第千五百四十三話 龍府の太后
セツナ一行が龍府に辿り着いたのは、六月九日のことだ。
スルークを出発した一行は、道中、五龍湖のひとつ、地龍湖に立ち寄り、ザルワーン戦争に想いを馳せたりしながら休暇を満喫している。
かつて龍府の守備の要であり、五方防護陣と呼ばれた五つの砦が守護竜召喚の媒介として利用され、この世から消滅したことは、いまやだれもがよく知る話となった。もちろん、龍の首の出現がオリアン=リバイエンの疑似召喚魔法によるものだということまでは知られていないものの、ザルワーン戦争末期、突如として出現した五つの龍の首が龍府をガンディア軍に立ちはだかったという話が隠しきれるわけもなく、また、ガンディア軍の力強さを喧伝する意味もあって、大々的に発表された。
しかし、ザルワーンの守護龍と呼ばれた龍の出現は、あまりに信憑性が低いこともあって、実際にその目で見たものでなければ信用されることはなかった。ザルワーン人の中にさえ、守護龍の存在を疑うものは少なくない。五方防護陣が五龍湖へと激変したのも、ガンディア軍が砦を敷地ごと消滅させたからではないか、という噂がまことしやかに流れたほどだ。そして、そういった事を行うのは、黒き矛のセツナに違いないという結論に至っていた。
もっとも、元より龍府に住んでいたひとびとは、五方防護陣に守護龍が出現した瞬間を目の当たりにしており、五つの砦が崩壊した原因がそこにあることを知っていた。
セツナが龍府の領伯となって後、龍府の住人たちに五方防護陣のことで質問されたり、非難されるようなことがなかったのは、そういう理由からだろう――というような話を、地龍湖滞在中に聞いた。また、ザルワーン軍が勝利のために自国民の犠牲も厭わず、多数の死傷者を出しているという事実が広く伝わり、ガンディア政府によるザルワーン統治の正当性を後押しし、セツナの領伯就任をも後押ししたに違いないというのがファリアたちの見方だった。
おそらくは、そのとおりなのだろう。
ザルワーンは、ガンディア軍を撃退するために形振り構わずにやりすぎたのだ。
最終的には、国主たるミレルバス=ライバーンさえ、己の死を顧みなかった。たとえガンディア軍に勝利することができたとしても、生きて帰ることのできない戦いを行い、結果、彼は死んだ。
『父上は、それで満足だったのでしょうか』
地龍湖の水面が夕日によって赤々と燃え上がる中、ふと漏らしたメリル=ラグナホルンの一言が耳に残った。
龍府に辿り着くと、セツナたちは盛大な出迎えを受けた。
後で知った話だが、龍府には、セツナたちの到着予定日時が伝えられており、司政官ダンエッジ=ビューネルら龍府の役人たちは、セツナ一行を盛大に出迎えるべく、龍府住民を総動員するような計画を立てたということだった。
龍府住人による盛大な出迎えは、まるでお祭りのような大騒ぎであり、領伯セツナの訪問を心から喜んでくれているようだった。龍府そのものが歓喜しているような催しであり、門前から門の内側に至るまでひとで溢れ、見渡す限り、ひと、ひと、ひと――凄まじい数の龍府住人が参加したお祭り騒ぎには、セツナたちも面食らったものだった。
司政官らが計画したこととはいえ、ここまで積極的に参加してくれると、感激するしかない。
『単純にお祭り騒ぎが好きなだけなんじゃないの』
ミリュウの醒めた言葉も気にならないくらい、セツナは、興奮と感動の中にあったりした。
感動もするだろう。
まさか、ここまで歓迎されるとは想像もしていなかったのだ。
セツナは、領伯として龍府でなにかを成し遂げたわけではない。領伯というのは、エンジュール同様、名ばかりのものといっても過言ではなかった。肩書きだけで実を伴っていないといっていい。領伯として成すべき仕事は、司政官や役人たちが行ってくれている。セツナがしたことといえば、彼らの仕事に対する大まかな方針の指示や決済くらいであり、そんなもの、だれがやっても同じようなものだ。
龍府住人がこぞって歓迎してくれるほどの実績はないはずだった。
龍宮衛士に護衛され、天輪宮に向かう間、セツナたちを乗せた馬車は龍府住人による歓迎は続き、セツナは感極まってしまうほどだった。
天輪宮に着くと、司政官ダンエッジ=ビューネルが役人ともども出迎えてくれた。
「セツナ様のご到着、心よりお待ちいたしておりました。長旅でお疲れでしょう。まずは休まれ、疲れを取ることを優先なさってください」
「ああ、そうさせてもらうよ」
セツナは、ダンエッジの気遣いに感謝しながら、天輪宮の荘厳な外観を眺めた。
ビューネル姓の通り、カイン=ヴィーヴルの親戚である彼は、アスラ=ビューネルの親族でもあり、彼はアスラが《獅子の尾》に配属されたことを素直に喜んでいたようだった。
「アスラ、元気そうでなによりだ」
「エッジ兄様こそ、お元気そうで、良かったですわ」
「まさか君が《獅子の尾》に配属されるとはな。人生とは、わからないものだ」
「はい。まったくです。お姉さまとこうして一緒になれるなんて、想っても見ませんでしたわ」
「相変わらず、ミリュウ殿一筋か」
「はい」
アスラと言葉を交わすダンエッジは、セツナに対するそれよりも随分と砕けた印象があり、それが本来の彼なのかもしれないとも想ったりした。国から都市の運営を任された司政官としての顔と普段の顔が異なるのは当然のことであり、そのことに疑問を挟むようなことはなかったが。
ミリュウは、相変わらず、ダンエッジと一言も言葉を交わそうとはしなかった。彼女のザルワーン人嫌いは、仕方のないことなのだ。そうなるにはそうなるだけの理由があり、それを消し去ることはなにものにもできないだろう。そして、消し去る必要もない。
ダンエッジはというと、ミリュウがそのような態度をとっても、まったく気にしていないようだった。魔龍窟に投げ入れられたものと、魔龍窟を逃れることができたもの。相容れないのは仕方のないことだ、と諦めているのだろう。
わかりあおうと努力して、ミリュウの逆鱗に触れるよりは、ずっと正しい判断だ。
天輪宮に入ると、太后グレイシア・レイア=ガンディアが龍宮衛士隊長リュウイ=リバイエンとともにセツナたちを出迎えてくれ、セツナは少しばかり驚いた。グレイシアは、色鮮やかな衣装を身に纏っており、まるで女神のように見えた。
「お帰りなさい、セツナ殿」
満面の笑みで出迎えてくれたグレイシアは、なにを思ったのか、両腕でセツナを包み込むようにしてきた。
「ああー!?」
「な、なにを……なさって……」
ミリュウが悲鳴を上げ、ファリアが愕然とする中、セツナもまた、衝撃のあまり頭の中が真っ白になってしまった。それくらい驚きの出来事だった。グレイシアは太后――つまり国王の母親なのだ。ガンディア王家の中でも特別な地位にあるといってもいい。そんな立場にある女性が、おもむろに抱きしめてきたのだ。想像もし得ない行動だったし、ありえないことでもあった。
セツナが思考停止に陥るのも、致し方のないことだ。
「ずっと待っていたのよ、寂しかったわ」
グレイシアは、セツナを抱き竦めたまま、甘えるような声を出してきた。まさか、太后からそのような声、そのような言葉を聞かされるとは思いもよらず、セツナの頭の中はますます混乱した。グレイシアの体温や柔らかな感触について考えている暇もない。緊張感が凄まじい上、背中に突き刺さる視線も痛い。
「あ、あの……太后殿下……」
「なあに?」
「は、離してくれませんか?」
「どうして?」
グレイシアの反応は、セツナの言動がまったく理解できないといったものであり、さすがは王族といっていいものかもしれない。常識が通用しない、という点で、だ。
「その……いろいろとまずい気が……」
「まずい? なにがまずいのかしら」
「それは……その……」
「太后殿下、セツナ様を満喫するのもいいことだと想われますが、まずはセツナ様方には旅の疲れを癒やしていただくほうが先決かと」
そう助け舟を出してくれたのは、リュウイだった。
「……それもそうねえ。セツナちゃんを満喫するのは、後でもできるものね」
「はい」
「少し残念だけれど、セツナちゃんも皆もお疲れだものね」
グレイシアは、やっとのことでセツナを腕の中から解放した。
「……ふう」
「あら、セツナちゃん、嫌だった?」
「い、いえ、決してそういうわけでは……」
セツナがしどろもどろになったのは、返答次第ではグレイシアの機嫌を損ねるのではないかという考えが脳裏を過ぎったからだ。グレイシアを保護するという役目を与えられたのだ。彼女の機嫌には細心の注意を払うべきだったし、機嫌良く過ごしてもらうためならばなんだってするつもりでいた。
グレイシアは、傷心なのだ。寂しかったというのも、本音だったのだろう。
「うふふ。いいのよ、無理しなくて。セツナちゃんが駄目ならファリアちゃんでも構わないし、ミリュウちゃんでもいいもの」
「ファリアちゃん……?」
「ミリュウちゃん……って」
ファリアとミリュウは、お互いの顔を見合いながら、呆然とつぶやいた。ふたりとも、グレイシアの自由奔放ぶりに開いた口も塞がらないといった様子だった。
「なんていうか」
「太后殿下って凄まじい方だな」
「本当……」
シーラたちのささやき声は、本音だったに違いない。




