第千五百三十七話 温泉宿にて(前)
その夜、セツナたちは郊外の温泉宿に泊まった。
その宿に泊まることに決まったのは、エレニアの屋敷から一番近い宿がそこしかなかったからだ。エレニアの屋敷を辞したときには陽が沈み始めており、別の温泉宿を探す時間はなかった。近いとはいっても、宿泊客がエレニアの屋敷に立ち寄れるほどの距離ではなく、馬車で一時間は移動しなければならない距離にある。
山間の小さな宿で、温泉もそれほど大きなものではないらしい。
その夜、宿はセツナたちの貸し切りとなった。元々客の少ない宿らしく、今日は幸運にも客足が途絶えていたらしく、宿の主人などは、セツナたちが訪れたことに感極まって涙を流すほどだった。
エレニアの屋敷は、エンジュールの中心から遠く離れた郊外にある。その屋敷に近い――といっていいのかどうかわからないが――温泉宿もまた、郊外に位置する。なぜこんな町外れに温泉宿があるかというと、もちろん、そこが宿の主人の土地であり、温泉が湧いたからに他ならない。エンジュールが温泉の発見で沸いた直後、宿の主人も一山当てるべく、自分の土地を掘りまくった挙句、ようやく発見したのがここの温泉なのだ。
町外れとはいえ、山の中にあるということで、景色もよく、一時期は客も多かったらしい。それがここのところ、市街地に近い別の温泉宿に客を取られ出し、客足が鈍りつつあったのだという。
『これで明日からセツナ様御用達の温泉宿ということで売り出せます!』
店主が感涙し、むせび泣いたのは、そういう理由があるかららしかった。
セツナが訪れたというだけで繁盛するとは到底思えなかったが、以前、エンジュール滞在中にセツナたちが訪れた宿が、それだけの理由でいまでも繁盛しているという話を聞くと、まるっきり効果がないわけではないようだった。
セツナたちも、一晩、突然貸し切りを願い出た手前、なにもいえなかった。それでエンジュールの経済が潤うのであれば、なんの文句もない。
「温泉温泉!」
「ですなあ!」
「いやはや、大将の下について、今日ほど嬉しいことはありませんな」
「そこまでかよ」
宿の中で年甲斐もなくはしゃぎまわる戦技隊幹部たちの様子に、セツナはなんともいえない顔になった。すると、レミルが詰め寄ってきて、こういうのだ。
「だって温泉ですよ、温泉!」
「いやー素晴らしかな温泉!」
レミルとドーリンがなにやらふたりで踊りながら、宿の中を駆け抜けていった。
「どんだけ温泉に幻想を抱いてんだよ」
「幻想? いやいや、現実ですぜ」
エスクが、冷ややかなまなざしを向けてくる。“剣魔”エスク=ソーマを想起させる鋭い視線にセツナは底冷えするものを感じた。
「現実にある天国ってやつでさあ」
彼はそういって、レミルとドーリンを追いかけていった。
温泉宿は、外観通り、それほど広くはない。しかし、セツナたちが貸し切りにしても有り余るくらいの部屋数はあり、温泉も十分な広さがあるという話だった。宿の内装は質素だが、周囲の景観を大切にする質素さであり、セツナは気に入っていた。エスクたちも気に入ったらしいことは、彼らのはしゃぎっぷりからもうかがえる。
「なんなんだ? あいつら」
「まあ、アバードにゃ、温泉なんてなかったからな。はしゃぐ気持ちもわかる」
「そういうもんかねえ」
「噂だけは聞いていたんだろうよ。温泉がどういうものかってさ」
「だからって」
「ま、いいじゃねえか。それであいつらのやる気がでるならよ」
シーラの意見に異論はなかったし、温泉くらいで機嫌がよくなり、やる気がでるのなら可愛いものだと想わないではなかった。レミルまでもが普段とはまったく異なる人格に変わっていたのには驚いたが。
悪いことではない。
「ねえ、セツナ」
「ん?」
不意にファリアに呼びかけられて、そちらを見やると、彼女はなにかを発見したようだった。
「ちょっと気になるんだけど」
「なんだ?」
「あれ」
ファリアが指し示したのは、浴場の出入り口に掲げられた垂れ幕のようだった。大陸共通語で大々的に書き記された単語を読み上げる。
「えーと……混浴?」
「そう、混浴」
「え、なになに、混浴? 混浴!?」
どたどたと駆け寄ってくるなりセツナの首に腕を絡みつけたミリュウが、垂れ幕を見やって大騒ぎに騒ぐと、レムやシーラにまで飛び火した。
「あらあら、混浴でございますか」
「はあ!? 混浴ぅっ!?」
「混浴とはまた面白い趣向だねえ」
シーラが素っ頓狂な声を上げる傍らで、マリアが不敵な笑みを浮かべた。彼女がなにを想像したのかは、まったくわからない。
「どういうことかしら」
「どういうことって……なんだよ」
ふと、ファリアの言い方が気になって、彼女を見た。すると、ファリアはいかにも冷めきった目でこちらを見ていたのだ。まるですべての元凶がセツナであるかのようなまなざしには、深い失望が込められていた。
「なんでそんな目で俺を見るんだよ!」
セツナは、ミリュウを振り解きながら後退りした。そして叫ぶのだ。
「俺は無実だぞ!」
「またまた、御主人様ってばむっつりなんですから」
レムは、セツナの気持ちなどお構いなしに煽ってくる。
「てめえレムいい加減なこといってんじゃねえぞ!」
「まあまあ、いいじゃない。あたし、セツナがむっつりでも気にしないよ」
「だから!」
「むっつり……? むっつりとはなんです?」
「むっつりっていうのはだね」
「そこ! いちいち説明しなくていい!」
セツナは、愛娘に向かって解説しようとするミドガルドに対して大声を上げて、通りすがった温泉宿の従業員たちの視線が自分に集中するのを認めて、凍りついた。まるで温泉を前にして子供みたいにはしゃいでいるようで、恥ずかしくなったのだ。
すると、ウルクがまたしてもミドガルドに質問した。
「ところでミドガルド。混浴とは、なんですか?」
「多くの場合、浴場というのは男女別々に分かれているものなんだよ。それで混浴というのは、男女が一緒に浴場に入るということでね」
ミドガルドのその説明そのものはなんら間違ってはいなかったのだが。
「それのなにが問題なのですか?」
「ウルクは、傷だらけの躯体をセツナ伯サマに見せたいかね?」
「いえ」
ウルクは、己の躯体を見て、それから左手で右手の損傷を隠すようにした。無論、そんなもので隠れるようなものではないが。彼女なりに気になるところがあるのだろう。
「つまり、そういうことなのだよ」
「なるほど。つまり、皆、セツナに見せたくない傷を持っているということですね」
「うむ」
ミドガルドとウルクのどこかずれているような会話が聞こえると、ウルクの最後の言葉にシーラが過剰反応を示した。
「んなわけあるかよ! 俺の体にゃ傷ひとつねえっての!」
「じゃあ、セツナに見せられるわよねえ?」
いまにも服を脱ぎだしそうな勢いのシーラに向かって、ミリュウが煽る。
「ああ、みせてやらあ!」
「なんで張り合ってんだよ」
「さあ」
ファリアは、シーラとミリュウの言い合いには、もはやついていけないといった素振りを見せた。ミリュウが煽り、シーラが過剰に反応するというこのやり取りは、ふたりがいる限りなくなることはないのだろう。
そんなことを考えながら、セツナは、結論をいった。
「ま、一緒に入らなければいいだけだろ」
「ええー!? なんで!?」
さっきまでシーラを楽しそうに煽っていたミリュウが、愕然とした表情で詰め寄ってくる。
「なんで……って、そりゃあ……」
「ねえ」
ファリアは、セツナの意見に賛同のようだったが、それがミリュウには納得出来ないらしい。
「なにふたりで納得しあってんのよ!」
「そうだよ。一緒に入ろうよ、旦那様」
腕を引っ張ってきたのは、マリアだ。いつもの白衣ではなく、旅装に身を包んだ彼女は、いつも以上に魅力的だ。魅力的ではあるが、その台詞には承服しかねるとしかいいようがない。
「マリアさんまでなにいってるんですか」
「あたしがお背中流して差し上げるっていってるんですよ、旦那様」
セツナの肩に頭を乗せ、猫なで声で甘えてくるマリアにセツナがなにか言おうとしたところ、ミリュウが真っ先に反応した。
「なに可愛い声だしてんのよ、この痴女が!」
「だれが痴女だって!?」
さすがの痴女呼ばわりには、マリアも怒りを隠せないという様子だった。
「だから、なんでこんな騒ぎになるんだよ」
「それは御主人様がはっきりなさらないのが悪いのでございます」
「そーだそーだ!」
「どっちなんだよ、はっきりしろよ、俺の裸が見てえのか、見たくないのか!」
「なんでそーなるんだよ!」
セツナは、隊服を脱ごうとするシーラを抑えながら、頭痛を覚えずにはいられなかった。
見たくないというわけではなかったが。
結局、セツナたち男性陣は、女性陣とは別の時間帯に温泉に入ることで事なきを得た。男女が別々の時間帯になったことで心底ほっとしていたのは、ファリアとシーラ、レミルくらいのもので、ほかの女性陣は、セツナと一緒に温泉に入れないことに不満を漏らしていた。アスラはきっと間違いなく、セツナと戯れるミリュウを見たかっただけだろうが。
いずれにせよ、男しかいない温泉はとてつもなく広く感じられた。
露天だった。夜空の下、星明かりと魔晶灯の光が湯船の波紋に揺らめき、湯気と夜風、木々に囲まれた山間の露天風呂をどこか幻想的なものへと変えている。心底落ち着いていられるのは、女性陣がいないからだろう。
ファリアやシーラだけならばまだいい。そこにミリュウ、レム、マリア、アスラが加わると、どうなるものかわかったものではなかった。アスラはセツナに興味がなさそうではあるが、だからといってミリュウが騒げば一緒になって騒がないわけにはいかないというような人物だ。ミリュウははしゃぐだろうし、先のようにシーラを煽るかもしれない。
そうなればもう手がつけられなくなっただろう。
ゆっくりと、肩まで湯に浸かり、身も心も洗濯するというようなことはできなかったかもしれない。
「大将、本当はファリア殿やミリュウ殿と一緒に入りたかったんじゃねえんですか」
エスクが意地悪な表情を浮かべるのは、決して珍しいことではないが。
「あのなあ」
「本音で語ってくださっても、構わんのですぞ」
と、ドーリンがいうと、
「そうそう、我々は口が硬い」
「ええ、もちろん」
そういって湯船の中を近づいてきたのはミドガルドとゲイン=リジュールだ。
「だから、だな」
セツナは、男たちに迫られて、頭を抱えたくなったのだった。




