第千五百四十話 ドルカとエイン
「おおっ!」
室内に入るなり、彼は、開口一番に感嘆の声を挙げた。
広い部屋だった。
室内に取り揃えられた調度品の数々は高級品ばかりで、床の敷物も見るからに高級そうだった。天井から吊り下げられた魔晶灯の装飾だけでもかなりの金額がかかっていそうであり、室内の飾り付けはいかにも権威的だった。それもそのはずだ。
「これが大軍団長の執務室!」
彼が言い放った通り、この部屋は、ログナー方面軍大軍団長専用の執務室なのだ。
以前はグラード=クライドが使っていた一室は、新たにログナー方面軍大軍団長に就任したドルカ=フォームのものとなり、ドルカは、自分のものとなった執務室の豪華さを素直に喜んでいる様子だった。
「これが大軍団長の机! 椅子!」
高級そうな黒塗りの机としっかりした回転椅子をばしばしと手で叩くドルカに、大軍団長付き秘書官という役職についたニナ=セントールがなんともいえない表情を向けていた。呆れているのか、一緒になって喜んでいるのか、微妙な線だ。
「すばら! 実にすばら!」
「これからは大軍団長殿、とお呼びしなければなりませんね」
「はっはっはっ!」
彼は、腰に手を当て、胸を反らしてわざとらしく大声をあげて笑った。乾いた笑いは、彼の心情を表しているのだろうが。
「軍師様にそういわれると、ただの嫌味に聞こえますな!」
「ドルカさんこそ、嫌味にしか聞こえませんよ」
エインが苦笑交じりに告げると、彼はふんぞり返ったまま、言い返してきた。
「嫌味だ!」
「ひどい」
「はっはっはっ!」
またしても大声で笑うドルカだったが、今度は本心からの笑い声のようだった。エインをからかうことができたのが嬉しいとでもいうのだろうか。だとすれば、エインもここにきた甲斐があったというものだ。
「なんでそんなに元気なんですか」
「そりゃあ元気にもなるさ。一先ず、大軍団長に昇格したんだ。俺の野望は、順調に推移しているといっても過言ではないのだ!」
えっへんとふんぞり返るドルカに、エインは微笑を浮かべるほかなかった。
「まあ、そうなりますね」
彼の言う通りでもある。
ドルカは、ログナー時代は不遇の人生を歩んでいた。ログナーがガンディアに併呑された途端、軍団長に抜擢されるという転機を迎えた彼は、ガンディアで軍人としての頂点を目指すと公言して憚らなかった。つまりは、将軍を目指すということだが、そう公言することは、軍人たちの冷ややかな視線を集めると同時に、上層部からある種の信頼を勝ち取ることにも繋がった。ログナー人というのは、ガンディア人からは白い目で見られがちだ。ガンディアとログナーは忌み嫌い合っていた時期があまりに長く、嫌い合うことこそが必然であり、憎み合うことこそが道理であるとでもいうような状況に置かれていた。それは、ガンディアがログナーを降し、ログナーがガンディアに飲まれた後も続き、エインたちログナー人はいつか裏切るかもしれないという目で見られることが少なくなかった。
そんな中にあってドルカのように積極的に上を目指すという思考、思想の持ち主は、軍人にこそ否定的に見られがちではあったものの、ガンディアの上層部には信頼しうるものとして受け止められていたようだ。
ドルカがグラードの後釜に選ばれた一因は、そういうところにある。レノ=ギルバースが生き残っていたとしても、彼がログナー方面軍の大軍団長に昇格していたのは間違いない。
「つぎは副将……いや、左右将軍の座を……」
「そう簡単に行きますかね」
「……そうなんだよなあ」
と、ドルカは、がっくりと肩を落として椅子に座り込んだ。グラードの巨体を支えていたのであろう立派な回転椅子が、わずかに揺れる。
「副将にしても、左右将軍にしても、いまのところ、入る余地がないんだよなあ」
「グラードさんが副将になられたばかりですしね」
「グラードさんも当分引退するつもりもないだろうし、デイオン将軍だってさ」
「将軍、まだまだやるつもりですよ。この間お話させてもらったときも気合十分でしたしね」
「んなもん、話さなくてもわかるさ」
やる気がなければ、裏切り者の誹りを受けてまでジゼルコートに同調してみせたりはしない、とドルカはいっているのだ。デイオンがガンディアの将軍として戦い続けるつもりがあるからこそナーレスの策に乗ったのだろうし、ナーレスもそんなデイオンの気概を見抜いていたからこそ、彼に策を授けたに違いなかった。
エリウス=ログナーをもうひとりに選んだのも、そういう理屈だろう。
そして、策は見事に成功した。
それはつまりナーレスには、ひとを見る目があるということであり、デイオンとエリウスの裏切りを信用してしまったエインには、そこが大きく不足しているのだ。デイオンとエリウスが裏切るはずはない、とは想っていたものの、デイオンもエリウスもジゼルコートに近づいていたという事実があった。その事実はエインの目を逆に曇らせてしまったのだが、むしろそれでよかったのかもしれない。であればこそ、エリウスとデイオンがジゼルコートの信頼を勝ち取ることができたともいえる。エインたちを騙せないようでは、ジゼルコートを謀るなど、無理難題というほかない。
そのふたりが実は裏切っておらず、ナーレスの策としてジゼルコートに近づいていたのだということが判明すると、ガンディア軍内ではふたりへの評価が激変した。裏切り者と罵倒していたものたちは、自分たちの見識の無さを恥じ、また、彼らの命がけの行いを賞賛した。露見すれば命はない。だれもがその事実を理解していたし、しなければならなかった。
そして、ナーレスがそのような遠大な策を練り、進行させていたという事実は、彼の偉大さを思い知らせると同時に、彼があってこそのガンディアだったのだということを如実に知らしめた。ナーレスは軍師から軍神へと格上げされ、ガンディアの軍人たちは彼の功績を讃え、彼の愛国心に心震わせた。
ナーレスは、死後、その死さえもガンディアのために利用したのだ。
そこまでできる人間がこの国にどれほどいるのか。
自分はどうか。
多くのものが自問自答し、ナーレスの偉大さに打ち震えた。
エインも、そのひとりだ。
彼は、ナーレスの死を把握していたし、ナーレスがみずからの死をも利用するほどの人物だということは理解していた。しかし、エリウスとデイオンを使い、ジゼルコート率いる反乱軍を内部から崩壊させるような策を練り、動かしていたことはまったく知らなかった。知らされていなかったのだ。ナーレスはこの策が外部に漏れることを極端に恐れたのだろう。漏れれば、その瞬間すべてが無駄になる。ジゼルコートは警戒し、簡単には尻尾を見せなくなるだろう。さらに慎重に慎重を重ね、レオンガンドたちでは手の施しようがなくなるほどの事態になるかもしれない。そうなってしまっては台無しだ。故にナーレスは、己の策をたったふたりに託した。
いや、エインとアレグリアを信用したからこそ、エリウスとデイオンを使うことができたのだ。
エインとアレグリアが適切に対応できると判断したからこそ、策を明かさなかった。
エインは、そう信じていたし、きっと間違いないだろう。
でなければ、策の示唆くらいは残しておくはずだ。
そういったことがなかったということは、エインたちならば対応できると踏んだに違いなかった。
「そう簡単にはいかなくてもさ。俺は諦めないぜ」
「ええ。そうしてください。諦めなければ、道は開けるものです」
「期待している」
「……俺に、ですか?」
「ふっふーん。軍師様なら俺の良さ、理解してくれてるだろうしねえ」
椅子を回転させながらそんなことをいってきたドルカに対し、エインは、適当に笑い返すしかなかった。彼がいいたいことはわかっている。もし、機会があればドルカ=フォームを推挙してほしい、と暗にいっているのだ。そのことについてエインはなにも言及しなかったものの、もちろん、理解している。ドルカは、指揮官として有能だ。人心を掌握する術に長けているし、指揮能力も高い。だからこそ大軍団長に昇格したのだし、その能力を磨き、実績を積んでいけば、彼がつぎの副将、あるいは左右将軍に選ばれる可能性は決して低くなかった。
そのためには、いま以上に働いてもらわなければならないのだが、それを理解していないドルカではない。
「ところで、エインくん」
「なんでしょう」
「なんでまた、軍師様がここにいるんだ?」
ドルカの疑問は、もっともではあった。
ここは、ログナー方面の都市マイラムなのだ。軍師が王都の外に出るということは必ずしも珍しいことではないものの、なにかしら理由があるはずだった。
「なんでって、俺がここにいちゃ駄目ですか?」
「駄目じゃないけれど、軍師様がいないと寂しがるんじゃない? 大将軍閣下がさ」
「あのひとも、公私の区別くらいつきますよ」
「本当かなあ」
ドルカが信じられないというような表情をしたのは、彼がログナー人で、飛翔将軍アスタル=ラナディースの評判だけでなく、実情をよく知っているからなのだろう。アスタル=ラナディースは、必ずしも公明正大な人物とは言い難かった。いい意味で人間なのだ。人事に私情が混じることが稀にあった。エインがログナー方面軍の軍団長に抜擢された理由のひとつが、それだろう。ドルカは、暗にそういっているのだ。
「大将軍閣下にドルカさんがこんなことをいっていたって、いってもいいんです?」
「ちょ、なにいってんだよ、ただの冗談じゃないか。ははは、軍師様も勘違いなさらないことだ」
慌てて取り繕う大軍団長の様子にニナ=セントールが嘆息する。そんな彼女に視線を向けて、エインは口を開いた。
「……ドルカさんのこと、しっかり手綱を握ってくださいよ、秘書官殿」
「え……!? わたし、ですか……!?」
「それはそうでしょう。あなたがしっかりと手綱を握ってくれなければ、なにをしでかすかわかったものじゃないですからね」
「手綱……わたしが……」
エインからの予期せぬ注文に愕然とするニナに対し、ドルカはにやにやと笑いかけるようにして、いった。
「しっかり頼むよぉ」
「大軍団長……」
「いやいや、ドルカさんがしっかりしてくれれば、なにもいうことないんですけど」
「ははは。軍師様は無理難題を仰る」
「無理難題なんだ」
「ははは」
ドルカは、回転椅子の背をこちらに向けたまま、笑い続けた。




