第千五百五十八話 ハーマイン=セクトルの誤算
大陸暦五百三年六月二十二日。
ハーマイン=セクトルは、敵が策にかかる瞬間をじっと待っていた。
ザンコート砦を遠方に見遣るザーナの丘に、彼は約五百名の兵を引き連れて潜んでいる。ザーナの丘は、現地の人間にはザンコートの丘と対をなす丘として知られ、ザンコート砦建造当時、ザーナの丘にも砦を作るべきではないかという議論が起こったほどだ。ザンコートとザーナの二砦を北の守りの要とする、という案は、しかし、費用や兵力の観点から却下された。ザンコートとザーナは、歩行で数時間ほどの距離しか離れていないということもあった。
ただ、軍事上重要な地形であることには当時から着目されており、ザンコート砦とザーナの丘を結ぶことでル・ベールの護りはさらに強固なものになるということもあって、簡易的に拠点が築かれていたのだ。
彼は、その簡易拠点に身を潜めた。手勢として五百人のみを引き連れ、残りはザンコート砦を任せた腹心の軍団長に率いさせていた。そして、メリス・エリスとガロン砦の援軍をザンコート砦に向かわせることで、敵軍の目をザンコート砦のみに向けさせた。
その思惑は、半ば成功している。
物見からの報告では、敵軍はザンコート砦に向かって進軍している最中だという。このままザンコートに食らいついてくれれば、ハーマインはその隙に西に逃れることができるだろう。そして、西からこちらに向かっている援軍と合流することで戦力を整えるのだ。
戦力さえあれば、あとはどうとでもなるはずだ。
(なにもジベルに拘る必要はない)
彼は、臍を噛む想いで、胸中で吐き捨てた。唾棄すべきは、ジベルという天地に拘りすぎてしまった己の愚かさであり、浅慮であろう。ジベルという国に囚われるあまり状況を見失い、敵の襲来を許してしまった。
それがただの敵ならば、いい。
ただの有象無象の軍勢ならば、問題はない。ハーマインの策を持ってすれば、いくらでも戦いようはあるし、いなし、撃退することだって可能だ。自分はジベルの将軍なのだ。ジベルを真に支配し、ここまで発展させてきた男なのだ。たかが雑兵の集団に負けるはずもない。それがどれほどの大軍勢であってもだ。勝てる道理がある。
だから蜂起し、ジベル政府に反旗を翻したのだ。
勝てる見込みがあった。
政府軍を打ち倒し、ジベルそのものを手中に収める算段があったのだ。だからこそ、彼は立ち上がった。立たねばならなかった。政府の言い分に唯々諾々と従い、死ぬ真似などできるわけがない。
ジゼルコートについたことが罪だというのであれば、ルシオンもマルディアも対等に罰せられるべきであり、彼のみがその罪を償わなければならないというのは、道理に合わないことだ。いや、そもそも、ジゼルコートに通じたことも、ジベルのためだ。ジベルを今後発展させる上で障害となる存在を排除するには、ジゼルコートと手を組み、レオンガンドを滅ぼすほかなかったのだ。レオンガンドのガンディアでは、ジベルの将来は暗雲に閉ざされるのみであり、発展性など存在し得ない。
レオンガンドの夢は小国家群の統一だという。それも、小国家群全土を支配下に置くということだけを念頭に置いているわけではなく、同盟や従属による結びつきでも構わないと宣っている。そこにジベルの輝かしい未来図を見ることはできない。
故に彼はレオンガンドを亡き者にするというジゼルコートの提案に飛びつき、準備をした。真死神部隊の結成や、戦力の増強もそうだ。すべて、レオンガンドという最悪の存在をこの世から消し去るためのものであり、それはジベルのためだったのだ。
この国の未来のために――。
それが失敗に終わった。
その途端、ハーマインは追われる立場となった。
セルジュ・レイ=ジベルなどという青二才に、命を差し出せと命じられたのだ。
ハーマインは激怒した。
政のなんたるかも知らない子供に、政治の責任を果たせといわれることほどの屈辱はなかった。
彼は、ジベル王家を滅ぼし、ジベルという国そのものを我が物にしようと考えた。時期もちょうどよかった。ガンディアの長きに渡る戦いが終わり、ガンディア軍は消耗し尽くしていた。失った兵力を回復するためにも、戦いを休む必要が生まれた。外征は愚か、他国の内乱に干渉する余地などあるわけがない。事を起こすのは、いましかなかった。幸いにも、マルディアから帰ってきた軍団こそ損耗していたが、国内に残った彼の息の掛かった軍団は兵力を失ってもいなかった。消耗さえしていない。その軍勢を主軸に戦力を整えれば、ジベル政府軍などたやすく蹴散らすことができるだろうし、ジベル王家を打倒し、ジベルを掌握することさえできれば、ガンディアとの交渉の席に着くこともできるだろう。
そのときには、セルジュが責任を取ったといってやればいい。
そう考えていた。
しかし、セイドロックを発し、国境を越えて襲来したのがセツナ率いる軍勢だと知れば、考え方も変えよう。変えざるを得ない。
黒き矛のセツナ率いる軍勢が相手となれば、いかに大軍とて意味を成すまい。武装召喚師を揃えることができていれば話は別だが、彼の配下の武装召喚師は三人だけであり、そのうち戦闘向きは二人だけだった。そのふたりで黒き矛を制圧できるかというと疑問しか生まれない。ハーマイン軍の全戦力をかき集めても、一蹴される未来しか見えない。
セツナの力を過大評価しているわけではない。むしろ、低く見積もってそれだ。最低限、それくらいはやってのけるだろうというのがそれなのだ。実際は、それ以上の戦果を見せつけるのが黒き矛のセツナであり、ガンディアの英雄なのだ。
クルセルク戦争を思い出しても見よ。
彼は、一万以上の皇魔をたったひとりで殲滅してみせたのだ。
それがどれほどまでにおそろしく、ありえないことなのか、皇魔と戦ったことのあるハーマインには実感として理解できるのだ。
正面切って戦うべきではない。
策を弄して時間を稼ぎ、その間に逃げおおせる以外に生き延びる道はない。
生き延びるのだ。
生きて生きて生きて、そして勝利を掴み取るのだ。
そのためにザンコート砦には犠牲になってもらうつもりだった。
「報告!」
拠点内に飛び込んできたのは、伝令の兵士だった。肩で息をしているところを見ると、余程急いできたようだが、それはハーマインの不興を買わないための努力だろう。現在、情報こそが彼の生き死にを決めるものであり、情報の更新といち早い入手こそが彼の計略の成否を決めるものだった。そのため、彼は物見や伝令に迅速な行動を指示し、理解できないものには制裁を加えた。駆け込んできた伝令もそのひとりだ。
「敵軍、ザンコート砦への攻撃を開始したとのこと!」
「食らいついたか」
ハーマインは伝令兵の報告に腰を浮かせ、そのまま静かに立ち上がった。
「全軍に伝達。三十分後、我が部隊はザーナより出撃する。出撃準備に入れ」
「はっ!」
室内に控えていた複数名の伝令兵が同時に起立し、敬礼すると、速やかに退室していった。
「……なるほど。敵軍の後背を突き、混乱に陥れるのですね?」
「そしてその混乱の隙にセツナ伯を斃すと」
「さすがは将軍閣下」
と、口々にいってきたのは、ハーマインが身辺警護のために置いていた武装召喚師たちだ。実力、人格ともに申し分のない三名は、ゆくゆくは軍幹部にするつもりで育成していた。しかし、いまのところ、ハーマインの意を汲んでくれるほどにはなっておらず、彼は、三人の顔を順番に見回した。
室内には、三人の武装召喚師のほか、物見の報告を伝えに来た伝令兵と、複数人の幹部がいる。彼らは皆、ハーマインが手塩にかけて育て上げた軍人たちであり、その力量は彼の眼鏡にかなうものだ。だからこそ、ハーマインは彼らを自軍に加え、引き連れてきたのだ。彼らを餌にするのは、あまりに惜しい。
つまり、逆をいうと、ザンコート砦に残してきたものたちは、餌とするのも惜しくない程度の人材ばかりだということだ。ザンコート砦の指揮を任せた軍団長だけは、惜しい。彼は、ハーマインの意を組むことのできる数少ない逸材であり、手放したくなどなかった。しかし、彼ほどのものでなければハーマイン不在のザンコートを纏め上げることは難しく、故にハーマインは彼を手放した。そうしなければ、ハーマインはジベルを生きて脱出できない。
己の命ほど大切なものはない。
生きていれば戦い続けることができるし、自分ほどの才覚があれば、どのような状況からでも返り咲くことができるという確信が彼にはある。だが、死ねばそれで終わりだ。死ぬわけにはいかない。たとえそのために腹心とでもいうべき人材を手放さなければならないのだとしても、自分が死ぬよりは何倍もマシだ。
「将軍閣下……?」
「どう、されました?」
「貴公ら、なにをわけのわからぬことを申しておる」
「は……?」
武装召喚師たちの唖然とした反応を見て、彼は肩を竦めた。道理を、教えなければならないらしい。
「セツナ伯と戦ってどうなる。我らはこれより西へ向かうのだぞ」
「西へ……ですか?」
「なぜです?」
「逃げるに決まっている」
彼は、平然と告げた。幹部たちの反応など、気にもしなかった。幹部の中には、ハーマインがセツナ軍を撃退するべく策を練っており、手勢を率いてザンコートを離れたのも、計略によって敵軍を撃破するためだと考えているものもいた。それは、ハーマインがザンコートを出る際にそう嘯いていたからでもある。そういわなければ、いかにハーマインといえど、ザンコートから出ることは難しかったからだ。
彼は、部下を騙し、ここまできたのだ。
それもこれも自分の命を護るためにほかならない。
「どこへ……でございますか?」
「さてな……ひとまずはザンコートに向かっているであろうメリス・エリス、ガロンの将兵と合流することだ。戦力を確保し、情勢を見て国外への逃亡を図ることを考えている」
彼は幹部たちの質問に答えながら、部屋の奥に向かった。窓から、外が見える。いまにも雨が降り出しそうな空の下、伝令兵の号令が響き渡っている。待機中だった部隊に緊張が走ったことから、それがわかる。
「なるほど。ジベルの掌握は諦めた、ということでございますね」
「ああ。そうだ」
「それはよいご決断でございますね。しかし、幾分、判断が遅すぎたように思えます」
「……仕方があるまい」
彼は、窓の外に目を向けたまま、嘆息した。予期せぬことさえ起きなければ、そのような判断を下すことなどなかったのだ。
「まさか、ガンディアがセツナ伯を差し向けてくるとは想うまい」
「休暇中でございますものね」
「うむ……だが、一考の余地はあったのだ。ガンディア軍ではなく、セツナ軍ならば動かしうる。わたしの失態だな」
可能性の問題だ。
それも、限りなく低い可能性として考えられることではあったのだ。それを考慮しなかった。考慮に入れなかったのだ。考えたくもなかったのだろう。黒き矛のセツナと対峙することになるなど、考えたくなどなかったのだ。その結果がこの惨状というのだから、彼は唇を噛むよりほかない。考えれば考えるほど、甘く見ていたことがわかってくる。
「では、その失態のつけを払われてはいかがでございましょう」
「……なんだと?」
彼は、眉根を寄せ、発言者に向き直った。幹部の発言にしては、少々毒が過ぎるのではないか。彼は表情でそれを伝えようとしたのだが、発言者を目の当たりにした瞬間、思考が硬直した。
「お久しゅうございます、ハーマイン=セクトル様」
柔和な笑みを浮かべたのは、少女だった。黒を基調とする召使の装束を身に纏った少女。見知った顔だ。濡れたような黒髪にも覚えがある。しかし、血のように赤い瞳は、彼の知っている彼女のそれとは異なっている。いつごろからか彼女の瞳は赤くなっていたという情報通りといえば、その通りなのだが、信じられないことではある。
もっとも、信じられないのは、彼女が幹部たちに混じって、平然とそこにいたことも、だ。
「貴様は……!」
「せっかくの再会にございますが、ガンディアのため、ジベルのため、あなたさまにはここで死んで頂きたく存じ上げます」
死神は、笑顔のまま、すらすらといってのける。
「だれが、死ぬものか――!」
ハーマインは、抗おうとした。
しかし、死の運命は、彼を離さなかった。
死神は、おもむろに跳躍すると、彼の目の前の机に着地した。大鎌が、旋回する。あざやかな残光が目に焼き付いた。
「いえ、死神を視たのなら、そのときには死んでいるのですよ」
声が聞こえたのは、きっと、その瞬間は生きていたからだ。
視界が激しく揺れる。まるで空中を舞っているかのような光景。首が胴体から切り離され、宙を舞ったのだろう。そう認識したとき、彼は死を感じた。そして、死の実感の中で、死神が冷ややかに笑っているのが見えた。
「さて、と。皆様は、いかがなされます?」
ハーマイン=セクトルの胴体から切り離した首が床に落下したのを見届けると、レムは後ろを振り返った。血のにおいが充満し始めた室内には、ハーマインのお気に入りらしいものたちが集まっている。十人ほど。狭い室内だ。レムが身を潜められるだけの圧迫感があった。
「は……」
「な、なにもの……」
「死神か……死神部隊のレム!」
何人かは、レムの顔を知っており、彼女を認識するなり慌てふためいた。室内に潜り込み、話をしているときには気づきもしなかったくせにだ。もっとも、それは致し方のないことだ。ハーマインとの会話中であり、ハーマインが重大な決断を下したところだった。ハーマインに意識を集中させなければならず、ほかに注意を向けている場合でもなかった。そのため、レムはなんの不都合もなく、室内に潜り込むことができたのだ。
無論、気づかれたとしても、なんの問題もなかった。ハーマインを含めた十人程度、取るに足らない数だ。
「お気づきなさるのが遅うございます。ハーマイン様はたったいま死なれましたよ?」
レムは、鎌の切っ先でハーマインの亡骸を示した。室内に動揺が走る。
「ば、馬鹿な……!?」
「将軍!?」
「貴様……!」
将軍の死体に駆け寄るもの、腰に帯びた剣を抜くもの、呪文を唱え始めるもの――それぞれに反応を見せる中、レムは、温和な笑みを消さなかった。彼らがいかな方法で抵抗したところで、彼女を殺すことも撃退することもできないからだ。
だからこそ、彼女がここにいる。
「皆様方には、選択肢がございます」
レムは、己の影から“死神”を出現させ、五体に分裂させた。弐号から陸号までの五体で、場を圧する。牽制に過ぎない。過ぎないが、彼らにはこれで十分だろう。
「あくまでハーマイン=セクトルの部下として戦い、死ぬか。即座に投降し、ジベル政府に服するか。わたくしとしましては、ここで潔く死なれるのも悪くはないかと」
「なにを……」
「この状況でよくいえたものだな!」
「それはわたくしの台詞にございます。将軍を護れもしなかったものがなにをいったところで、空々しいことこの上ございませぬ」
「貴様あっ!」
「忠誠心というのは、厄介なものでございますね」
剣を大上段に構え、飛びかかってきた男を一瞥して、レムは告げた。
「こうも現実が見えなくなられるとは」
“死神”参号の槍が男の胸を貫き、そのまま切り払った。“死神”は一撃のもとに絶命した男の亡骸を踏みつけると、周囲を見回す。ほかに敵はいないかというような“死神”の態度に室内は静まり返った。
彼らは、レムに投降した。
しかし、ザーナの丘に集まったすべての兵士がレムに従ったわけではなく、彼女は抵抗する兵士たちを殺戮しなければならなかった。雑兵を殺すことにはなんの問題もなかったものの、その結果、ジベルの戦力が低下することになったのは、なんともいえなかった。
もちろん、彼女にはなんの関係もないことだ。
ジベルという国がどのような末路を辿ろうともどうでもいい。
そもそも、ジベルのために戦いたくなどなかったのだ。
『俺のためと想ってくれ』
ザーナの丘を制圧したあと、彼女の脳裏に浮かぶのはセツナの言葉だけであり、それだけが彼女を突き動かしていたのはいうまでもない。




