第千五百二十六話 グレイシアの件
レオンガンドのいう母上とは、無論、太后グレイシア・レイア=ガンディアのことだ。
マルディア救援の折、謀反が起きることを予期していたレオンガンドたちは、王妃ナージュ、王女レオナ、太后グレイシアが謀反に巻き込まれることを恐れ、内密に龍府に身柄を移していた。ナージュたちを人質に取られると、さすがのレオンガンドも決意を鈍らせることになりかねない。
いや、ジゼルコートのことだから、人質として利用するのではなく、レオンガンドへの叛意の証として命を奪われていた可能性も低くはなかった。もちろん、謀反を起こすものがジゼルコートと断定していたわけではないが。いずれにせよ、レオンガンドに敵対し、ガンディアの大半を敵に回したものが狂気の末にナージュたちを殺してしまう可能性を恐れた、ということだ。
龍府天輪宮にナージュたちの身柄を隠したのは、龍府がガンディア国内にありながらもある種の独立国の如き様相を呈し始めているからだ。
それにはまず、龍府がザルワーンが世界に誇る古都であり、数百年に渡って歴史を紡いできたという誇りが龍府に住む人々にあるということを理解しなければならない。その上で元よりザルワーン人は気位が高いということも知っておかなければ、なぜそういう状況になりつつあるのかわからないだろう。
ザルワーンは、つい二年ほど前まで小国家群の中でも有数の大国だったことは、だれもが知っていることだ。そしてその事実は、ザルワーン国民の大半が誇りとし、自負していたのだ。ログナーやガンディアを弱小国と侮り、見下していたことをガンディアの一地方に成り果てたからといって即座に改められるわけもない。無論、ガンディアによるザルワーンの支配開始から二年近くが経過し、多くのザルワーン人は、ガンディア国民としての意識を持ち始めてはいるが、同時にザルワーン人としての誇りを忘れてはいないのだ。
その中でも龍府の住人ほどザルワーン人としての自負心の強いひとびとはいないという。古都にして首都たる龍府に生まれ育ち、その想いを連綿と受け継いできたのだ。国が滅びたいまでも失われることのない誇り高さは、ある意味見習うべきなのかもしれない。
そんな誇り高いひとびとの住む龍府がセツナの領地となったのは、昨年のことだ。ガンディアの英雄たるセツナ第二の領地となったことで、龍府の住人は、龍府がガンディアの中でも特別な都市になったと思うようになったらしい。ガンディアでは、領伯そのものがめずらしいのだ。そう考えるのも無理はない。
そういう理由もあって、龍府はガンディア国内にあって独立不羈とでもいうべき雰囲気に包まれており、警備も厳重を極めた。都市警備隊も龍府生まれのザルワーン人で固められていたし、龍府駐屯のザルワーン方面軍第一軍団もほとんどがザルワーン人だ。部外者が入り込む余地は少ない。
ナージュたちの身の安全を護るには、その独立自尊の空気が役立つだろうとレオンガンドたちは考えたのだ。
また、セツナが独自に天輪宮の護衛組織として龍宮衛士を作っていたことも影響として小さくない。セツナの息がかかった組織だ。レオンガンドとしては信用するに値すると判断したのだろう。
事実、龍宮衛士はナージュたちの身辺警護を見事に勤め上げたといい、レオンガンドは、自分たちの考えが間違いではなかった、といった。
龍宮衛士の隊長を務めるリュウイ=リバイエンは、ナージュたちを庇って負傷したといい、ナージュはそのことに胸を痛めていた。リュウイはミリュウの実兄であり、そのことについてはミリュウからも聞いていた。ミリュウは、解放軍の一員として龍府立ち寄った折、療養中のリュウイに会ったのだ。ミリュウいわく、年甲斐もなくはしゃぎすぎだ、とのことだが、兄が仕事熱心であることに関してはまんざらでもなさそうな表情だったことをセツナは覚えている。ナージュやグレイシアがリュウイを気遣ってくれたことにも感謝していた。セツナがそのことをいうと、ナージュは、自分のために傷つくもののことを想うのは、上に立つものとして当然のことだといい、それはガンディアの臣民すべてに向けられるもののようだった。
ナージュとレオナが王都に帰ってきたのは、もちろん、ジゼルコートから王都を取り戻し、謀反が完全に終結したからだ。ジゼルコートの死とガンディア本土の奪還により、ジゼルコート率いる反乱軍は力を失った。首謀者が死んだのだ。ジベルやアザーク、ラクシャといったジゼルコートに与した国々は、戦力があろうとなかろうと、戦いを継続することができなくなってしまった。
安全が確保された以上、王妃や王女が龍府に留まっている理由はない。
ナージュ、レオナ、グレイシアが王都に呼び戻され、ナージュとレオナだけが昨日のうちに王都の地を踏んだ。王都は、王妃と王女の無事の帰還に沸き立ったに違いない。
しかし、グレイシアは、戻らなかった。断固として、龍府から離れることを拒み、ナージュたちを困らせたという。
「太后殿下は……なぜ、戻られないのでしょう?」
「……色々、想うところがお有りなのだろう」
レオンガンドは、セツナの疑問に対し、睫毛を伏せるようにした。その反応はレオンガンドの複雑な心中を表しているようで、セツナにはそれ以上深く聞き出すこと憚られる気がしたが、そんな風に考えている間にレオンガンド本人が内心を語ってくれた。
「此度の内乱、母上には辛いことが多すぎたのだ。考えても見給え。謀反を起こしたジゼルコートは、わたしにとっては叔父であり、母上にとっては義理の弟に当たるひとだ。母上は、愛情の深い方だ。だれに対しても、別け隔てのない愛情をかけてこられた。君も知っているだろう」
「はい」
「ジゼルコートは、母上にとって掛け替えのない家族だった。わたしにとっても同じだが、わたしは王としての立場がある。覚悟がある。どうとでもなるものだ。しかし、母上は、違う」
どう違うのか、レオンガンドはいわなかった。しかし、セツナにもなんとなくわかるような気がした。グレイシアは、素晴らしい人物だ。太后という立場にありながら、権力を傘に着ることなく、だれに対しても気さくで、優しく、常に笑っているような、そんなひとだった。セツナにも実の家族のような愛情を注いでくれている。そのことには感激するしかなかったし、そういうこともあるから、セツナはグレイシアを敬愛し、尊んだ。だが、その優しさの中にか弱さが見えていたのもまた、事実だった。権謀術数渦巻く政治の世界を生き抜いてこられるほどの強さはありながらも、どこか、酷く脆いところがあるように想えたのだ。
それは、レオンガンドには見られないものだった。
覚悟の違い、なのかもしれない。
「母上には、受け入れがたいことだったのだろうな。ジゼルコートの謀反とその結末――いや、結末に至る過程すらも、受け入れられないことだったのかもしれない」
レオンガンドは、遠い目をしていた。謀反から続く解放戦争のことを思い出しているのだろう。謀反の終結に至るまで、数多くの犠牲を払った。払わなければならなかった。失ったものは数知れず、得たものは数える程もない。
「わたしは、母上にとって大切な家族を殺したのだ。どう言い繕っても、その事実は変わらない。たとえそれ以外に道はなかったとしても、仕方のなかったことだとしても、母上にしてみれば、家族を殺されたのだ。母上がわたしと顔を合わせられないのは、そういうことなのだろう」
レオンガンドは、ゆっくりと息を吐いた。ため息は、彼の心中に渦巻く複雑な想いを虚空に浮かばせ、消える。セツナにできることといえば、そんなレオンガンドの心中を思いやる以外にはなかった。ナージュも同じなのかもしれない。レオンガンドを見つめる王妃の表情は、ことさらに痛ましいものだった。
「わたしは、母上を無理に王都へ呼び戻そうとは想わない。母上には母上の考え方がある。想いがある。心に整理がつくまでは、どこでなにをしてもらっていても構わないと考えている。ただ、母上には太后という立場もあるのだ」
レオンガンドが、いう。
「いまは、いい。わたしの敵対勢力は一掃され、ガンディアは一枚岩になろうとしている。政敵はもはや存在せず、母上を利用しようとするものはいまい。しかし今後、我が国がその版図を広げ、外部から流入してきたものたちが、母上の存在に目をつけないとも限らない。母上のことだ。そういったものたちですら広い心で受け入れ、愛情でもって迎え入れるだろう」
政治利用されることさえ受け入れてしまうのが、グレイシアの欠点といえば欠点だった。実兄とはいえ、ラインス=アンスリウスに担がれることを認めてしまっていたことが、レオンガンド派と反レオンガンド派の対立を煽ることとなったのは疑いようのない事実であり、そういう政治的な鈍さがグレイシアにはあるのだ。レオンガンドが憂慮するのは、そういった政治的な鈍感さを見抜かれ、グレイシアが政治利用されることなのだろう。
「それそのものは悪いことではない。母上の愛情は、純粋だ。そこに他意はなく、悪意もない。母上と触れ合ったことでガンディアへの忠誠を誓うようになったものもいる。母上の愛情が上手く働けば、そのようなことだった起こりうるのだ。しかし、必ずしもそういう相手ばかりではない。中には、そんな母上の純粋さを悪用しようというものがいる」
それがだれとは、いわなかった。きっとラインス=アンスリウスを始めとする、太后派と名乗った反レオンガンドの一派に違いない。無論、それだけではないだろうが。
「今後、ガンディアが版図を拡大する中で、母上が自由に振る舞い続ければ、そういった連中が現れるのは間違いない。太后派の再結成など、笑い話にもならん」
彼の苦々しい表情は、太后派に頭を悩まされ続けてきたことを思い出したからなのかもしれない。太后グレイシアという神輿を担いだことで政治活動に大義を得た太后派は、レオンガンドたちにとってこの上なく嫌な存在だったのだ。太后派は、ラインス=アンスリウスらが死ぬまで、レオンガンドの足を引っ張り続けた。そんなものが再び結成されれば、レオンガンドには面白くない未来が待っているのは想像に難くない。
「そこで、セツナ。君に頼みたいのだ」
「なにを……でしょう?」
「母上のことを、だよ」
レオンガンドの答えは、想定した通りのものだったが、しかし、それだけではよくわからなかった。
「具体的になにを、というわけではない。ただ、母上の身の回りのことを君のほうで見守ってやって欲しいのだ。君は、三つの領地を持つ領伯。この国においてはわたしに次ぐ権力者といっても過言ではない。母上が君の元にいる限り、君の保護下にある限り、だれも母上に寄りつくことはできまい。母上に近づく前に君に気に入られなければならないのだからな。そして、君がそのようなものを近づかせるとは想い難い」
レオンガンドにじっと見つめられて、セツナは、この上ない幸福に包まれていく自分に気づいた。レオンガンドの全幅の信頼を感じるのだ。
「君になら、セツナになら、安心して任せられる」
「陛下……」
「本心だよ。君はガンディアの英雄だ。いまでは、君のことを守護神と呼ぶものもいるそうじゃないか。確かにその通りだな。君はこの国の守護神だ」
「陛下の仰る通りですよ。セツナ様」
ナージュもまた、セツナに対し全幅の信頼を寄せている、そんなまなざしを向けてくれていた。
「セツナ様がいるからこそ、わたくしはこうやって王都に帰ってこられたのですよ」
「君がいなければ、わたしはこの世にいなかっただろう」
マクスウェル=アルキエルの《時の悪魔》が、それほどまでに凶悪な召喚武装だったということだ。もしあのとき、セツナがグリフとともに転移してこなければ、窮地は窮地のまま進行し、ファリアたちは全滅、そのままガンディア軍そのものが壊滅した可能性は極めて高かった。《時の悪魔》は、マクスウェル独自の術式構築理論によって召喚されたものであり、その力は絶大というほかなく、ファリアたちが力を合わせても太刀打ちできなかった。一方的な蹂躙。セツナが間に合ったのは、幸運というほかない。
「ジゼルコートの謀反そのものは失敗に終わったとしても、な」
レオンガンドがいうには、あのままガンディア軍が壊滅し、レオンガンドが死んだとしても、ジゼルコートの謀反が成功することはなかったということだ。たとえあの場でレオンガンドとガンディア軍を滅ぼすことができたとしても、ジゼルコートには戦力が残っていなかった。《時の悪魔》が無制限に召喚できるのであればまだしも、そういうわけにはいかないだろう。二十年もの歳月を費やした術式によってようやく召喚できたのだ。再び同じ召喚を行うには、また二十年近い時間を術式の構築に費やさなければならないはずであり、そんな猶予があるわけもなかった。
王都に残った戦力に対抗することさえできず、ジゼルコートたちもまた滅びたに違いない。
そうなれば、ガンディアはどうなったのか。
王位継承者にはまだまだ幼いレオナがいる。
彼女が成長するまでだれかが後見人となって国を率いていくことになったのかもしれず、その場合であったとしても、ジゼルコートに与したものたちは滅び去ったため、レオンガンドの理想に近い国造りはできたかもしれない。もっとも、国王と戦力の大半が失われたことは、ガンディアにとっての大損失であり、大混乱が起きたのは間違いない。
「そんな君に押し付けるようなことではないのだが、君にしか頼めないことでもあるのだ」
「わたくしにしか……ですか」
「君には野心などあるまい」
レオンガンドの隻眼が鈍く輝いていた。まるで心の奥底まで見抜くようなまなざし。実際、見透かされているのかもしれないが、見透かされたところで恥じるようなものはどこにもなかった。
「人間、だれしも権力を持てば野心を抱くものだ。野望を燃やすものだ。夢、と、言い換えてもいい。立場、肩書き、権力、力――そういったものが夢を見せる。一度夢を見てしまえば、追わずにはいられなくなる。歯止めが効かなくなるのだ。ハルベルクのようにな」
ハルベルク・レイ=ルシオンがレオンガンドを裏切ったのは夢のためだ、という話をセツナが聞いたのはついこの間のことだ。レオンガンドから、聞かされている。
「その点、君は違うようだ。なぜだろうな?」
レオンガンドのどこか羨ましそうな表情が、セツナにはよくわからなかった。




