第千五百六十二話 兆し
イシカへの出撃準備のため、天輪宮中が大騒ぎになっていた。
動員する戦力は、決して多くはない。
先発した――ということになった――星弓戦団八百名を含めても二千に満たない人数であり、それだけの人数で一国の軍勢と対等に戦おうというのだから、この国の軍師というのはどこか狂っているのではないか、と思わないではない。
しかし、その狂気にこそ感謝しなければならないのもまた、事実だった。狂っていなければ、どこかでタガが外れていなければ、命令を無視し、勝手に飛び出したイルダたちの救援に向かおうなどとは言い出すまい。言い出したとしても、即座に行動に移そうなどとはしないだろう。まず、戦力をしっかりと整え、戦術を練り上げてから、ようやく行動に移すのが普通だ。
狂気に駆られなければ、こんなにも速やかに出撃に向かうことなどできまい。
サラン=キルクレイドは、ぼんやりと、そんなことを考えている。
なにもかもが加速度的に進行していく中で、彼の思考だけが置いて行かれているような、そんな感覚があった。ついていくのでやっとだ。やっとの思いで、ついていける。それが決して心地悪くないのだから、不思議だった。
「どうしたんだ、サラン殿」
声に目を向けると、黒髪の男が歩み寄ってくるのが見えた。エスク=ソーマだ。アバードで名を馳せていた傭兵集団シドニア傭兵団においてもっとも有名な剣豪であり、“剣鬼”ルクスに匹敵するということで“剣魔”と呼ばれるようになった男だ。イシカにおいても有名だったのは、アバードが近隣の国であり、相争ったこともある国だからだ。シドニア傭兵団とは戦場で相対したこともあった。
なにかと縁のある人物だと想わないではない。
こうしてサランがここにいるのも、彼が縁を紡いでくれたおかげでもあった。
「……エスク殿か。よく、わからなくてな」
「あなたほどの男が、なにがわからないってんだ?」
「セツナ様だ」
サランの視線の先に、その人物はいる。黒髪に赤い瞳の青年。少年の面影を多分に残した人物で、今年十九歳になるはずだった。立派な成人であり、青年といって差し支えあるまい。ただ、その外見上の妙な幼さから彼を少年と認識するものは少なくない。凄まじいまでの戦歴も、普段の彼を厳しく飾り立てることがなく、そのことが余計に彼を幼く見せるのかもしれない。
「大将が?」
エスクが訝しんだのは、サランの疑問が理解できないからだろう。サランは、部下たちになにか指示を飛ばしたり、ミリュウやレムと話し合ったりしているセツナを遠目に眺め、エスクに視線を戻す。
「なぜ、あそこまで他人のために戦える?」
「……さあね。俺も、そこんとこはよくわかんねえな」
彼は頭を振り、セツナに目を遣った。そのまなざしは、柔らかい。
「ただ、ひとつだけいえることがある。あのひとにとっちゃ、自分の命なんざ、これっぽっちも重くないのさ。自分より他人なんだ。ほかのだれかを優先しちまう。それがあのひとだ」
エスクは、サランよりも余程セツナを見てきている。その目がいうのだ。
「いい漢だろう。あのひとほどの漢は、そうはいない。あのひとはいつだって、だれかのために戦っている。自分のためじゃなく、自分以外のだれかのためにな。だからこそ、俺はあのひとに剣を捧げるんだ。あのひとがだれかのために戦うのなら、俺はあのひとにために戦おう。そう心に決めた。決めたんだよ」
「“剣魔”がそこまで惚れ込むか」
「出会いは最悪だったがな……いまじゃ、その出会いに感謝すらしているよ。出会ってなきゃ、俺はいまも死地を求めて彷徨っていたか、どこかで野垂れ死んでいただろうからな」
エスクは、遠い目をして、いった。彼がなにを見ているのかは想像もつかない。しかし、セツナが彼ほどの男が惚れ込むだけの人物であることは、確かなようなだ。
「弓聖は、どうだい?」
「いったはずだよ、“剣魔”。わたしはセツナ様に弓を預けた。あとは矢となり、敵を貫くのみ」
手のひらを開き、握りしめる。そこに架空の弓を思い描き、右手に矢を夢想する。弓とはセツナであり、矢は己だ。放たれれば、ただ弓の望むとおりに的を射抜くだけが矢のさだめ。それでいいのだ。
ただ、サランがセツナに弓を預けたのは、それが王命だからだった。
それがエスクとは違う。
レオンガンドの命令によって、サランたちはセツナの家臣となった。それはサランたちにとってもありがたいことだった。元々イシカの軍人である彼らにとって、理由があってガンディアに属することになったとはいえ、ガンディア軍に入るよりは、セツナ軍の一員になるほうが感覚的にましだったのだ。無論、本質は何ら変わらない。変わらないのだが、自分を騙すことはできる。ガンディアにではなく、セツナ軍に属するということで、目線をそらすことができるのだ。
それだけのことだ。
それだけのことだと、想っていた。しかし。
「その想いがより一層強くなっただけのことだ」
サランは、セツナがイルダたちを救援すると言い出したときのことを想い出した。心が震えるようだった。魂が灼かれるようだった。これほどまでに感情を突き動かされたことは、これまであっただろうか。そう考え込んでしまうくらいの衝撃が彼の心を貫き、その瞬間、サランは改めてセツナに忠誠を誓ったし、彼の家臣になって良かったと心の底から想ったのだ。
イルダたちの勝手な行動は、許されないことだ。断罪されても仕方のないことだし、黙殺されてしかるべきことだ。
だが、同時に理解できることでもある。ヒエルナ大監獄への投獄は、死の約束といっていい。投獄されれば死ぬまで――いや、死んでも出ることは許されないのだ。そこへ肉親が投獄されたといわれれば、なんとしても助け出したくなるのが人情というものだ。たとえ助け出せなくとも、指を咥えてみていることなどできはしまい。
だからこそ、サランは、イルダたちをなんとかして救援しようと考えてくれたセツナに感謝の念を抱かざるを得なかったし、その方向性で考えてくれたエインにも、感謝していた。
「そうかい。それを聞いて、安心したよ」
エスクが爽やかな笑みを浮かべたのは、同志となれたからなのか、どうか。少なくとも、彼とは今後、セツナの家臣としてともに死地を越えていくことになるはずだ。
「“剣魔”殿」
「ん?」
「部下の救出への力添え、よろしく頼む」
「ああ、任せな。だれひとり死なせやしねえ」
“剣魔”エスク=ソーマのその言葉ほど心強いものはなかった。
「二千人に満たぬ軍勢ですが、まあ、イシカ軍くらいなんてことはないでしょう」
エインが書類と睨み合いながらそんなことをいってきたのは、出撃準備中のことだ。軍勢とは、セツナ軍が動員しうる人数に過ぎない。二千人どころか、現状、千人にも満たない。黒勇隊を呼び寄せれば千人は越えるが、エンジュールの護りの要である黒勇隊を連れて行くわけにはいかない。そもそも、黒勇隊が龍府にたどり着くのを待っているだけの時間的猶予はなかった。
イルダたちはとっくに龍府を発っているのだ。急がなければならない。急いだとしても、間に合わない公算のほうが強いのだ。イルダたちがセツナたちの後援を当てにせず、大監獄攻略を急いだのであれば、セツナたちと合流前に壊滅したとしても不思議ではない。その覚悟だけはしておいて欲しい、とはエインの言葉だ。セツナもそれはわかっている。そのうえで、ひとりでも多くの配下とその家族を救いたいというのがセツナの想いだった。
「そりゃそうよ。セツナひとりでも十分だもの」
ミリュウが当たり前のようにいった。
「おいおい、さすがに俺ひとりじゃあきついだろ」
「どうかしらねー」
「ファリアまで……」
セツナが、ファリアとミリュウの自分の扱いに困惑していると、ミドガルド=ウェハラムがウルクを伴って歩み寄ってくるのが視界に入った。
「セツナ伯サマ、少しよろしいでしょうか」
「はい?」
「ウルクの同行は、見送らせて頂きたい」
神妙な面持ちでミドガルドが告げてきた言葉は、まったく予期せぬものだった。




