第千五百二十七話 刹那の夢
「……陛下。畏れ多いことながら、わたくしにも確かな夢がございます」
セツナは、思い切って口を開くと、レオンガンドの目を見つめ返した。不敬に当たるかもしれないことは重々承知だったが、自分の想いを伝えるには、真剣に向き合うことが大事だと考えたのだ。レオンガンドは、そんなセツナの態度にも気分を害さなかったようで、妙に嬉しそうに微笑んだ。
「ほう……。聞かせてくれるか?」
「もちろんです。とはいっても、野心や野望などというほどのものではございませんが」
「ふむ。むしろ興味が湧く」
レオンガンドの嬉しそうな反応がセツナには予想外だったが、しかし、そういった反応こそ求めていたものかもしれなかった。レオンガンドは元々器が大きく、懐の深い人物だとセツナは想っている。理想的な主君であり、だからこそ、セツナは彼に忠誠を誓い続けることができるといってもいい。器の小さい、狭量な主君には、セツナなど嫉妬と羨望の対象になりかねない。
セツナは、そんなレオンガンドとナージュ、それにエリウスとレムの視線の中で、夢について語った。
「わたくしの夢は、その……なんといいますか、わたくしの周りにいる皆の幸せにございます」
「皆の幸せ……か」
「なんとセツナ様らしい、素敵な夢ですね」
「そ、そうですか?」
「ああ。素晴らしい夢だと想う」
満面の笑みを浮かべるナージュに、レオンガンドが大きく賛同し、セツナに目を向けた。獅子王の隻眼は、いつになく穏やかで、セツナにはそんなレオンガンドの表情を見ることができるのは幸福というほかない。
「周りにいる皆の幸せを願う――これほど尊い想いはないだろう」
レオンガンドは、静かに、いう。
「人間というのは、脆く、か弱く、情けない生き物だ。肩を寄せ合い、力を合わせなければ生きていけない生き物なのだ。それなのに、多くのひとびとは、自分を中心とした世界にとらわれがちだ。自分だけを見て、自分の幸せだけを願うものも少なくない。それは致し方のないことなのだろう。周囲の人間のことまで考えられるような広い視野を持つのは、決して簡単なことではない。そう思っていても、実際にそのようにできるものばかりでもない」
穏やかな表情で紡がれる温和な声音が、セツナの耳朶に優しく染み透るようだった。
「君は、違う。君には力がある。黒き矛という偉大な力がある。その途方もない力を持ちながら、力に振り回されず、周囲のひとびとの幸せを願うという細やかさも併せ持っている。並大抵の人間にできることではないよ」
「陛下の仰る通りですわ。セツナ様は、まさにガンディアの英雄なのですね」
「願わくば、君がいう周りにいる皆の中にわたしやナージュが入っているといいのだがな」
「ええ」
レオンガンドとナージュが笑い合う様子がいかにも仲睦まじい夫婦そのもので、セツナは、そこに幸福の形を見た。
これまで、結婚について散々考えさせられることはあったが、結婚することがどれほどの意味を持つのか、はっきりと明確に想像することはできなかった。結婚は、いずれしなければならない。立場もある。領伯として、ガンディア王家の家臣として忠を尽くすのであれば、家を持ち、子孫を繋いでいく必要がある。独身でいられるわけもない。たとえ王家の家臣でなくとも、領伯でなくとも、この世界で生きていくと決めた以上、いずれは結婚したのかもしれないが、そういうこととは違うことだ。
立場上、必要なことなのだ。
レオンガンドを始め、ガンディア政府がセツナに結婚を迫ってくるようなことはいまのところまったくないのだが、なるべく早いほうがいいというのは共通認識のようだった。黒き矛のセツナは強い。敵なしといっていいくらいの猛者だ。しかし、十三騎士の集団に勝てなかったように、セツナでも負けることはありうる。落命する可能性だって、十分にあるのだ。ベノアでセツナが命を拾えたのは、ラグナが身代わりのごとく命を燃やしたからにほかならない。
今後、そのような窮地が訪れ、セツナが死ぬことはありうることだ。
そのとき、仮にセツナに子がいれば、その子にセツナの家を継がせることができる。三つの領地を持つ大権力者の家だ。一代限りで絶やさせるなど、ガンディアの評判に関わりかねない。
そういった理由もあって、セツナは結婚を視野に入れなければならなかったのだが、気乗りしなかったのも事実だ。
国のために結婚することは、悪いことではない。それはわかっている。が、それにしても、そこに国のため以外のなにかが欲しいと想うのは、人間としてありふれた感情だろう。
そのなにかが、いま、目の前にあったのだ。
相思相愛の結婚生活は、幸福以外のなにものでもないということが実感として理解できる。
セツナは、涙ぐみかけて、顔をうつむけさせた。理由もなく泣き出せば、さすがのレオンガンドやナージュも困惑させるに違いなかったからだ。
「――まことに畏れ多いことですが、当然、陛下や王妃殿下、王女殿下に太后殿下も、わたくしの夢の対象にございます」
「まあ、それは嬉しい。セツナ様ならば、きっとわたくしたちを守ってくださると信じておりますわ」
「ふふ……本当にな」
レオンガンドは、ナージュの言葉にうなずき、さらにこう続けた。
「そんな君だからこそ、母上を頼めるのだ。母上は奔放な方でもある。だからこそ臣民に慕われてもいた。王宮という狭い世界から解き放たれた以上、いままでよりも自由になさるに違いない。母上を見守るのは大変なことだと想うが、この国の一大事だと思って、ことにあたってくれ。よろしく頼む」
「わたくしからも、どうか義母上のこと、よろしくお頼み申し上げます」
「御意のままに」
セツナは、レオンガンドとナージュに敬礼し、深々と頭を下げた。
その瞬間、セツナには、グレイシア・レイア=ガンディアの保護という新たな役目が加わった。
それがどれほど大変なことなのか、セツナが身を持って知ることになるのは、もう少し先のことだった。
《獅子の尾》隊舎は、静寂に包まれていた。
夜だ。街中を走り回る子供たちもいなければ、隊舎を引っ切りなしに訪れていた軍関係者も姿を見せなくなり、隊舎には、《獅子の尾》の隊士と隊舎付きの料理人、使用人だけがいた。昼間ならばその人数でも騒ぎになることもあったが、騒動の中心になりがちな人物がひとりいないだけで、途端に静けさが支配的になるのが面白かった。
時計の針が時を刻む旋律だけが、この広間に小さく反響している。広間には、ファリア以外にはミリュウとアスラだけしかおらず、そのことも静寂に一役買っているだろう。シーラは自室にいるようであり、エスクたちは食堂で酒盛りをしているらしい。ウルクはミドガルドの元に戻っており、レムは、この隊舎の主とともに王宮に出向いている。ルウファはエミル、グロリアとともにバルガザール家本邸で結婚式の段取りについて話し合っていることもあり、隊舎に顔をだすことはない。マリアは、今日は王宮で仕事で、帰ってくるとしても遅くなるという話だった。
人が出払っている。
本来ならば、シーラ配下の黒獣隊やエスク配下のシドニア戦技隊が賑やかな日常を演出してくれるのだが、黒獣隊も戦技隊もそれぞれの任務地から王都に戻ってこられていないのだ。戦技隊くらいならば、王妃ナージュ・レア=ガンディア、王女レオナ・レーウェ=ガンディアとともに帰ってこられた気もするのだが、エスクの命令もなしに任務地を離れることができなかったのだろう。それは、黒獣隊にもいえることであり、シーラもエスクも王都が落ち着きを取り戻してから、部下たちに龍府に向かうよう手配していた。セツナの領地である龍府ならば、任務地よりは気楽に構えていられるからであり、長期休暇中、龍府に立ち寄るのは間違いないからでもある。
「セツナ、遅いね」
「ええ」
「なんの用事なのかしら」
「さあ?」
「なんでもいいけど、明日からゆっくりできるといいね」
「そうね」
「……セツナと結婚したいよね」
「ええ」
「ファリア、さっきから適当に返事してるでしょ」
「え?」
きょとん、と、ファリアは顔を上げた。昨日、術師局から貰い受けた書類を読み込んでいたのだ。それはマクスウェル=アルキエルの研究に関するものであり、戦後、ファリアが術師局に頼んで《大陸召喚師協会》に当たってもらっていたものだ。ファリアは《協会》とは無縁の存在であるため、彼女から《協会》に頼むことはできず、そこでガンディアの術師局を利用したというわけだ。もちろん、なんの取引もなく術師局がファリアの願い事を聞いてくれるはずもなく、ファリアは休暇の合間を縫って術師局に顔を出し、局長ハンナ=エンドーウィルの相談に乗ったりしなければならなかったのだが。
その取引の成果もあり、《協会》ガンディオン支局施設内に死蔵されていたマクスウェル=アルキエルの研究書が手に入ったのだ。マクスウェル=アルキエルがガンディアに流れ着き、ジゼルコートの元で生活していたことは《協会》ですら認識していなかったことなのだが、ファリア=バルディッシュの高弟のひとりだったほどの武装召喚師が《協会》の現地支局に接触しないはずもないだろうというファリアの考えは正しかったわけだ。もっとも、マクスウェル=アルキエルは、その名を《協会》支局員に告げたわけではないらしく、そのため、支局の記録にも残らず、リョハンにも知らされなかったのだ。もし、マクスウェルがその名を告げていれば、支局の記録に残った上でリョハンに報告され、リョハンは大いに彼を注目し、監視下に置いただろう。
マクスウェル=アルキエルは、リョハンの戦女神の直弟子だったのだ。下山し、リョハンとの関わりを断ったとはいえ、その動向を気にしないわけにはいかない。もし戦女神の直弟子がなんらかの事件を引き起こせば、リョハンの信用問題に関わる。が、マクスウェル=アルキエルは、リョハンの追求から逃げ切り、隠遁することに成功した。
もっとも、リョハンが彼の現状を把握していたところで、此度の戦いの結果が変わるわけもない。
マクスウェルは、独自の術式理論を長年に渡って実践し続け、その結果あれだけの召喚武装を呼び出すことに成功したのだ。たとえリョハンの監視下であったとしても、その結果が変わるはずもない。変わることがあるとすれば、マクスウェルの撃破にリョハンの力を借りることができたかもしれないという程度のことだ。
書物を読みながら、そういうことばかりを考えていたファリアには、ミリュウの半眼がどういう意図のものなのかわからなかった。
「セツナと結婚したいって聞いたら、普通なら慌てふためくのがファリアだもの」
「へ……?」
ファリアは、ミリュウがなにをいっているのか、一瞬、まったく理解できなかった。そして、理解した瞬間、頭の中が真っ白になった。
「ええっ!? そ、そんなこと聞いてきたの!? なんで!?」
「ほら、ね」
「さすがはお姉さま」
「なにがさすがなの!?」
べたべたとミリュウにくっつきながら彼女を褒め称えるアスラに、そこはかとない色気を感じずにはいられなかったが、そんなことはどうでもよくなるくらいの衝撃が彼女の頭の中を駆け抜けている。アスラはしかし、そんなファリアの様子を面白おかしく眺めており、目を細めて笑った。
「ファリアさんって、凄くわかりやすい方なのですね」
「そうよ。っていうか、セツナの周りにはわかりやすいのしかいない感じよね」
「あなたにいわれたくないわよ!」
ファリアが声を荒げると、今度はミリュウがきょとんとした。
「へ?」
彼女自身はわかっていないようだが、ミリュウほどわかりやすい人間もいないのだ。




