第百五十二話 取り戻すべきは
ジナーヴィ=ライバーンは、その名の通り、ライバーン家の人間である。
五竜氏族と呼ばれる、ザルワーンという国の中でも特別な地位にある一族であり、中でもライバーン家の現在の頭首ミレルバスはザルワーンの国主として君臨していた。
彼は、ミレルバスの次男であった。
ライバーン家の一員として生まれた彼は、それこそ、栄光と希望に満ちた未来を嘱望されながら、大事に育てられた。五竜氏族は、他国においては王族のようなものだ。生まれながらにしてだれからも持て囃され、羨望の的だといえた。
そんな彼の運命が変わったのは、十年前だ。
当時十六歳だった彼は、突如として武装召喚師育成機関・魔龍窟に入ることを強制された。彼はなにもわからぬまま、魔龍窟の闇に落とされ、そして、オリアン=リバイエンの主催する地獄での生活を余儀なくされた。血で血を洗い、死で死を濯ぐ、絶望的な日々の始まり。生きるためには戦わねばならず、同胞を、友人を、同じ五竜氏族の子女を手にかけなければならなかった。
彼が長男であったならこんなことにはならなかったのだ、というオリアンの嘲笑が、いまも耳朶に残っている。そしてそれが事実なのは、集められたものたちを見れば一目瞭然だった。五竜氏族の頭首になる権利を持たざるものだけが、地の底に投げ入れられ、命を賭した生存競争を強いられていたのだ。
長兄ウルグに家督を継がせるつもりのミレルバスにとってみれば、ジナーヴィの存在など不要だったのだろう。だから、前国主の要請に応じ、ジナーヴィを差し出した。差し出せなければ、ライバーン家の立場が危うくなったのは間違いない。家のためだ。それは理解できる。家を存続させるためならば、子供の人生などどうなったって仕方のないことだ。それが、当時のザルワーンの状況だった。
国主の要請に応え、彼以外の多くの子女が魔龍窟行きになった。ほとんどが家族のようなものであり、友人や仲間だった。五竜氏族は五つの家系ではあったが、元を辿れば同じ血筋なのだ。薄くはあっても、血縁者たちだった。
五竜氏族の血縁者の中から強力な武装召喚師を創りだそうとした理由は、わからなくはない。氏族ならば、制御ができるだろうという目論見がひとつにはあっただろう。五竜氏族に列するものが武装召喚師として活躍すれば、ザルワーンの支配はさらに安定かつ長期的なものになる、という考えもあったのかもしれない。だから、魔龍窟には何十人、何百人もの氏族の血縁者が投げ入れられ、地獄を作った。
ジナーヴィは、当初、ミレルバスを恨まなかった。ミレルバスにはミレルバスの使命があり、それはライバーン家の保全であり、立場の確保であり、ザルワーンのために尽くすことであったのだ。それこそ、子供の頃から耳が痛くなるほどに聞いてきたことだ。
国のために成すことを成せ。
ザルワーンのために己を殺し、他を活かすのだ。
父ミレルバスの怜悧なまなざしは、子供に対して向けるようなものではなかったかもしれないが、だからこそ、幼いジナーヴィの胸を打ったのかもしれない。ジナーヴィは、子供に対しても甘言を吐かず、常に厳しくあろうとする父の姿にこそ、自分の理想を見た。だからミレルバスの力になりたかったし、いつか父親が権力を得たとき、その傍らにありたいと願ったのだ。
ゆえに、魔龍窟の地獄のような日々も受け入れようとした。生き抜いた暁には、凶悪な武装召喚師となった自分が生まれているのだ。望んだ形とは違うにせよ、ミレルバスのためになるはずだ。ミレルバスのために、地獄で得た力を振るおう。
そう考えれば、苦痛は軽減した。
だが、その想いも長くは続かなかった。
ジナーヴィには兄以外に妹がいた。メリル=ライバーンである。彼女は、ジナーヴィが魔龍窟に投じられたころにはまだ七歳だった。ゆえに魔龍窟に入れられなかったのだろうと推測したし、それも間違いではなかったはずだ。だが、メリルは、ジナーヴィが投じられた歳と同じ十六歳になって、魔龍窟に入ってくることはなかった。
それだけならば、まだよかったのかもしれない。理由があるのだ、と勝手に考え、納得もしただろう。しかし。
「メリル? ああ、君の妹か。彼女は軍師の妻としてよくやっているよ。ミレルバスが溺愛するわけだ」
オリアンの嘲笑が、ジナーヴィの中のなにかを破壊した。
それから一年。
ジナーヴィは、魔龍窟から地上に引き上げられた。十年ぶりに見る陽の光は、あまりにまぶしく、視神経を焼いてしまうのではないかと思うほどだった。極彩色の世界。あざやかで、強烈な色彩の乱舞する楽園。地獄とはまったく異なる世界の様相は、彼の荒んだ心にも多少は安らぎを与えてくれた。
だが、国主となってなお、救いの手を差し伸べてくれなかった父との対面ほど寒いものはなかった。
国主ミレルバス=ライバーンの威容は、十年前よりもより厳しいものにはなっていたが、ジナーヴィの冷えきった魂が動くようなことはなかった。形式上の挨拶を交わして、聖将の任命を受けた。聖将といえば、ザルワーン軍の頂点に立つものの肩書であり、地上に上がったばかりの武装召喚師風情には重すぎるものだったが、あとでそのからくりがわかった。
ミレルバスは、聖将の上に神将なるものを設けていたのだ。ジナーヴィをぬか喜びさせるための叙任ではないのだろうが、彼は、そこに父の悪意を見た。
聖将ジナーヴィ=ライバーンの最初の任務は、龍鱗軍の統合であり、来るべきガンディアとの決戦に備えよ、というものだった。
「ジナーヴィ、よく生き抜いてくれた……」
十年ぶりの再会の最後、ミレルバスはジナーヴィを抱擁してきた。
「父上……」
ジナーヴィは驚き、涙を流したが、それは父の抱擁になにも感じない自分への苦笑の涙だった。だが、ミレルバスはそれを感極まった挙句のものだと勘違いしたのか、ジナーヴィが泣き止むまで抱擁をやめなかった。
ジナーヴィはあまりの滑稽さに笑い飛ばしたくなったが、なんとか堪えた。それが嗚咽を堪えているように思えたらしい。あとでフェイに笑われたが、仕返しはしなかった。彼女が笑うようになったことが、少しだけ嬉しかった。
メリルと逢ったのはその後だった。十年ぶりの再会。彼女は兄が生きて帰ってきたことを心の底から喜んでくれた。ジナーヴィは、メリル自身に対しては複雑な感情を抱いてもいなかった。彼女に罪はない。むしろ、哀れな人生だとすら思ったものだ。
メリルは、ミレルバス執心の軍師を繋ぎ止めるための道具とされ、嫁がされていた。しかし、彼女の夫ナーレスは、ガンディアの工作員だったことが判明し、拘束。メリルはライバーン家に連れ戻され、軟禁されてしまっていた。それでも悲壮感がなかったのは、彼女がナーレスという男を愛し、ライバーンの人間ではなく、彼の妻として在ろうとしていたからかもしれない。
ジナーヴィは、彼女の有り様に自分の姿を重ねた。
ライバーンの人間ではなく、一個の武装召喚師として生きてみるのもいいだろう。
だが、そのためには現状を打開しなければならなかった。
ジナーヴィはいま、ザルワーン中央付近のゼオルに滞在している。
国主の命令を実行するために、前線に向かう道中、情報を集めながら各軍との合流を行っていた。
ヴリディア砦の第四龍牙軍から五百名を吸収、ゼオルでは第七龍鱗軍をまるごと手中に収め、さらにナグラシアから撤退してきた第三龍鱗軍と合流した。これで総勢二千二百名となった。第七龍鱗軍が千人、第三龍鱗軍の生き残りが七百名ほどだったのだ。これではガンディア軍に対抗しようにも、あまりにも人数が足りない。ジナーヴィとフェイが一騎当千の働きをすればどうにかなる、という問題でもない。
ジナーヴィは、軍団名を聖龍軍と改めるとともに、スルークに駐屯する第六龍鱗軍翼将ザルカ=ビューディーに合流を命じる書簡を送りつけた。スルークとゼオルはあまり離れておらず、鳩を飛ばせば半日もかからなかった。その日のうちに返事がきたが、「神将ならざる聖将に唯々諾々と従う道理はない」というものであり、ジナーヴィの肩書を認めていないか、馬鹿にしたものであった。
ジナーヴィは、聖龍軍に号令した。
「国主の命令に反抗する逆賊ザルカ=ビューディーを討つ」
ゼオルは瞬く間に騒然とし、彼の行動を止めようとするものたちがつぎつぎとやってきては、口々に諌めてきたが、ジナーヴィは彼らの讒言を聞くつもりもなかった。ジナーヴィには大義がある。国主が命じたことだ。各地の軍と合流し、ガンディア軍に対抗せよ、と。
「ゴードン翼将、ケルル翼将、どう思う?」
気の弱そうな、いかにも文官上がりといったふたりの翼将を前にして、ジナーヴィは目を細めた。
ゼオル庁舎内に設けた彼のための執務室。室内にいて、生きている人間は、ジナーヴィとフェイ=ヴリディア、そしてふたりの翼将だけだった。
ジナーヴィの足元には、いくつかの死体が転がっており、血の臭いを漂わせている。彼の背後の椅子に座ったフェイの手に、血塗られた短刀が握られていた。
「彼らは俺にザルカ討伐をやめろといってきたんだが、どういうことなんだろうな? 俺は国主の命令を断行するだけだ。スルークの兵力を吸収し、ガンディア軍に備えなくてはならん。ガンディア軍から逃げてきた貴様ならわかるだろう、ゴードン翼将」
「はっ……」
うつむき、なにも言い返してこないゴードン=フェネックの態度に、ジナーヴィは満足した。部下は、こうでなくてはならない。上官の命令に従い、行動するだけでいいのだ。意思など持つ必要はない。考えるのはジナーヴィであり、ジナーヴィの手足と動くのが彼らの役目だ。
「出撃準備をしておけ。それと、ザルカ翼将に降伏勧告をだしておけ。もう一度合流する機会を与えるのだ。逆賊を討つとはいえ、兵を損耗するのもつまらん」
「はっ」
異口同音に敬礼して部屋を出て行く翼将の背を見送ると、ジナーヴィは、ゆっくりと後ろを振り返った。フェイ=ヴリディアが、退屈そうに短刀を弄んでいる。髪の長い、小柄な女だ。あの地獄をよく生き抜いたものだと思うほどに華奢で、抱きしめるだけで骨が折れそうだった。もっとも、それは外見からくる印象にすぎない。実態は、ジナーヴィと同じ化け物だ。
「どうするの?」
「俺たちの国を作るのさ」
ジナーヴィがいうと、フェイが笑った。殺戮兵器と化し、感情を失っていた彼女が、人間らしい表情を取り戻し始めている。そのことがなによりも嬉しいのだが、ジナーヴィはそれを言葉には出さない。
「国主様に逆らう?」
「いや……まずは従ってやる」
ガンディア軍を退けなければ、話にならない。
彼としてはガンディア軍が国外に撤退してくれれば、それだけでよかった。殲滅する必要はない。打撃を与え、決戦力を奪えば、ザルワーンとの戦争も諦めるだろう。ガンディアとて無尽蔵に兵を出せるわけではないのだ。戦略的に撤退を余儀なくさせれば、あとは好きにできる。
ガンディア軍迎撃のための軍を以って独立し、ザルワーンに別天地を作ってやろう。そのためには軍勢を支配しなければならず、支配するには暴力と恐怖に頼る以外にはない。力による支配は長続きしないというが、圧倒的な力があれば話は別なはずだ。
その力を、ジナーヴィもフェイも持っている。
「失われた十年を取り戻そう」
椅子に座ったままのフェイの肩に手を置くと、彼女ははにかみながら顎を上げてきた。