な戦力が揃っている。黒獣隊、シドニア戦技隊の両隊は、幹部たちが召喚武装の使い手ばかりであり、並の軍勢では太刀打ち出来ないくらいに凶悪だ。星弓戦団も、遠距離からの攻撃で、セツナたちを支援してくれること間違いない。事実、ジベルの戦いでは彼らの支援が極めて効果的に働いている。
主力であったウルクは、残念ながら、ミドガルド=ウェハラムとともに帰国の途についた。王都に戻らず、まっすぐディール領を目指したのは、それだけ事態が深刻だということであり、セツナはミドガルドたちが無事にディールに辿り着き、ディールでなにが起こり、その何事かがガンディアに波及しないことを願うよりほかなかった。
『セツナ』
去り際、ウルクはセツナをじっと見つめてきた。無表情ながらも、そこには確かに感情の揺らぎがあることをセツナに認識させた。
『ミドガルドの護衛のため、また、この躯体を完全に修復するため、一度あなたの元を離れなければなりません』
『ああ。わかっているよ』
『セツナ。わたしが不在の間も、どうか御無事で』
『心配するな。ウルクこそ、無事でいてくれよ』
『わたしは魔晶人形。そう簡単に壊れることはありません』
にべもなく――というわけではないのだろうが、完璧に近い美しさを誇る無表情で発せられる声は、極めて冷ややかに聞こえた。
『セツナ伯サマ。我々は、ディールの問題を解決し次第、すぐにでもガンディアに戻ってくる予定でおります。なにせ、特定波光の研究はまだ続けなければなりませんのでね、セツナ伯サマの協力を仰がねばならない。そのためにも、此度の戦いへの参加を見送らせていただくこと、まことに申し訳なく思っております』
ミドガルド=ウェハラムの丁重過ぎる対応に、セツナは頭の下がる想いがした。
『ミドガルドさん、なにもそこまでお気遣いなさらなくとも。元よりミドガルドさんとウルクはディールの方。ガンディアに属しているわけではないんです。ウルクは仮初に俺の下僕参号と名乗っていますが、本来は、俺の下僕でもなんでもない。俺の命令に従う必要さえなかった』
『しかし』
『セツナ。わたしはセツナの下僕参号ですが』
『……ああ。そうだね』
セツナは、ウルクのどこか冷たい目線にたじろがざるを得なかった。そういう態度も取れるようになった、というべきか。
『ミドガルドさん。こちらのことはどうかお気になさらず。俺としても、ディールの動きが気になります。魔晶人形の量産が本当なのかどうか。そして、もしそれが本当で、それほどの戦力を得たディールがなにを企んでいるのか』
『それらのことについて、できるだけ早く結論を出し、ガンディアに知らせましょう。もちろん、国家機密を伝えることはできませんが……』
ミドガルドは、険しい表情のまま、そういった。
ミドガルドとウルク、機材を乗せた馬車が龍府を出発したのは、セツナ軍が龍府を出発する前日のことだ。彼らを乗せた馬車は、イシカ領ではなく、メレド領から西へ向かうことになっている。それはイシカが現在ガンディアに敵対的な態度を取っていて、メレドはガンディアの同盟国という体裁のままだからだ。
同盟国間の国境の行き来に関しては、かなり緩い。
『ミドガルド様とウルク、無事にディールに着けますでしょうか』
『ミドガルドさん、ほとんどひとり旅みたいな状態でガンディアまで来たんだぜ。だいじょうぶに決まっているさ』
下僕としての後輩たるウルクを心配するレムには、そんな言葉をかけた。心配はあるが、ウルクが起動し続けるのであれば、なんの問題もあるまい。たとえ野盗の類に襲われようと、皇魔の群れに遭遇しようと、魔晶人形一体で撃滅しうるだろう。
当然のことだが、グレイシア・レイア=ガンディアは、龍府天輪宮に置いてきている。グレイシアは、セイドロックのときとは異なり、今回は、同行するなどとわがままをいわなかった。セイドロックのときのわがままぶりを反省したらしい。いわく、セツナに嫌われたくない、とのことだが、それはセツナに嫌われれば龍府を出ていかなければならなくなると考えているからなのか、それとも別の理由からなのかはわからはない。
『単純に、太后殿下がセツナのことを気に入っておられるからでしょう』
ファリアの推測が正しいのかもしれない。
グレイシアの身辺警護には龍宮衛士と都市警備隊、ザルワーン方面軍に任せてあるので心配はない。龍府の治安は万全だったし、他国からの間者や諜者がいるという話もない。つまり、なんの問題もないということだ。
故にセツナたちは安心して龍府を発つことができたのだ。
何百もの騎馬と何台もの馬車が隊列を組み、街道を進んでいる。
黒獣隊、シドニア戦技隊、星弓戦団の団員たちが騎馬による隊列を組んでおり、セツナたちが分乗した馬車を護衛するような形になっている。セツナは一台目の馬車に乗り込み、目的地に辿り着くのを待ち侘びていた。目的地とは無論、ヒエルナ大監獄だ。それ以外の拠点、都市はいまのところ無視するつもりだった。
同じ馬車には、ファリア、ミリュウ、アスラ、レムらが乗り込んでいる。馬車の荷台なのは、荷台のほうが広々としているため、ぎゅうぎゅう詰めにならずに済むからであり、物資を載せることもできるからだ。
「俺は……反対なんだがな」
「まだいってるー」
「そりゃあいうさ」
セツナは、荷台の中、視線を巡らせた。天幕によって全体を覆われた荷台は、薄暗い影に包み込まれている。その中をファリア、ミリュウ、アスラ、レムらが思い思いに過ごしていた。ファリアは書籍と睨み合い、レムはなにか書き物をしている。アスラはミリュウにべったりで、ミリュウはひとりの少女と向き合っている。少女の名は、エリナ=カローヌ。ミリュウの弟子である駆け出しの武装召喚師だ。
「なんたって、エリナはまだ子供だぞ」
「だから、じゃない」
ミリュウがこちらを見て、頬を膨らませた。子供より子供っぽいと評判の彼女の言動には、なれきっている。
「子供のうちから叩き込むのよ」
「武装召喚師としての修行ならそうだろうが、実際の戦いに連れて行くのは違うだろ」
「連れて行くだけよ。参加させるわけじゃないわ」
「それが危険だっていったんだろ」
「あたしとアスラが護るもの。なんの心配もいらないわ。ねー」
「はい、お姉さま」
アスラがにっこりとミリュウに笑い返し、こちらをみた。
「そうですよ、セツナ様」
「そうだよ、お兄ちゃん。師匠とアスラお姉ちゃんがいるからだいじょうぶ!」
「……ま、そりゃあこの上なく」
だから同行を許可したのだが、それでも心配なのは、セツナの目にはエリナが子供にしか見えないからにほかならない。ミリュウに弟子入りして、随分な時間が立つ。それから毎日、ミリュウにいわれた通りに肉体を鍛え、学んできたという。武装召喚師を目指し、修練を怠らない彼女の肉体は、たしかに弟子入り前とは見違えるほどだ。初めて逢ったときから二年近くが経過している。背丈も伸びていたし、顔つきも変わった。ただの子供から少女へと間違いなく成長しているのだ。
その事実が、セツナに時の流れを実感させた。
この世界に召喚され、三年目に入っている。
セツナも十九歳になった。
ときは流れ続けている。止めどなく流れ続け、変化し続けている。置かれている状況、周囲の環境も変わった。
セツナは、寄る辺なき異世界の住人ではなく、責任ある立場となった。
だから、ということもある。
彼女の母親と、いずれ父親となるべき人物にエリナのことを任されたからこそ、彼女を戦場に連れていくことには反対なのだ。
結局、ミリュウたちの勢いに押し負けた上、ファリアまでもが賛成したこともあって、エリナはセツナ軍の一員として同行することになったのだ。ミリュウたちが責任持って護るということから、彼女の身に危険が及ぶ可能性は皆無だ。
セツナが心配しているのは、エリナが実際の戦場をその目で見て、心的外傷とならないかということだ。しかし、ミリュウのいうこともわからないではないのだ。
『エリナは、武装召喚師を目指しているわ。あなたのためにね。あなたの力になりたいのよ。心の底から、そう想っているの。命をかけて。だからあの子は一日だって、どんなときだって修練を怠らなかった。あたしがいないときでも、あたしがなにをいわなくとも、必要なだけの訓練を積んできたのよ。そしてそのおそろしいくらいの成長速度は、彼女の武装召喚師としての才能を感じさせるものでもあるし、あなたへの想いを感じさせるものよ』
エリナの同行を願い出てきたとき、ミリュウは、そんな風にいってきた。
『戦場というのは、武装召喚師となったなら避けて通れないものよ。だれもが戦場に駆り出される。戦えない武装召喚師なんて不要といわれるほどにね。だからってあの子に殺人用の召喚武装を使わせるつもりはないけれど、それでも、武装召喚師なら、戦場に出る必要がある。あなたの力になりたいんだもの』
ミリュウは、武装召喚術の師匠として、しっかりとエリナのことを見守っているようだった。直接、指導できる時間というのはそれほど多くないものの、できるときはつきっきりで指導し、教育していることはセツナも知っている。
『戦場に出ず、あなたの力になる方法もあるでしょうね。でも、それだとあの子は納得しないわ。あの子は、エリナは、あなたが傷つくことを極端に恐れている。あの子にとって、あなたがすべてなのよ。まるであたしみたいにね。だからあたしはあの子を育て上げてみせるわ。最高の武装召喚師に。あなたとともにどんな戦場だった乗り越えられる武装召喚師にね』
そのためにも、この度の戦いに同行させるべきだ、というのがミリュウの主張であり、アスラ、ファリアら武装召喚師たちは同意した。
セツナは、念のためエリナに意見を聞き、彼女が心の底から同行を望んでいることを聞いてから、許可した。
ミレーユ=カローヌとサリス=エリオンは、まさかエリナが戦場についていくとは想ってもいないだろうし、そんなことならばセツナに預けたりはしなかっただろうが。
「そういえば、ミレーユさんとサリスさんは王都に行ったんだよな?」
「うん! お父さんの用事なんだって!」
エリナは、屈託のない笑顔でいってきた。
セツナがエリナの身柄を預かったのは、彼女の保護者であるサリスとミレーユが龍府を離れることになったからだ。ふたりとしてはエリナも王都に連れていくつもりだったのだが、エリナが反対した。エリナは、師匠ミリュウに直接指導してもらえる機会を失いたくないと言い張ったのだという。困り果てたサリスは、ファリアを通してセツナにエリナのことを頼んできたというわけだ。
『領伯に娘を頼むなんてとんでもない親もいたものよね』
ファリアは友人の頼み事をセツナに伝えたあと、そんな風にいって笑ったものだ。
セツナがサリスの頼みを受け入れたのは、エリナがミリュウの元で修業に励みたいと直訴してきたからだったし、ミリュウが彼女の面倒を見ると言い張ったからだ。そして、その結果がこのイシカへの同行なのだが、反対こそしたものの、心配はしていなかった。ミリュウたちならばエリナを守り抜くだろうし、セツナ自身、エリナの安全を怠らないわけもない。
馬車が、揺れている。
ゼオル行きの馬車の中、サリス=エリオンは、己の精神状態の不安定さに眉根を寄せた。
ガンディアは、国民が国内の都市を行き来することを認め、奨励している。別の都市に移り住むことも認めているし、届けでさえ出せば、すぐに認可が下りるほどに緩やかだ。ガンディアほど一般市民が住みやすい国はないのではないかと思えるほどであり、そういった思いは、他国の人間であったものほど強い。
ガンディアはまた、そのためにも交通機関を発展させ、国中の交通網をより良いものとしていくということに余念がなかった。都市を結ぶ街道が日々整備され、充実していくことを実感として理解しているのは、彼が都市警備隊の一員であり、都市の交通事情を頭に入れていなければならないからだ。
龍府やバッハリア、エンジュールのような観光地に訪れたいという国民のため、観光用の馬車が充実し、それ以外の目的のための馬車も十分な数、用意されている。
龍府から王都ガンディオンまでを結ぶ馬車というのはなく、各都市ごとに降車し、新たな馬車に乗車する必要がある。その点、少々面倒ではあるが、仕方のないことだ。馬車には護衛がつきものであり、護衛までも龍府から王都へ連れて行くというのは、大変なことだ。
護衛が必要なのは、野盗対策でもあったし、皇魔対策でもあった。治安のいいガンディア国内で野盗や山賊に遭遇することは稀といっていいが、皇魔は、そうではない。頻繁とはいわないまでも、皆無とはいいきれなかった。それくらいの頻度で、皇魔が出現し、人間を襲うのだ。とはいえ、皇魔が群れで行動していない限り、屈強な戦士を護衛としてつけておけば、大抵なんとかなるものらしく、死者が出るほどの事件はあまり聞かなかった。
軍が皇魔の巣を徹底的に排除していることも大きいだろう。
平時の軍の主な仕事が、それだ。皇魔の巣を見つけ出し、焼き払ったり破壊することで皇魔そのものを遠ざけることは、国民の生活の安寧を護るために必須だった。
そういうこともあり、サリスはミレーユ=カローヌとの長旅に不安はなかった。ミレーユの娘であり、サリスにとってはいつか自分の娘となるであろうエリナのことも、心配していない。セツナに預けたのだ。セツナとともにいることほど安心できることはなかった。
「あなた……だいじょうぶ? 疲れているようにみえるけれど」
不意に気遣われて、彼は目を細めた。すぐさま表情を取り繕い、隣の彼女を見遣る。十人乗りの客車の中、乗っているのはふたりだけではない。
「……少し酔ったのかもしれない」
馬車酔い、という言葉が流行っている。
馬車による都市間の移動が楽になった現在、馬車を利用して旅をするものが激増した。龍府やバッハリア、あるいはエンジュールといった都市を観光するために馬車を利用した結果、馬車に揺られ、酔うものが少なくなかったのだ。
「まあ。ゼオルについたら、少し休みましょう」
「いや……心配ないよ。一日も早く、王都に行かなければならないんだ」
「王都になにがあるのですか?」
「仕事なんだ」
彼は、目を伏せて、告げた。胸に深く棘が刺さったような痛みがあったのは、その言葉が完全な嘘だったからだ。
目的は、もっと別のことだ。
確かめなければならないことが、できた。
それは、彼の、サリス=エリオンの人生そのものを左右しかねないことだった。




