第千五百六十三話 兆し(二)
「それは構いませんが……なにかあったんですか?」
セツナは、ミドガルドのいつになく真剣な表情に胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。ミドガルドは飄々として掴みどころのない人物だ。研究やウルクのことに関しては常に真剣ではあるものの、表情そのものが硬質化することはほとんどなかった。どんなときだって余裕が感じられるのが彼だったのだ。
それなのに、いまのミドガルドからは余裕が感じられなかった。どこか逼迫しているような感じさえある。
「ミドガルド。どういうことでしょうか。わたしの躯体は問題ないとの診断結果だったはずですが」
ウルクがミドガルドに質問したのは、彼女も聞かされていなかったことなのだろう。感情の起伏のない声音の中に動揺を認める。ミドガルドが、小さく頭を振った。
「ウルク、君の躯体の問題ではないのだ」
ミドガルドが上着の内側から一枚の紙片を取り出した。文字がびっしりと書き込まれているところを見ると、手紙のようだ。
「わたし宛の手紙が、ついさきほど王都から送付されてきましてね」
「王都から? 王宮からなにか指示でもあったんです?」
「そういうわけではなく、聖王国のわたしの部下から、王都にいるであろうわたし宛に送られた手紙なんですよ」
それを王宮のだれかが知り、龍府にいるであろう彼のもとに送付したということらしい。
「ディールでなにかあった、ということですね?」
嫌な予感が胸の内で膨れ上がるのを止められない。
ミドガルドがウルクを伴い、ガンディアを訪れたのは、昨年のことだ。一年も経過していないが、その間、彼が神聖ディール王国と連絡を取り合った形跡はない。彼からディールになんらかの報告が行われたこともなければ、ディールから彼に指示書や手紙が届いたこともなかったのだ。それは彼がディールを勝手に飛び出してきたことが原因であったのだろうし、ディールの人間が彼の動向を性格に把握していなかったことも影響していたのだろう。
「そういうことです。いますぐ、聖王国に戻らなくてはなりません」
「わたしも同行しなければなりませんか?」
「もちろんだよ。君の気持ちを考えれば、セツナ伯サマの元に置いておきたいが、躯体の整備はわたし以外のだれにもできないからね。故障されても困る。無論、わたしたちの最高傑作たる君がそう簡単に故障するはずもないが、万が一ということも考えられる。もし、十三騎士と再度戦うようなことがあったら。マクスウェル=アルキエルほどの武装召喚師がガンディアの敵として現れたら。たとえ君とて無傷ではいられまい。定期検査、調整も行えないのだ。君も、わたしがガンディアに戻ってくるまでに不調になり、セツナ伯サマのお力になれなくなるのは我慢できないだろう?」
ミドガルドが早口でまくし立てると、ウルクは反論ひとつせずにうなずいた。
「はい」
どこか落胆しているような表情に見えるのだが、金属の外皮に覆われたウルクの表情が変化するはずもない。気の所為であり、思い違いであろう。
「わたしとともに聖王国に戻れば、完璧に修理することも可能だ。再びガンディアを訪れた暁には、セツナ伯サマにさらなる奉仕ができると考えれば、一度聖王国に帰るのも悪くはないだろう」
「異論はありません」
ウルクが多少元気を取り戻したように思えた。ウルクには確かに感情があるのだ。感情を表現する手段をほとんど持っていないだけのことであり、セツナがそう感じるのは、気の所為などではないと思うようにした。
ミドガルドがウルクを見る眼差しは、実の娘を見守る父親のそれのように慈愛に満ちている。
「ミドガルドさん」
「なんでしょう」
「話せないのなら構いませんが……なにが起こったのか、聞いてもよろしいでしょうか?」
「……ええ。今日までセツナ伯サマには世話になりっぱなしだったのです。当然、セツナ伯サマには知る権利がございましょう」
ミドガルドは、手紙を上着の内側に戻して、セツナを見据えてきた。世界最高峰の知性が宿るまなざしは、真剣そのものだ。そして、彼の口から発せられた言葉は、セツナの想像を遥かに超える衝撃を持っていた。
「聖王国が魔晶人形の量産に成功したというのです」
「魔晶人形の量産……?」
「それってつまり、ウルクがたくさん開発されたってこと?」
「そういうことになります」
ファリアの言葉を肯定したミドガルドに周囲の視線が集中する。
ウルクと同程度の性能を持つ魔晶人形の量産。
それは、ミドガルドの目標とするところだという話だった。ウルクを完全な形に作り上げた上で量産することこそが彼の至上命題であり、そのためにもウルクを完成させるべく、彼はガンディアを訪れた。ウルクの心核、黒色魔晶石を動かす特定波光の研究と解明を進めるためだ。彼は、特定波光を人為的に発生させる手段や方法を作り上げることが、量産の最低条件として上げており、その条件はまだ満たしてはいない。特定波光を解明してもいないのだ。
それなのに、彼の国で量産に成功したという。
「が、本来ならばありえないことです。そもそも、魔晶人形の研究開発自体、わたくしどもの研究所で秘密裏に行っていたこと。国が知る由もありませんし、ウルクの起動実験に成功し、量産の可能性が生まれたということなど知っているはずもない。そもそも、量産など不可能に近い。ウルクの起動に成功したのは、たまたまであり、偶然の産物にほかなりません。奇跡といっていい。たとえ黒魔晶石を心核に採用したからといって、同じように起動するのかどうかも不明なのです。特定波光を安定的に供給できない以上、安定的に起動させることは不可能でしょう。量産など、できるわけがない」
ミドガルドは、不可解だとでもいわんばかりの表情だった。実際、彼にとっても理解のできないことが手紙に書いてあったのだろう。彼に理解できないことがセツナにわかるはずもない。
「それなのに、量産に成功したという。わたしは、この目でその事実を確かめなければなりません。もし、本当に魔晶人形の量産が成功したというのであれば、恐ろしい事態になりかねない」
「恐ろしい事態……」
「聖王国が野心を抱かないとも限らないということです」
ミドガルドの神妙なまなざしは、彼がこの問題を深刻に考えているということにほかならず、セツナもまた、深刻に受け止めずにはいられなかった。
聖王国が野心を抱くということはつまり、量産した魔晶人形という過剰戦力によってディールの勢力範囲の拡大を図るということではないのか。そしてそうなれば、どうなるか。三大勢力の一角が動き出すということはつまり、ほかの勢力――眠れる巨獣たちが目を覚ますということにほかならない。三大勢力は、その均衡が崩れるのを酷く恐れている。
そして小国家群は、その危うい均衡の中で存在していたのだ。
均衡が崩れたとき、それは小国家群が終わりを迎えるときでもある。
ミドガルドのいう恐ろしい事態とは、それだ。
「こんなところにいたのか」
聞き知った声があきれたようにいってきたのは、グリフがぼんやりと聖王都の町並みを見渡しているときだった。
肌寒い風が吹き抜ける中、日差しを浴びて燦然と輝く純白の都は、目に痛いほどだった。頭上には滲んだ青空が広がり、太陽が分け隔てなく光を降り注がせている。雲は遠くを流れ、光を遮ることはない。美しい町並み。建物や道路の白と水路に輝く空の青が生み出す色彩が、ひとの手によって作り出されたものとは思えないほどの美しさを表現している。
聖王都ディライア。
その時計塔の屋根上に彼はいる。
「我を探していたのか」
振り向くと、女が、紅蓮の炎の如き長髪を風に靡かせていた。アズマリア=アルテマックス。
「ああ。しかし、どういうことだ?」
「ん?」
「なぜ、そんなに小さくなっている」
「これか」
グリフは、自分の手足を見た。身の丈から手足の大きさに至るまで、人間と同程度の大きさになってしまっているのだ。本来の彼は、現在の姿の何倍もの巨躯を誇るのであり、彼女が疑問を抱くのは当然だったし、見つからなかったのもそのせいだろう。巨人を探していたのだ。人間の中に紛れ込んでいては、見つけられるものも見つけられまい。
「よくわからぬ。ルベレスとかいうものの仕業だということ以外はな」
手のひらを閉じ、開く。体を動かす感覚はそれほど変わらないが、全身が極めて軽くなっていることは実感として理解できる。ただ、巨躯のままの感覚でいると、色々と失敗することがある。聖王国軍の訓練に付き合ったときなどは、目測を見誤ることが多々あった。巨人の感覚と人間の感覚は大きく異なるということだ。
「ルベレス……聖王か」
「確か、そうだ」
聖王。聖皇とは異なるが、聖皇の名乗った称号を勝手に名乗っているところをみると、聖皇を勝手に継承したつもりなのかもしれない。彼は不思議な力の使い手であり、グリフを人間大の大きさにしたのもルベレスの力だった。魔法に近い。人間がそんな力を持っているわけもなく、ルベレスはおそらく人間ではないのだろう。でなければ、巨人を人間ほどの大きさに縮小することなどできるわけがない。
その不思議な力で呪いを解くことはできないのか、と聞いたところ、不可能だという答えが返ってきたのには、彼は落胆したものだった。
「おまえの記憶力は当てにならんな」
「仕方のないことだ。しかし、貴様は覚えている」
「……忘れようがない」
アズマリアが肩を竦めた。
「ふむ……それで、なんのようだ?」
「話をしに来ただけだよ」
「話か」
「つまらなそうな顔だな」
「うぬと話をして、つまることなどなにもない」
「そうはいうが……セツナの話は、悪くなかっただろう」
「……ああ」
それは、認める。
セツナ。
黒き矛の使い手たる人間との戦いは、結局のところグリフの完敗で終わったものの、決して悪いものではなかった。
むしろ、再戦を望んでいる自分がいる。




