第千五百四十五話 龍府流々(二)
「お兄ちゃ――じゃなくて、セツナ様!」
「へ?」
突然聞き知った声がセツナの耳に飛び込んできたのは、龍府到着の翌朝のことだった。
昨日は龍到着からほぼ半日、グレイシアに振り回されたような感じであり、自室で眠りに着くまでの間、心休まる時間がなかった。グレイシアの心情を考えれば、彼女がなぜあそこまではしゃいでいたのかもわからないではないし、彼女が気を紛らわせることができるのであれば、なんだってしてあげたいと想うのが臣下であるセツナなのだが、それにしても、精神的に疲れ果てた。朝が来てもなかなか目が冷めないほどに疲れ果てており、起こしに来たレムなどは、セツナがゆっくり眠っていることのめずらしさに笑いかけてきたほどだった。
そんな朝。
聞き知った声が聞こえたのは、グレイシアを交えた朝食を終え、天輪宮の外庭で軽く食後の運動をしているときだった。声の方を振り向くと、栗色の髪の少女が、毛玉のような黒い小犬とともに駆け寄ってくるのが見えた。どう見ても、エリナ=カローヌとニーウェだった。
「エリナ?」
「うん、エリナだよ!」
セツナの目の前まで駆け寄ってきたエリナは、満面の笑みを浮かべながら大きく頷いた。彼女の元気いっぱいな様子を見ると、なんだか力が湧いてくるようだった。昨日の疲れも吹き飛んでしまう。しかし、同時に疑問も湧く。
「なんで君が龍府にいるんだ?」
エリナは、王都ガンディオン新市街に家族共々住んでいるはずであり、龍府にいるわけがなかった。王都と龍府は遠く離れている。龍府は観光都市であり、観光客が多い――司政官ダンエッジ=ビューネルのおかげで増加傾向にある――のは間違いなく、観光目的で訪れたのだとしてもおかしくはないのだが。
「わかんない!」
「わかんないって……おい」
「サリス父さんが連れてきてくれたの!」
「いつ?」
「ずっと前だよ! ニーウェも一緒!」
「ずっと前……」
セツナは、その場に屈み込み、尻尾を振り回す小犬のニーウェを撫で回しながら、彼女の言葉を反芻するようにつぶやいた。エリナの曖昧な言い方からわかることは、彼女が正確な日数を覚えていないことであり、また、ここ数日の出来事ではないということだ。
「軍師様の計らいなのよ」
顔をあげると、エリナの後ろにミリュウが立っていた。いつの間に近づいてきたのかまったくわからなかったのは、セツナがエリナに気を取られすぎていたからだろう。それくらい、セツナはエリナが龍府にいることに驚いていた。そして、彼女がどうやって天輪宮にきたのかがようやくわかる。ミリュウに連れられてきたのだろう。ミリュウがエリナが龍府にいることを知っている理由はわからないが、彼女から聞けばいいだけのことだ。
「軍師? エインか?」
「うん」
ミリュウがうなずくのを見つめながら考えるのは、エインのことだ。エイン=ラジャール。ガンディアの軍師となった彼がなぜエリナを龍府に寄越したのか。いや、ずっと前に龍府に来たということは、彼が軍師になる前の出来事に違いない。
「エインがどうして?」
「ミレーユさんに聞いたんだけど、サリス=エリオンの龍府への異動が急遽決まって、エリナともども引っ越してきたんだって」
「異動……」
「サリス=エリオンってしってるわよね?」
「ああ」
カランの都市警備隊員であり、ファリアの友人であり、エリナの母ミレーユ=カローヌが夫を失い、精神的に弱っていたところを支え続けてきた人物だ。ミレーユはサリスのおかげで立ち直ることができたといい、サリスに恩義を感じているだけでなく、彼に深い愛情を抱くようになったらしい。サリスはミレーユとエリナを支え続けていくことこそを人生の目的であると考えているらしく、エリナはそんなふたりの結婚を望んでいるらしい。だから、サリス父さんなのだ。まだ結婚しているわけではないらしいが、いずれエリナの父のことを整理できれば、ミレーユはサリスとの再婚に踏み切るだろう。それがエリナのためとなり、長らく支え、護り続けてくれたサリスへの恩返しとなる。
セツナは、サリスとはそこまで深く面識はない。が、深く印象に残っている人物ではあった。燃え盛るカランに突入したとき、セツナを諌めてくれたのが彼だった。彼は大火に包まれたカランの街から少しでもひとを救い出そうとしていたらしかった。正義感の強い人物だということは、その一事からでもわかる。
エリナがそんな彼に面倒を見てもらっていることには、安堵を覚えたものだ。
「都市警備隊……だったよな?」
「うん」
「異動……か」
「マルディア救援にあわせて、ね」
ミリュウは、ニーウェと戯れるエリナを愛おしそうに見つめている。
「……謀反が起きることを見越して、ってことか」
「そうみたいね」
「でもなんでまた?」
「そりゃあ、弟子ちゃんやその家族にもしものことがあったらセツナが傷つくからじゃない?」
「俺が?」
「ほかに考えられる? あの軍師様があたしのことを考えてくれるとは思えないけど」
ミリュウが皮肉めいた表情でいってきたのは、エイン=ラジャールという人物がどういう考えに基づいて行動するかをよく知っているからだ。
「……確かに」
「セツナのために、ってんなら納得も行くわ」
「そうだな……」
「でもまあ、いいのよ。あたしのことなんて。弟子ちゃんとその家族が無事なら、ね」
ミリュウの言葉は、セツナの想いでもあった。エリナとその家族が無事であるのならば、その過程はどうでもいいことなのだ。彼女たちが無事であるという事実が大切であり、そのためになにがどう動いたのかなど、些細な話だ。
「師匠!」
「あとで個人修行の成果、見てあげるわ」
「はい! よろしくお願いします! 師匠!」
「うふふ」
(エインが……な)
師匠と弟子の心温まるやり取りを見つめるセツナの脳裏を過ぎったのは、微笑を浮かべるエインの顔だった。彼がそこまで考えてくれていたことには感謝するほかなかったし、つぎにエインに会ったときにはこのことで直接感謝の言葉を伝えなければならないと想った。
エリナは、セツナにとっての大切なひとのひとりだ。彼女の身にもしものことがあれば、セツナは怒り狂っただろうし、そうなった場合、自制できたかどうかもわからない。ジゼルコートは、王都の制圧後、王都市民に手を出すようなことはなかったし、ジゼルコート軍が乱暴を働いたという記録はない。ジゼルコートは、謀反に大義を掲げていた。大義を掲げる以上、王都市民に対して暴力を振るうようなことはしたくなかったに違いない。たとえエリナたちが王都にいたとしても、傷つけられるようなことはなかっただろう。
しかし、万が一ということもある。
エインが危惧したのは、その万が一の可能性であり、そのために都市警備隊に働きかけ、サリス=エリオンを龍府に異動させたのだ。マルディア救援当時、都市警備隊はジゼルコートの支配下にあるといってもよく、エインがサリスの異動を工作したのは、それより少し前のことだろうという想像はできる。本当のところはわからないし、もしかしたら、ジゼルコートの支配下にあるという状況で行ったかもしれない。
いずれにしても、参謀局の作戦室長である彼には、その程度朝飯前だったということではあるのだろうが。
「あら、エリナちゃんじゃない。いま来たの?」
と、想像だにしない言葉とともに姿を見せたのは、だれあろうグレイシア・レイア=ガンディアだった。すると、またしても予想すらし得ない反応を示すものがひとり。
「あ、シアちゃん!」
「は……!?」
「し、シアちゃん……!?」
エリナの一言に、セツナはミリュウと顔を見合わせて、ただ、絶句した。頭の中が一瞬、真っ白になる。
グレイシアは構わず歩み寄ってくると、腰を屈めてエリナと抱擁し、それから小犬のニーウェの頭を撫でた。ニーウェはグレイシアに向かっても丸い尻尾を振り回している。
「ニーウェちゃん、今日も元気ね」
「シアちゃんに会えて嬉しそう!」
「うふふ、わたしもエリナちゃん、ニーウェちゃんに会えて嬉しいわ」
グレイシアの満面の笑みは、その言葉が本心からのものだと伝わってくるかのようだった。
「ど、どどどどどど、どういうことなんですか!?」
「エリナちゃんはともかく、シアちゃんって……」
「どうもこうもないけど?」
「友達なの!」
こちらを振り返り、自慢げに紹介してくれたエリナだったが、セツナとミリュウの反応から違和感を覚えたらしく、小首をかしげた。その仕草は妙愛らしくはあったのだが。
「って、お兄ちゃんと師匠の知り合い?」
「知り合いもなにも……」
「太后殿下よ……」
ミリュウが告げると、エリナはその言葉を反芻して硬直した。
「太后……殿下……」
「あら、ばらしちゃった」
グレイシアが悲しそうに目を伏せると、ニーウェが彼女の頬を舐めた。
「せっかく対等なお友達ができたと想ったのに……」
「シアちゃんが太后殿下……えええええええええええ!?」
「弟子ちゃんあなた王都市民じゃなかったの……」
いまさらのように驚愕するエリナに対し、ミリュウは困り果てたような顔をした。弟子の反応にどうしていいかわからなくなったようだ。
「そうだったの? でも、王都に住んでいるからといって、わたしの顔を知っているとは限らないわよ、ミリュウちゃん」
グレイシアは、ニーウェを抱き抱えながら、微笑んだ。
「最近はあまり表に出ていなかったもの」
後宮から出ること自体が稀であり、王宮区画から出ることは禁じられてさえいたという。
そんなグレイシアとエリナが知り合ったのは、エリナがニーウェの散歩をしているとき、天輪宮に迷い込んだからだという。
天輪宮は龍宮衛士による厳戒態勢が敷かれていたものの、敷地内に飛び込んだニーウェを追いかけるエリナを捕まえることは困難を極めたという。情けない話で、龍宮衛士からそういった報告が上がらなかったのも当然といえるだろう。それからは警備体制を見直し、二度とそのようなことは起こらなかったという話だが、その一度目でエリナはグレイシアと出逢い、友達になってしまったのだそうだ。これがもしエリナではなく、部外者の侵入であれば大事件になっていたところだ。
グレイシアは、天輪宮に迷い込んだニーウェを可愛がっているところに飼い主のエリナが現れた上、グレイシアのことを知らなかったため、友達になったのだという。
グレイシアは、自分を太后としてではなく、グレイシアという個人として接してくれる友人を欲していたようだ。そこに年齢差は関係なく、だからこそ、グレイシアはエリナを本当の友達として触れ合い、彼女が天輪宮に訪れるのを楽しみにしていたという。
「これからもいままで通りの友達でいてくれる?」
「シアちゃ……太閤殿下がそれでよろしいのなら……」
エリナは、辿々しい敬語で応じようとしたが、途端にグレイシアが表情を曇らせた。
「ああん、だめよ、シアちゃんって呼んで」
「で、でも……」
「エリナちゃん、お願い」
上目遣いにエリナを見上げるグレイシアの姿に、セツナは心を打たれた。
「……エリナ」
「いいのかな?」
「そう望んでおられる」
セツナがそっとつぶやくと、エリナは小さく頷いた。
「うん……わかった。シアちゃん、これからもよろしくね」
「ありがとう、エリナちゃん。いままでどおりでいいから、ね」
「うん!」
「うふふ。セツナちゃんもありがとう」
グレイシアは、心底嬉しそうに笑った。その笑顔だけでセツナの中の不安は吹き飛んだ。
「わたし、普通の友達なんてエリナちゃんが初めてなのよ」
グレイシアのその一言は、貴族に生まれ、国王と結婚した彼女の人生について考えさせられるものだった。
龍府での日々は、平穏極まりないものであるとともに大変なものでもあった。
王宮から解放された太后グレイシア・レイア=ガンディアの奔放さは留まることを知らず、セツナたちは、彼女に振り回されなければならなかったからだ。
そうなると、休暇というよりは仕事の一環という認識が生まれる。
相手は太后だ。国王の母親であり、ガンディアの権力の頂点に立っているといっても過言ではない。数少ないセツナ以上の権力者なのだ。セツナも、グレイシアには頭が上がらなかったし、セツナが頭が上がらないということは龍府にいるだれひとりとしてグレイシアのわがままに反対意見を述べるものはいなかった。
とはいえ、別段、無理難題を押し付けてくるようなことはない。
グレイシアのわがままなど可愛いもので、セツナたちは疲労こそすれ、グレイシアのことを嫌いになったりするようなことはなかった。むしろ、ますます好きになったりした。
まず、二日目の夜、グレイシアの発案で、セツナとファリアの誕生日会が開かれることになったことは、セツナたちを驚かせる一方、感動させもした。ファリアの誕生日は五月四日、セツナは翌五日の生まれであり、両日とも戦争の最終盤のことであり、誕生日を祝っている場合でもなかったのは記憶に新しい。戦後も、色々とあり、誕生日を祝っている暇などないままに時間が流れ、一月も経てば祝う必要性さえ薄れるものだ。昨年、あれだけ派手に誕生日会を開いたのだ。今年はなにもしなくてもいいのではないか、と考えていた矢先のことだった。
グレイシアがセツナたちの龍府訪問を知ったときから密かに考えていたことらしく、侍女や侍従らとともにどのような宴にするか練り上げていたという。
太后みずから誕生日会を開いてくれるという栄誉には、さすがのセツナも感動するほかなく、グレイシアへの敬慕をますます強めたのだ。
セツナの誕生日会ということもあり、規模の大きなものになったのはいうまでもない。セツナは龍府の領伯だ。領伯の誕生日ともなれば、龍府の有力者が参集せざるをえない。かつて五竜氏族と呼ばれ、ザルワーンの特権階級だったひとびとが集まれば、ザルワーン方面軍大軍団長ユーラ=リバイエンなども訪れ、その夜、天輪宮泰霊殿は大騒ぎとなった。
セツナとファリアは、グレイシアの気遣いに感謝するとともに、お祭り騒ぎのような様相すら呈し始めた誕生日会の様子を嬉しそうに眺める太后の姿を目に焼き付けた。
グレイシアは、だれかのためになにかをすることが心の底から好きなのだろう。
ガンディア国民がそんなグレイシアを敬愛するのは、当然のように思えた。




