第千五百六十四話 わたしの勇者様
アズマリア=アルテマックス。
旧友として彼は認識している。
曖昧で不完全で不鮮明な記憶の中、彼女に関する想い出を取り出すことは不可能に近い。頭の中を覗き込み、記憶の深淵を探ろうとも掴み取れるのは霞のように頼りない幻影だけだ。本当の記憶などどこにあるのか。そもそも、自分という存在さえ虚構なのではないかと考えてしまいかねないほど、彼の記憶は不確かだった。
不老不滅不眠。
聖皇の呪縛は、彼に死という生命にとっての根源的な恐怖を取り払ったが、死ねないことによって永遠に苦痛を受け続けなければならなくなったのだから、喜ばしいことではない。
その呪いさえも記憶違いなのではないかと想うのだが、どうやらそうではないということは、アズマリアの存在が証明してくれる。
旧友は、彼が呪われ、五百年の長きに渡ってこの大陸をさまよい続けていることを知ってくれているのだ。
そして、彼が真に死ぬための方法を探してくれてもいる。
だから、彼は、旧友の頼みを聞き、セツナの守護者となった。が。
「結局、負けたようだな」
アズマリアが唐突に突きつけてきた言葉に対し、グリフは反論しようとも思わなかった。吹き抜ける風がアズマリアの髪を炎の如く揺らめかせている。
「負けた。敗北だ。認めよう」
「あっさり認めるものだ。反論くらいするかと思ったのだがな」
「負けた事実を覆すには、勝利を突きつけるほかはない。言葉で取り繕うことなどできるものではない。現実を言葉で改竄することなどできまい」
「ふむ……その通りだ」
「セツナは、強い。少なくとも、不老不滅の我よりも余程強力だ。我は全力で、それこそ、うぬとの約定も忘れて戦ったが、勝てなかった」
それは、セツナ個人の力というよりは召喚武装・黒き矛の力だ。だが、黒き矛の力を存分に引き出し、暴れ回ったのはセツナ個人の意志であり、セツナが黒き矛を使いこなしたからこその結果だといっていい。それはセツナの力といっても過言ではないのだ。
「当然だろう。セツナはわたしの勇者様だぞ」
アズマリアが、セツナへの賞賛に対し、妙に嬉しそうな表情をした。冷酷無比な魔人らしくもない表情と声音、そしてその言葉に彼は既視感を覚える。どこかで聞いたことがある気がした。
「勇者様……」
「彼にはいずれ、そうなってもらわねばならぬ。この世界を救う勇者にな」
アズマリアの目的は、それなのだ。この世界を救うという大目的があり、そのために彼女は暗躍している。世界中を飛び回り、力有るものを探している。利用できるものはすべて利用するつもりなのだ。
「勇者……か」
再びつぶやく。
妙な引っかかりを覚える言葉だった。記憶の奥底に沈み込み、忘却してしまったはずの情報の断片が闇の中にきらめき、繋がって、浮上する。勇者というたったひとつの言葉が、記憶を蘇らせるきっかけとなろうとしている。
「なんだ?」
「いや……少し思い出しただけだ」
わずかばかりに蘇った記憶は、おそらくグリフ自身の正体に繋がるものなのだろうが、やはり漠然としていて全貌を掴むことはできなかった。勇者。その言葉に魅入られたものがいたというだけの記憶。
「かつて、勇者になろうとしたものがいたことをな」
「ほう。初耳だな。そのものは勇者になれたのか?」
「さあ……な」
グリフが頭を振ると、アズマリアは落胆を隠さなかった。
「なんだ。思い出せないのか」
「……我の記憶は、当てにならん」
「困ったものだ」
「うぬも同じだろうに」
「そうだな。それも、困ったものだ」
魔人は肩を竦めると、眼下に視線を落とした。聖王都ディライアの美しい町並みが魔人の心を潤すとは想えないし、彼女が風景に心を奪われるとも思えない。ただ、グリフばかり見ているのが嫌になっただけだろう。そんな気がして、彼は肩を竦めた。彼女とは長い付き合いだ。
(おそらく……な)
あやふやな記憶を曖昧なままにしておくのは不愉快だが、仕方のないことだ。彼は苦い顔をする。不老不滅、それに不眠だけならばまだよかった。眠れないことが記憶を削り取り、自分がなにものであるかさえ忘れさせていくのは、苦痛以外のなにものでもない。アズマリアと遭うことでようやく己を取り戻したこともあったくらいには、自分を見失うことが多い。
そういう意味では、アズマリアという存在には感謝していた。彼女がいなければ、グリフはこの大地を彷徨し、破壊と殺戮を続けるだけの存在と成り果てていたかもしれない。不老不滅不眠。そんな怪物が何百年も暴れ回れば、世界はどうなっていたのだろう。
そのような想像をして、頭を振った。
アズマリアがこちらを見ていた。金色に輝く眼。呪われた眼。魔人の眼。
「しかし、奇異だな」
「なにがだ?」
「うぬのことだ。うぬは我にセツナを護って欲しいと頼み込んできた。我はうぬの頼みを聞き入れ、セツナを護らんとした」
ベノアガルドでのことだ。
アズマリアは、騎士団とセツナが直接戦う可能性を考え、グリフにセツナを護るようにと頼んできたのだ。グリフは旧友の頼みということで聞き入れた。
騎士団の――神の力の前には為す術もなかったが、それは仕方のないことだ。いかな巨人族とて、神の前では赤子同然といっていい。巨人族でそれなのだ。巨人族の末裔に過ぎない彼には、どうすることもできなかった。追うのが精一杯だった。セツナを救出する
「それのなにが奇異だというのだ? セツナはわたしの目的のために必要不可欠な存在だ。不老不滅のおまえに頼むのは自然な流れだ」
「それが、奇異だというのだ。己の目的のために必要というのであれば、うぬが護ればいい。うぬは無力な人間ではあるまい。少なくとも、この世界において最高の力をもったひとりではないか」
「それは間違いだ。確かにわたしはこの世界の人間の中では並ぶもののない力を持っている。だが、それだけのことだ。それ以上のものではない。だからこそセツナやクオンを召喚したのだ。彼らの力なくしては、この世を救うことはできない。そして、目的を果たすためには、力だけがあっても意味がないのだ。知らなければならない」
「なにを知るというのだ」
「どこに敵がいるのか。わたしはまだ、敵がどのようなものなのかさえわかっていない」
「記憶のせいか」
「ああ。曖昧なのだ。なにもかもな」
アズマリアが苦い顔をしたのは、彼女自身、曖昧な記憶に振り回されることに苦々しい想いでいるからだろう。
「しかし、この大目的を果たさなければならないということは確かなのだ。魂が命じる。この世界に巣食う邪悪を祓い、あるべき状態に戻すべきなのだとな」
「なればこそ、うぬ自身がセツナを護るべきだ」
「違うな」
彼女はグリフの言葉を一蹴した。
「セツナはまだ幼い。ようやく成長し、黒き矛も軽々と扱えるようになったが、まだまだだ。もっと力を使いこなせるようになって貰わねばならん。それこそ、おまえなど一蹴できる程度では物足りんのだ」
「ほう……」
「力をつけるにはどうすればいいか。簡単だ。試練を与えることだ。だが試練にわたしが付き合えば、過保護になろう」
甘やかしてしまいかねない、と彼女はいっているのだが、アズマリアほどの苛烈な人間が多少甘やかしたところで問題なさそうなものだが、彼女はそうは想わないらしい。彼女が望むだけの力を身に着けさせるには、苛烈で過酷な試練でなければならないのだろう。そこまでしなければセツナが黒き矛の力を使いこなせるようにならないと踏んでいる。なぜそこまでわかるのかはわからないが、魔人の考えることだ。すべてが正解というわけもあるまい。
「ふむ……それで我に護衛を頼んだか。我ならば過保護にならんと判断したか」
「結果、見ての通りだ。おまえの適度な護衛がセツナの力を引き出した」
アズマリアの皮肉めいた発言にも、グリフは眉ひとつ動かさなかった。その通りだ。グリフは旧友との約束を護ろうとはしたものの、セツナを守りきることはできなかった。その結果、セツナは黒き矛のさらなる力を引き出せるようになったのは間違いない。犠牲を払うことにはなったが、それこそ、アズマリアの目論見どおりなのだろう。
「騎士団は、セツナが同志にならなければ殺すつもりだったようだが、わたしがそうはさせないさ。もっとも、わたしの出番はなかったがな」
「ラグナが死んだ」
「ああ。それがラグナの使命だ。あれもまた、セツナの護衛として遣わせた」
平然と、いう。しかし、疑問も生まれる。アズマリアは、セツナを救い出せる場所にいたというのだ。ならば。
「うぬがいたのであれば、ラグナが死ぬ必要はなかったのではないか?」
「もちろんだ。わたしがラグナごとセツナを連れ出すことは可能だった」
魔人は、それがどうした、とでもいわんばかりの冷ややかさで、いった。
「だが、それでは試練にはならん。ラグナには、セツナの力を引き出すための糧となってもらうことにしたのだ。怒りは、力を引き出すには最適だ。実際、セツナはラグナが死んだ悲しみと怒りで黒き矛の力を解放した。その事実はおまえが一番良く知っているだろう」
「ああ」
「わたしの賭けは成功した。セツナはますます強くなった。これからも強くなり続けるだろう。そしていつか、この世を覆う邪悪を振り払い、勇者となるのだ」
魔人は、まるで悪しき魔王のように傲然と、この世界を救うという大目的を言い放ち、グリフにはその姿が矛盾しているように思えてならなかった。




