第千五百三十四話 エンジュールにて(二)
エンジュールについて早々、役所でゴードンたちと対面したセツナは、そのとき、ジゼルコートの謀反後のエンジュールの様子についても色々と聞いている。
反乱終結後、王都に戻ったセツナは、そこでもエンジュールや龍府の現状について調べたのだが、よくわからなかった。龍府については、解放軍の進軍路だったため、現在間違いなく無事であることや、レムたちの活躍によってザルワーン方面のジベル軍がほぼ一掃されたことがわかったものの、エンジュールの状況は不正確なままだった。ただひとつわかっていたことといえば、エンジュールは、ルシオン軍の制圧下にはなかったということくらいだ。しかし、それだけでも十分過ぎる情報ではあった。
それだけで安心できたからだ。
そして、つい今しがた、セツナがゴードンたちから聞いた話によって、必ずしも危険がなかったわけではないということが判明した。
エンジュールは、ログナー方面にある。ログナー方面といえば、ジゼルコートに与したルシオン軍による侵攻に遭い、マルスール、マイラムが制圧されたことはよく知られた話だ。もしガンディア解放軍の到着が遅れていれば、レコンダールやバッハリアも制圧され、ついでのようにエンジュールも攻め落とされていただろう。
実際、バッハリアもルシオン軍の攻撃を受けたといい、その際、ルシオン軍の一部がエンジュールに攻め込んできたという。
「ルシオン軍が攻め込んできたんだ……」
馬車の中で、ミリュウが呆然とつぶやいた。ファリアも驚きを隠せない様子だった。
「よく無事だったわね」
「さすがは領伯様の黒勇隊! ってところか?」
シーラがにやりと笑いかけてくる。
「黒獣隊も負けていられませんね?」
「負けてねえっての!」
「はい」
シーラの激憤にレムは満面の笑みで応える。シーラの反応が予想通り過ぎて面白かったのだろう。シーラは、そんなレムに憮然とした顔を向け、座席に背を埋もれさせた。
「まあ、黒勇隊の活躍も大きいんだがな」
「だけじゃないってこと?」
「ログナー方面軍が協力してくれたのかしら」
「ううん。エンジュールは独力でこの地を守り抜いたんだってさ」
「へえ、凄いじゃない」
「でも、黒勇隊だけじゃないんでしょ?」
「それなんだがな……」
セツナは、なんとなく話しにくさを感じて、言葉を濁した。
エンジュールがルシオン軍の戦力を撃退することができたのは、もちろん、黒勇隊という戦力があったから、というのが大きい。黒勇隊は、セツナの意向とは関係のないところで戦力を増強していた。ゴードン=フェネックが主導となって隊士の増員を定期的に行っており、いまでは総数五百名を数える大所帯へと変貌を遂げていた。一都市の防衛戦力として考えれば少ないといっていいが、エンジュールほどの規模の街ならば十分すぎるだろう。ましてや黒勇隊はセツナの私設軍隊なのだ。
そのセツナ軍の戦力増強の裏には、どうやらエイン=ラジャールが絡んでいるらしいことがゴードンたちとの会話から感じ取れたのだが、定かではない。もっとも、エインのことだ。彼がセツナのためにと裏で手を回していたとしてもなんら不思議ではない。無論、その“セツナのため”も“ガンディアのため”と言い換えることができるからであり、もしただ“セツナのため”だけになるようなことならば、エインは率先して行ったりはしないだろう。
とはいえ、黒勇隊の増員だけでルシオン軍という精兵のみで構成された軍勢を撃退できるわけもない。たとえ、エンジュールに攻め込んできた戦力がルシオン軍の一部だったとしても、実戦経験の豊富な精兵部隊と、実戦経験などないといってもいい戦闘集団では、どう考えても前者のほうが分がある。
実際、エンジュールは、部外者の協力なしではルシオン軍を撃退できなかったかもしれない、とゴードンは述懐している。
「部外者?」
「ああ。部外者」
「エンジュールにいて、戦いのなんたるかを知っている……部外者」
「だれよ?」
「まさか……」
ファリアがこちらを見て、難しい顔をした。苦々しいまなざしを見ればわかる。彼女の脳裏には、ある女性の顔が浮かんでいるはずだ。
「そのまさかだよ」
セツナは、ファリアの脳裏に浮かんだ人物こそが正解だと告げ、窓の外に目をやった。
セツナたちを乗せた馬車は、エンジュールの中心地からひたすらに離れていく。
エンジュールの郊外に、彼女は住んでいる。
エンジュールは、小さな町だ。田舎町といってもいい。しかし、温泉郷として売り出し始める以前から、この地には温泉目当てのひとびとが集まるようになり、いまではそういったひとびとで溢れかえっていた。緑豊かな美しい景観も、満ち溢れる湯治客、観光客が生み出す喧騒によって色褪せ、静かに暮らすことなど不可能に近い。市街地に限っていえば、そうなのだ。
だから、彼女はエンジュールの郊外に住むようになった。転居の許可が降りたのは、監視をする上でもそのほうが都合がよかったからだ。もし、彼女が外部と連絡を取ったりしても、人里離れた郊外ならば目立つというもので、監視者たちにとってもありがたいことこの上なかったということだ。もっとも、彼女としては外部と連絡を取ることなどありえず、情報部の監視も徒労に終わるだろうといっていたというが。
セツナが会いにきたのは、エレニア=ディフォンそのひとだったのだ。
エンジュールの領伯として、彼女には礼をいわなくてはならなかったからだ。
「なんで感謝する必要があるわけ? セツナを殺しかけたのよ? そんな相手に感謝する道理なんてないじゃない」
ミリュウの感情任せの言葉にも道理はなかったが、そのことはいわなかった。彼女の怒りももっともだ。実際、ゴードンたちもそれを理由にセツナがエレニアに接触することには否定的だった。エレニアは罪こそ問われなかったとはいえ、その罪が帳消しになったわけでもなんでもないのだ。
「そういや、そんな話、聞いたことあったな」
「ぐっさり、刺されたのでございますよね?」
シーラとレムにとって、セツナの暗殺未遂事件は、噂話を聞いた程度に過ぎないのだ。
「ええ。それこそ、生きているのが奇跡といっていいくらい深く、ね」
ファリアがセツナの脇腹を見つめながらいうと、シーラがあきれたような顔をした。
「なんでまたそんな奴を生かしたんだ?」
「御主人様でございますもの」
「あー……そういうことか」
「なんでそれで納得するんだよ」
「そうよ理不尽よ!」
ミリュウが噛み付いたのは、彼女が未だにエレニアを許していないことの現れだ。
「理不尽でもなんでもねえっての。セツナ様のことを知れば知るほど、納得できるものでございます故」
「気持ち悪っ」
「なにがだよ!」
「そういうの、全然似合ってないわよ!」
「てめえのおしとやかな振りよりはマシだろが!」
「なんですってええ!」
「あの、おふたりとも……」
「お姉さま、抑えてくださいまし」
激突するふたりを抑えたのはレムとアスラであり、彼女たちが同乗していなかったらもっと酷い言い合いに発展していたかもしれない。
「……ったく、騒がしい連中だ」
「騒動の中心にいる人間の言葉じゃないと想うけど」
「そうかもな」
セツナは、ファリアのちくりとした一言を肯定するなり、馬車を降りた。ファリアを振り返り、告げる。
「ミリュウのことはよろしく」
「え、わたし?」
「アスラにもな」
「はい。セツナ様、おまかせを」
「え、あ、ちょっと、セツナ!?」
ミリュウが慌てて馬車から飛び降りてこようとしたが、アスラとファリアによって扉が閉じられ、事なきを得る。まだなにやら騒いでいたが、ふたりならば抑えてくれるだろう。
「よろしいのでございますか?」
いつの間にか背後に立っていたレムが、どこか面白そうに問うてくる。
「ミリュウなんて連れて行ったら、話になんねえだろ」
「それはそうでございますが」
ミリュウがエレニアと対面すればどのような状況になるのか、エレニアを知らないレムにもたやすく想像できるのだ。
「おまえだって、別についてこなくていいんだぜ?」
「それは駄目でございます。下僕たるもの、常に御主人様の身の安全を護らなければ」
「ウルクに示しがつかないって?」
「それもございますが。それとも、わたくしよりも、ウルクを連れて行きたかったのでございますか?」
「はは、冗談だろう」
セツナは、ウルクを連れて行った場合のことを想像して、苦笑を返した。ウルクとミドガルドは、セツナたちとは別の馬車に乗っている。エスクたちはさらに別の馬車に乗っているのは、ウルクやミドガルドとは話が合わないだろうという配慮からだった。また、もう一台の馬車には様々な荷物が詰め込まれていたりする。
「ウルクを連れて行っても、過剰反応しそうだ」
「ふふ。そうですね」
ウルクがエレニアの所業を知れば、どのような反応を示すのかわかったものではないというのは、レムも想像するようだった。
エレニアが住んでいるのは、町外れの山の麓にある屋敷だった。周囲に人家はない。市街地から遠く離れていることもあって、色々と不便そうではあるが、彼女にとってはそのほうが住みやすいのだろう。
屋敷というからには、決して小さい建物ではなかった。彼女と彼女の子供だけが住んでいるわけではなく、彼女の親類縁者も一緒に暮らしているという。ディフォン家は、ログナーにおいては名家だったが、ログナーがガンディアに併呑したあと、いくつかの有力貴族の没落とともに権勢を失った。一族は、ガンディアの貴族社会に溶け込もうとしたようだが、エレニアが大事件の実行犯となってしまったため、それも叶わぬ夢となり、ログナーの田舎に隠れ住むようになったという。エレニアがエンジュールに住むようになって、少しずつ集まってきたといい、いまでは大家族のようになっているらしい。
ディフォン家は没落したものの、エレニアの実弟アラン=ディフォンがログナー方面軍の軍団長に抜擢されたことにより、隆盛の可能性を見せている。アランは、エレニアの凶行に心を痛めていたことがセツナの記憶に残っていた。
そんな屋敷の敷地内に入ると、エレニアの姿はすぐに見つかった。
「やあ、エレニア」
「……セツナ様!?」
エレニアは、洗濯物を干している最中、手にした洗い立ての衣服を手に硬直してしまった。




