第千五百六十五話 運命の歯車
「ところで」
アズマリアが髪をかき上げながら、こちらに視線を戻した。
「おまえはなぜ、このような場所にいる?」
「うぬの勇者様に飛ばされたのだ」
「それはわかっている。見ていたからな」
笑いもせずにいう。つまり、彼女はあの戦いの一部始終を見ていたというのだろう。確かにゲートオブヴァーミリオンの能力ならば、セツナが連続的に引き起こした空間転移についていくことも不可能ではない。少なくとも、同じように空間転移を起こすことは可能だ。完璧に追従できるかどうかは別として。
「疑問なのは、おまえほどのものが、なぜここに留まっているのかだ」
「……ルベレスといったか」
この国を収める王の名前さえ定かではないというのが、グリフの記憶力の深刻さを表している。本来であれば忘れ得ないようなことでさえ、たやすく記憶から消えていく。流れ落ちる水を手のひらで受け止めても、指の隙間からこぼれ落ちていくかのように、あっさりと、あっという間に。ただ、完全に忘却しきっているわけではないということは、アズマリアに遭ったことで彼女に関する記憶を思い出せたことからもわかる。きっかけがあれば、ある程度は思い出せるということだ。それにしては、聖皇に関する記憶はほぼ完全に近く思い出せないのだが。
「この国の主が、我が眠りに力を貸してくれるというのでな」
「ほう……」
「呪いを解き、眠ることこそが我が望み」
ただ呪いを解くだけでは駄目なのだ。
眠りが欲しい。
眠ることすら許されず、何百年もの長きに渡って戦い続けてきた彼の唯一の望みが、それだった。闘争は、眠れぬことへの苛立ちをわずかでも慰めるための手段でしかなく、戦いそのものを目的としたことは一度としてなかった。セツナに襲いかかったのもそうだ。願わくば、セツナと黒き矛によって永遠の眠りを約束してほしかった。
しかし、黒き矛の力を持ってしても、グリフは滅ぼせなかった。不老不滅の呪いを消し去ることなどできるのだろうか。
「我は長く生き過ぎた。もう、疲れたのだ」
できるならば、いますぐにでも終わらせたい。
たとえば、アズマリアの召喚武装で殺せるのなら、殺してもらいたかったし、これまでに何度か試してもいた。そのたびにアズマリアは躊躇したが、グリフの嘆願を聞き入れ、殺してくれた。だが、不老不滅の肉体は瞬く間に復元し、元通りに蘇った。どれだけ徹底的に破壊しても、首を切り離し、別の場所に転送させるなどのことをしても、意味がなかった。ただ苦痛があるだけなのだ。そして、苦痛が精神を破壊することもないから、ただただ苦しみが続く。無意味で、無駄な実験の数々。アズマリアが無理だと言いだすまで、時間はかからなかった。
ゲートオブヴァーミリオンによって異世界に転送してもらったが、意味はなかった。
聖皇の呪いは、異世界においても効果があったのだ。どのような状況に置かれても、死ぬことはなかった。たとえば異世界の神に灼かれても、瞬時に蘇生した。神が驚いたほどだ。そういった実験を数え切れないくらいに行った。それこそ、アズマリアの心が折れるまで続けた。グリフではなく、アズマリアの、だ。
グリフの心が折れることはない。
ただ、どれだけ死を望んでも死ねないことに絶望してはいたが。
アズマリアが表情を歪めたのは、そのときのことを思い出したからなのだろう。
「……わかっているよ。だから、わたしもおまえが再び眠れる日が来るよう、方法を探しているのだ」
「……ありがたい話だ」
「なに、旧友たるおまえの望み、叶えぬわけにはいくまい」
旧友。
彼女は、いう。
グリフも、いう。
それはまるで呪いのように、グリフたちの心を縛っている。旧友という言葉を聞くだけで、使命感が生じ、旧友と対面するだけで、魂が躍動する。旧友という言葉に込められた魔力がなにを意味するのか、彼ら自身、なにひとつわかっていない。ただ、魂の命ずるままに動くだけなのだ。
「旧友といえば、思い出したことがある」
「なんだ?」
「ミィアがこの国にいる」
「ほう……ミィアがか」
アズマリアが眉をぴくりと動かしたのは、ミィアもまた、旧友のひとりだからにほかならない。
聖皇六将のひとりであり、魔属のミィア。
「どこでなにをしていたのかと思えば、こんな国にいたのか。なにをしている?」
「眠っている」
正直に伝えると、アズマリアは一瞬、間の抜けた顔になった。彼女がそんな表情をするのはめずらしく、グリフは内心驚きを覚えた。アズマリアにとっては予想外の言葉だったのだろう。
「……おまえとは逆ということか」
「そうらしい。この国の人間によれば、五十年前に発見されたときから眠り続けているそうだ。呼びかけても応えず、触れることができないから起こすこともできない。我の声も聞こえてはおらぬようだ」
グリフが眠れるミィアと対面したのは、彼がこの聖王都に連れて来られて間もなくのことだった。聖王と名乗ったあの男がグリフを聖王都に誘ったのは、ミィアと対面させるということがひとつにはあったらしい。聖皇六将同士の接触によってなんらかの変化が起きるかもしれないと期待したようだが、そんなことは起きなかった。ミィアは眠り続けていたし、グリフが触れようとしても彼女の魔力に灼かれるだけだった。
ルベレスがどのようにミィアの正体を知ったのかは不明だが、彼の不可思議な力を考えれば、想像はつく。
「おまえにしてみれば羨ましいだろうな」
「いまならばそうも想うが、五百年眠り続けるとなれば話は別だ。羨むのであれば、レヴィアを羨むよ」
「レヴィアな」
アズマリアが、なにかを懐かしむかのような表情をした。
「レヴィアの末裔にオリアスという男がいた。彼は、レヴィアから受け継いだ呪いを解く方法を探すため、わたしに弟子入りした。彼の記憶にわたしがいたからだ。おそらく、レヴィアの呪いは、記憶の継承なのだろう。オリアスは、レヴィアから自分に至るまで受け継がれてきた記憶に苛まれ、苦しみ、のたうち回っていた。わたしは、彼を憐れみ、力になってやったが、結局、彼は呪いを解く方法を見つけることはできなかった」
「いつか出会ったレヴィアの末裔は、呪われていなかったが」
「ミリュウ=リヴァイアのことだろう? あの娘はオリアスの子でな、オリアスの呪いを継承しなかっただけのことだ。別のだれかが継承したらしい。どういう理屈かは知らんし、その方法でおまえやミィアが呪いから解放されるかはわからんがな」
「可能性はある、ということか」
グリフがつぶやくと、アズマリアは考え込んだ。
「どうかな。調べてみる価値はありそうだ……よかろう」
「ん?」
「わたしが、どうやってミリュウが継承せずに済んだのか、調べてきてやろう。おまえたち旧友を呪いから解放するのもまた、わたしの悲願だ」
「……アズマリア」
「おまえにはセツナのことを頼んだのだ。つぎは、わたしがおまえのために働く番だ。そうだろう」
「旧友よ。感謝を」
「いいさ。我々の繋がりなど、本当のものかどうかもわからないくらい希薄で曖昧なものだ。それでも、我らはそれを絆と信じ、今日まで生きてきたのだ。己のために互いを利用して、な。これも、そのひとつだ」
アズマリアの言葉は、清々しい。
彼女はきっと、旧友という言葉を呪縛とは認識していないのだ。だからこそ、そこまで言い切れるし、思い切って行動ができる。グリフたちを全面的に信頼し、頼み事もできる。オリアスなるものを弟子としたのも、レヴィアの血を信じてのことだろう。その純真とさえいっていい彼女の心の有り様は、ときに危うく映る。しかし、その危うさこそがどこかのだれかのようで、彼にはたまらなく愛おしいのだ。だからこそ、彼は彼女の願いを叶えてやりたくもある。
「さて、わたしは行こう。おまえはせいぜい、ルベレスに気をつけることだ。彼は恐らく、この世界の歪みだ」
「……心に留めおこう」
「では、な」
彼女はそういうと、背後に巨大な門を出現させた。燃え盛る炎のような門の扉が開くと、アズマリア自身が火の玉となったかのように吸い込まれ、消える。扉が閉じ、門そのものが消失すると、時計塔の屋上にはグリフだけが取り残された。
彼は、だれもいなくなった虚空をしばらく見つめたあと、ゆっくりと眼下を見下ろした。
聖王都ディライアの荘厳な町並みをなにもしらない人間たちが歩いている。この国を支配するものの正体など知るよしもあるまい。
「魔人が来たようだが」
ルベレス・レイグナス=ディールが、そう話を切り出してきたのは、彼が聖王宮に戻り、ミィアの安置所で暇を持て余していたときだった。
アズマリアが去り、ひとりになった彼は時計塔を降り、聖王宮に戻った。ルベレスに呼ばれていたことを思い出したのだ。不確かな記憶に従い、ミィアの安置所に入り、時間が来るのを待った。ミィアは、人間の手でも、グリフの手でも触れることはできない。触れれば、その瞬間、彼女の全身に巡る魔力が電流の如く走り抜け、皮膚を焼き、肉を焦がす。魔属のミィアは、魔術の第一人者だった。自己防衛の魔術などお手の物であり、その程度、眠りながらでも使えるということだ。
彼女は、寝台の上に横たえられている。身の丈は、人間の女とさほど変わらないが、人間とは異なる種族であることは一目瞭然だ。魔属の女。青みを帯びた肌が特徴的な女の寝姿は、人間にとっても魅惑的なものに映るらしいが、手を出すことはなにものにもできない。
彼女をここに運び込んだのは、五十年前のこの国の主であった先々代の王であり、ルベレスではないということだ。ミィアの存在は、国王に受け継がれてきた国の秘密でもあるらしい。
ルベレスが安置所に入ってきたのは、彼がミィアの寝顔をじっと見つめていたころであり、彼が振り返ると、聖王を名乗る人物は、護衛も連れず、たったひとりでそこにいた。
「どんな話をしたのかね?」
「魔人の訪問がわかるのであれば、話の内容も筒抜けではないのか?」
「そこまで万能ではないよ」
彼は、苦笑交じりに頭を振った。美しい黄金色の髪と金色の瞳を持つ壮年の男。超然としたまなざしは、彼が巨人族の末裔にして聖皇六将のひとりたるグリフにさえ物怖じしない性格の持ち主であることを如実に示している。グリフだけではない。なにものも恐ろしくなどないのだろう。溢れんばかりの自信がなにに裏打ちされたものなのか、想像せずともわかる。
グリフを人間大の質量へと縮小させた力が、彼の自信の源だろう。
それは魔法に近い。
魔法というこの世から消失した技術を用いることのできるものなどいるはずもなく、グリフは、彼がアズマリアのいうような存在であることを認知していた。この世界の歪み。それはすなわち、異世界の存在だということだ。それもセツナのようにアズマリアが召喚したわけではなく、別の力によって召喚されていたのだろう存在。考えつくのは、ふたつにひとつ。皇魔か皇神か。そして皇魔ではないのは、一目瞭然だ。いくら皇魔の中に魔法を使う種がいたとしても、人間に化け、人間社会に君臨することなどできまい。皇魔は、本能的に人間を嫌っている。皇魔は人間を殺すことこそ好むが、人間を服従させることに興味は持つまい。
なれば、答えはひとつなのが、グリフの目の前に立つルベレスは、人間以外のなにものにも見えないのもまた、事実だった。
「なにせ、演習中だったのだ。王都にまで意識を割くことはできなかった。まだ、術式転写機構も完璧とはいえないようでね。わたしが見ていないと、暴走したときに損害が出かねない」
「不完全なものを使うからだ」
「ミドガルドの設計図に改良を加えたのがまずかったのかもしれないな」
ルベレスは、そういって肩を竦めた。人形兵器の話だろう。ディールは、人形兵器を大量に生産することで、戦力において他国を圧倒しようと考えている。実際、人形兵器の戦闘力は凄まじく、量産が軌道に乗れば、世界を制することも不可能ではあるまい。
「それで、なにを話したのかね。都合が悪くなければ教えてもらいたい」
「なにも」
グリフは、目を細めて、頭を振った。
「うぬが知りたいようなことなど、なにも話してはおらぬ。つまらぬ世間話だ」
「その世間話の内容を知りたいのだがな」
「知ってどうする」
「君を知ることに繋がる」
「我を知って、なんとする」
「我らの勝利を盤石たるものにするためだよ」
「勝利……」
反芻するようにいうと、彼は、口吻を歪めた。こちらを見据えるまなざしはそのままに、表情だけがわずかに歪む。そこにルベレスという男の本質の一部を垣間見る。だからどう、ということはない。なにも変わらない。グリフは、彼を一応は信頼しているのだ。
いや、信頼とは違うだろう。
彼ならばグリフの呪縛を解いてくれるかもしれないと期待しているだけのことだ。
「そう。ついにときが来たのだ。我らが長き宿願を叶えるときがな」
ルベレスは、拳を握り、目に力を漲らせた。瞳の奥、瞳孔から光が漏れ出て、瞳そのものが膨張したような錯覚さえ抱く。
「ようやく、ついに、やっと――見つかったのだよ。見つけることができたのだよ。いや、見つけてくれた、というべきかな」
ルベレスがなにを喜び、なにに納得しているのかはわからない。置いてけぼりにされているということだけはわかるが、それがわかったところでどうしようもない。
「彼を野放しにしておいてよかった。運命は我らに味方した。そう、我らは勝利を掴むのだ。そしてこの世に静謐を齎そう」
興奮気味にまくし立ててくるルベレスを見据えながら、グリフは、首を振る。話についていけない。
「……なにをいっているのか、わからなぬな」
「わからずともよい。いずれ、ときが来ればわかる。そのときにはグリフ。君の力を当てにしているぞ」
「戦いが起きるということか」
巨人の力を当てにする理由など、ほかに考えつくわけもない。
「そうだ。戦いが起きる。それこそ、この大陸始まって以来最大の戦いが起きるのだ」
ルベレスはグリフの想像を肯定すると、さらにまくし立ててきた。
「このワーグラーンの大地を軍靴の音が埋め尽くし、死と絶望の慟哭がこの世を染め上げるだろう。その戦いの勝者こそが、つぎの世界を手に入れるものとなる。そしてそれは、我らでなくてはならぬ。それはヴァシュタリアであってもならぬし、ザイオンであってもならぬ。我らが手にしなければならぬのだ」
ルベレス・レイグナス=ディールの声が幾重にも震えて聞こえた。
「約束の地を、この手に」
彼が発した言葉の意味はほとんどわからなかったものの、グリフは、確かにこの世界が震える音を聞いた。
運命が動き出している。
もしかすると、終わりのときが近いのではないか。
淡い期待が彼の胸に満ちた。
帝都ザイアス。
ザイオン帝国の中心都市であり、始皇帝ハインが帝国の始まりを告げた地でもある。
大陸の四分の一ほどを支配下に置く三大勢力のひとつであるザイオン帝国において、帝都ザイアスほど特別な場所はなかった。
すべての中心なのだ。
政治、経済、軍事、文学、流行――帝国におけるありとあらゆる現象の中心地であり、権力の中心であるこの地を蔑ろにすることは、帝国に生きるだれにもできないことだった。
帝国領東部に位置し、領土から見れば中心から大きくずれているものの、すべての中心であることは疑いようもない。帝国における人の流れは、帝都ザイアスに始まり、帝都ザイアスに終わる。帝国のすべての道はザイアスに通じ、帝都ザイアスこそが帝国の起源であり、象徴であり、すべてなのだ。
帝都ザイアス以外の都市は、どれほどの規模の都市であっても、帝都に成り代わることなどできない。第一の都市であるザイアスと、第二、第三の都市の差は、天と地ほどのものといってもよかった。だれもがその事実を知っているからこそ、帝都ザイアスに集まり、帝都ザイアスを褒め称える。
そうなるようにできているからだ。
なにもかも、そうなるようにできてしまっている。
数百年に渡る教育の賜物だと、ひとはいう。
五百年近く、帝国は歴史を積み上げてきた。その一年一年、一日一日を帝都ザイアスこそが素晴らしいものだと認識させるべく教育してきたのであれば、だれもが帝都ザイアスこそがすべての中心だと考えるようになるのも当然だ。
帝国人にとっての天地とはザイオン帝国であり、神とは皇帝そのひとなのだ。
「ここは、なにも変わらないなあ」
その日、ニーウェ・ラアム=アルスールは、何年かぶりに、生まれ育った地に足を踏み入れていた。
運命の歯車が再び狂おしく動き出すことも知らずに。




