第百五十六話 バハンダール
バハンダールは、ザルワーン西部の城塞都市だ。
湿原に囲まれた丘の上に築かれた都市は、長きに渡ってザルワーンの侵攻を撥ね退け、不落の都市として広く知れ渡ることになった。その当時はザルワーン南西の国メレドの土地であり、ザルワーンの度重なる侵攻に対してびくともしないことは、メレドの増長を誘ったという。その増長がザルワーンに付け入る隙を生み、包囲網の構築を成し遂げさせたのだ。
バハンダールを預かる翼将カレギア=エステフは、バハンダールの攻囲には部隊長として参加しており、まさかその城塞都市を自分が預かることになるとは思いも寄らなかった。
バハンダールに駐屯するのは第一龍鱗軍であり、規模は千人。他の都市に配備された軍勢と変わらぬ規模ではあったが、難攻不落のバハンダールにおいては数倍の戦力を持っているも同じだろう。
カレギアは自慢の髭を撫でながら、空を仰いでいた。数日前の雷雲が嘘のように晴れ渡り、まばゆいばかりの青空を映し出している。
「ナグラシアが陥落したのが、八日だったか」
「もう七日も前ですな」
副将ベイロン=クーンの発言に、カレギアは、視線を地上に戻した。彼は、副将とともに南側城壁に登っていた。丘の上の城塞都市からは、遥か南方まで見渡すことができる。見渡す限りの湿原は、陽光を浴びて青々と輝いて見える。泥濘は押し寄せる敵軍の足に絡みつき、進軍速度を著しく阻害するだろう。遅遅と攻め寄せてくる敵軍を弓の餌食にするのは、簡単な事だ。彼が右目を失ったのも、湿原を進み、バハンダールを目指している最中だった。
名誉の負傷、などというものではない。間抜けな傷だ。その戦闘ではバハンダールは落とせず、彼は得るものもなく右眼を失ったのだ。
バハンダールを南北を貫く街道はあまりに狭く、行軍にはふさわしくなかった。湿原に積み上げた土塁を元にした街道は、馬車がぎりぎり一台通れるくらいの横幅しかなく、そこだけを頼りに進めば渋滞を起こすのは目に見えている。そして、一本道なら迎撃も容易い。矢を集中させればいい。面白いように倒れていくはずだ。馬車ならば火矢を用いるのも有効だろう。馬を射抜くのもいい。
攻め手に取っては城壁に迫る以外に攻略方法はないが、守り手にとっては面白いくらいに迎撃方法が浮かんだ。もっとも、思いついた迎撃法がすべて有用かというとそうではない。単純かつ素直な手段こそ、この城塞都市を護るには相応しい。
「ガンディアが我が国に攻め込んでくるとすれば、ナグラシアかバハンダールの二箇所からしかない。スマアダはあまりに遠い」
「こっちにも攻めてくると思ってたんですがね」
ベイロンが、つるつるに剃った頭を撫でた。髪が薄くなり始めたことを気にしていたのだが、妻に勧められて剃髪することにしたらしい。そのおかげか、彼の威圧感が増しており、部下にも好評で、彼の妻も喜んでいるという。
「ナグラシアのほうが落としやすいと判断してのことだろう。こちらは不落のバハンダール。決して間違った判断ではないが」
同時に攻撃するほどの戦略的余裕がなかった、という可能性もある。だからナグラシアに戦力を集中し、陥落させた。対ザルワーンの橋頭堡、といったところか。しかし、ガンディア軍はまだナグラシアを制圧しただけで、他の都市に手を出していないらしい。
動きが鈍い。
(それはこちらも同じか……)
カレギアは、胸中でつぶやいた。
ナグラシア陥落の報は、とっくに龍府に届いているはずだ。しかし、ナグラシア奪還の軍が結成されたという話も聞かなければ、戦闘が始まったという情報も入ってこなかった。情報は錯綜していて、ザルワーン南西の防衛拠点たるバハンダールに届いていないだけかもしれない。
だとしても、なんらかの動きがあっていいはずだった。
カレギアも、ただ黙して、中央の命令を待っていたわけではない。斥候を飛ばし、レコンダールから迫って来る様子はないか調べさせたし、中央に援軍の要請も行っている。バハンダールは、メレドとガンディアというふたつの国との境界に程近い場所にあるのだ。ここを落とされるのは、なんとしてでも避けなければならない。もちろん、そう簡単に突破されるはずもないのだが、用心に越したことはなかった。
戦力が充実すれば、こちらから打って出るということもできる。
たとえば、こちらからレコンダールを攻撃すれば、どうだ。ガンディアはレコンダールの防衛戦力をどれほど残しているだろう。千人もいるだろうか。ザルワーンとの戦いに注力するのなら、防衛戦力は限りなく薄くなっていると見ていいのではないか。そこを強襲する。そうすれば、ガンディア軍はレコンダールの防衛、あるいは奪還に、戦力を割かなければならなくなる。そうなれば、ザルワーン国内に残された兵力を、ザルワーンの全軍をもって包囲覆滅することも可能ではないか。
絵空事だが、試してみる価値はあるはずだ。
が、そのためには千から千五百程度の兵力が欲しかった。バハンダールを空にする訳にはいかないのだ。最低五百は残して置かなければ、不落の城塞も機能しなくなる。そこをガンディア軍やメレドの横槍で奪われたら目も当てられない。
カレギアの構想は龍府に届き、検討されたはずなのだが、返答はまだ来なかった。戦力を回せないのなら回せなくてもいい。返答が欲しかった。ナーレスの失脚以来中央が混乱している、というのは本当なのかもしれない。
国主の片腕であった軍師ナーレスに関していえば、カレギアにはまばゆい存在だった。ログナー制圧戦ではナーレスの采配の元、連戦連勝の快進撃を経験しており、兵士たちが彼を軍神と仰ぎ、熱狂するのもわからなくはなかった。
だからこそ、カレギアは、ナーレスに師事を仰ごうとしたのだが、素気なく断られた。ナーレスの忙しさはカレギアの想像をはるかに超えたところにあった、というのは後に知ったことだが。ともかくも、カレギアはそれでも諦めきれず、ナーレスのガンディア時代からの戦いの記録を集め、自分なりに勉強してきたのだ。わからないことも多々あったが、カレギアなりに読み下し、理解しようと務めた。
カレギアはナーレスを心の師と仰ぎ、逢うことがあれば礼節を忘れなかったが、ナーレスには不思議がられるだけだった。
そんな男が、ミレルバスの命により拘束された。国主への反逆罪だといい、ザルワーンの転覆を図ったからだという噂が飛び交っているのだが、真偽はいまのところわかっていない。バハンダールは、やはり地方なのだ。情報の伝播があまりに遅く、中央との時差を感じずにはいられない。
なんにせよ、ザルワーンは最高の軍師をガンディアとの戦いの直前に失った、ということだ。
「ガンディアはどういう進軍経路を取るんでしょうかねえ」
「中央突破による短期決戦を望むのか、ザルワーン全土を切り取っていこうというのか。ともかく、ナグラシアから押し寄せてくるのは間違いない。ここにもな」
今朝、斥候からの報告が入っていた。
南東にバハンダールを目指す軍勢あり。多数の馬車と騎馬による行軍であり、歩兵は見当たらず。
つぎの報告では、二部隊に別れたという話であり、恐らくバハンダールの東側と南側から攻め寄せてくるのだろう。
「敵の指揮官はアスタル=ラナディースだな」
そう目星をつけたのは、報告が、アスタルの異名の由来となった高速進軍法そのものだったからだ。馬車と騎馬のみで移動を行い、歩兵は馬車で輸送するというものであり、普通ならば取らないような方法だった。大量の馬車が必要だったし、進軍路の地形を知り尽くしていないと困難に違いなかった。ここはザルワーン。彼女の庭たるログナーではないのだが。
「飛翔将軍……美人でしたなあ」
副将が思いを馳せたのは、アスタルが龍府を訪れた時のことを思い出しているのだ。凛々しく、毅然としたアスタルの姿は、とても敗軍の将とは思えないものであり、勝者であるはずのザルワーン軍人が気圧されるという事態に陥ったものだった。
「ログナーでは随分邪魔をされたものだが」
カレギアの脳裏には、五年前の戦場がありありと浮かんでいた。
ログナーのレコンダール戦。門を突破し、市街に突入したザルワーン軍は、思わぬ包囲戦術によって壊滅的打撃を受けた。誘い込まれたのだ。そのとき、レコンダールの軍勢を指揮していたのがアスタル=ラナディースであり、美貌の女将軍は戦女神と呼ぶに相応しかった。ベイロンが惚れ惚れと思い出すのもわからなくはない。敵ながら、その勇姿には見惚れざるを得なかった。
ナーレスが軍師として辣腕を振るうのは、レコンダールの敗戦以降のことだ。
ガンディアを見限りザルワーンに流れ着いた軍師は、国主ミレルバスに見初められ、厚遇された。当初こそ彼の実力を疑問視する声もあるにはあったが、ログナー攻略軍に合流したナーレスは、神業のような采配によってレコンダールを制圧したことで疑念の声を封じた。そして、瞬く間にログナーを制したのだ。
五年前。
カレギアが翼将ですらなかった時代のことだ。